強制連行の体験を聞く会
韓 致得さんを囲んで

1996年8月31日、山形市女性センターで行われた「体験を聞く会」で、韓致得(カンチートク)さんは「本当は思い出したくもないが」と前置きし、次のような体験を語って下さいました。

*私は、貧しい家の3男に生まれた。16歳の時日本名に改名させられた。(その後逃亡したので何回も名を変えた)当時、各村から一定の数の「労務者」を日本に送り出さねばならなかった。朝鮮人の「責任者」がそれぞれおかれていた。
私は、「日本に行けばいい暮らしができる」と言われ、だまされて日本に連行された。

着いたのは、岐阜県の浅井田というところでトロッコに乗せられての山の奥まで運ばれた。発電所の工事・トンネル掘りの仕事だった。朝6時〜夕6時までの仕事で、食べ物は芋、大根、麦で米はなかった。私は、8か月してそこから逃げた。
その後飛騨の高山でつかまった(逃亡者は「共和会手帳」を持っていないのですぐ分かる)。そこの工事では、板の上にござを敷きそこで寝せられた。丸太一本がみんなの枕だった。みんなを起こすには丸太を持ち上げるとすぐ起きるしかけだ。38度の熱が出るまで休むことはできなかった。

山形県・小国(現小国町)の長者原の発電所工事にも携わったことがある。1000人程が働いていた。私の仕事はカーバイトの仕事だった。ここでも「共和会手帳」がなく、警察につかまってしまったのだが。そこで、「五十川(現西田川郡?)で訓練すると手帳を交付してくれる」というので行った。炭坑での朝4時起きの仕事だった。私は、また逃げた。

着いたところは、神奈川の予瀬(現津久井郡)。つかまってトラックで中野警察に運ばれた。2畳ほどの狭いところに40人程も押し込められたのである。体を横にもできなかった。その後、川崎(現大田区)でコヤシ汲みの仕事もした。匂いがしみつきひどかった。また、逃走した。18歳になった。山梨県の塩山に来た。仲間の押し入れに隠れさせてもらった。飯台の上に寝せられ叩かれたこともある。そこで終戦になった

友人のある人は特別攻撃隊の一員として死んでいったものもいた。山形市内に他にも連行されてきた人がいる。まともに就職はできないからパチンコや焼き肉をやっている人が多いのだ。仙山線工事で天童にも7人ほどの朝鮮人がいたのだが詳細は不明。銀山のも詳細不明。
現在、73歳。焼き肉の商売もしており、日本人を憎む気はない。とくかく二度とこうしたことをしてほしくない。孫は、北朝鮮にいる。(息子は北朝鮮で死去)。

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