登場人物紹介
『人造人間貂蝉!?』11/23
『呂布 奉先』98/6/15
『王允 子師』7/
略歴:139〜192年。隴西郡の人、黄巾賊打倒のために出兵するが敗北を喫する。その後、涼州に戻ったが、何進の宦官誅殺の詔を受け洛陽に向かう。その途中、帰還する少帝、陳留王を収容し、洛陽に着くと宦官勢力はすでに滅び、宮中を牛耳る。その後、少帝を廃止、陳留王を皇帝に立て、猛将呂布を配下に入れる。しかし、その横暴に反発した、袁紹や曹操らが、董卓討伐軍を組織、戦火を交えるが、不利になると献帝連れだし長安へ遷都する。一方の董卓討伐軍も分解し、董卓の横暴は残虐さを増していく。呂布を見方に引き入れた司徒王允により殺害される。
董卓と聞けば、何を思い出すだろうか。後漢末期において、暴虐の限りを尽くした三國志きっての悪人と記憶してる人が大半だろう。彼は本当にそれだけだったのだろうか?
董卓は隴西郡出身で、若い頃、西方異民族羌族の地方を放浪し、その族長たちと親しくなっていたらしい。涼州にて異民族鎮圧に功績があった。董卓と言えば、粗暴で野心に富む人物のように描かれているが、反面、己の功績も部下に譲る気前の良さで、多くの将士の人望を得ていたという。人望(粗暴も魅力?)が無ければ西方の荒くれ者どもを統制出来るはずも無く、現に呂布や馬騰など猛将が信服している。その後、雍州での韓遂らの反逆を皇甫嵩と共に破り、朝廷は董卓を并州刺史に任命し、皇甫嵩に軍官と兵を預け任地に赴任するよう命じたが、董卓はこれを拒否し、涼州に留まり私兵を有し中央の命令に従わなくなった。そこへ大将軍何進の召集があり、これを機とばかりに応じ、途中で少帝&陳留王を迎え、洛陽入りし、強大な軍事力で朝廷を牛耳る。
こうして政権を掴んだ董卓ですが、彼自身なんの政策も無く、武力のみをもって権力を握り、暴虐の限りを尽くします。それからは皆さんの御存じの通りです。
私見ですが、この董卓の行動は自ら皇帝になるための布石だったのではないでしょうか?腐敗した漢王朝を徹底的に破壊して、新たな新王朝を築く。項羽が秦を倒し、劉邦が漢王朝を樹立したように。しかし、董卓はその志半ばにして呂布の裏切りにて倒れてしまう。目先の利益しか考えない呂布裏切られた時に、こう思ったのではないか「お前にはわかるまい」と。
と書きましたが、実際は「野良犬め、よくやってくれたな」だったようです。
参考・引用・文献
略歴:正史に登場しない人物なので、略歴は演義ベースで書きます。
司徒王允の抱えていた歌姫(娘とも、養女ともある)。歌舞に優れた美女。16歳の時、王允の命で董卓の妾となり呂布の心を操って、董卓を誅殺させる。その後、呂布の妾となる。(董卓誅殺後、自殺とも)しかし、呂布も曹操に攻められて窮地に立つ。自ら撃ってでて窮地を打開しようとする呂布を、正室厳氏ともに「私たちのために出るのはやめて」と引き留める。焦りを忘れようとする呂布の相手をつとめるが、ついに呂布は曹操に殺される。貂蝉は呂布の他の家族と共に、曹操によって許都に送られた。
大半の方はご存じだとは思うが、貂蝉は正史には存在しない人物だ。しかし、その原型となった女性は存在する。丁原を裏切り董卓の配下となった呂布は、その武勇により董卓の信頼を受け、奥御殿の護衛の任にあった。そのとき呂布は董卓の侍女と密通してしまう。この侍女との密通が董卓を裏切った要因の一つなり、呂布を唆した王允とを絡めて貂蝉というキャラクターが出来た。
もう一人の貂蝉のモデルについて。
曹操が呂布を下[丕β]に追いつめたとき、関羽が曹操に秦宜禄の妻を娶りたいと所望した。しかし、曹操は秦宜禄の妻があまりにも美しかったので、自分のものにしてしまったという。
この話から、関羽が貂蝉を娶りたいと話を変えている三國志小説があり、(最初、私はこの話の方を信じていた)秦宜禄の妻がもう一人の貂蝉のモデルとなった。
『三國志平話』における、貂蝉の出自について。
貂蝉は、キン州木耳村の任昂の娘で、幼名を紅昌といい、後に霊帝の宮廷に入るや「貂蝉」(高位高官の意)の冠を司る係りを仰せつけられた。
その後、霊帝から丁原に下げ渡され、丁原が呂布を養子に迎えたとき、これに娶らせたという。
後に、呂布と離ればなれになった貂蝉は、王允に拾われ寵愛された。
以降は「三國志演義」と同じである。
最後に、民間伝承の貂蝉について。
名医華佗が美女達の死体を寄せ集めて完璧な美女として作ったのが、貂蝉だったという話
私見:節操無き裏切りの将のイメージしかなかった呂布が、貂蝉に対する純情さを見せることにより、呂布に人間味を持たせている。三國志演義、唯一のヒロインは華佗の作った人造人間だったって話は、個人的に面白くて好きです。
参考・引用・文献
略歴:?〜198年。五原郡九原県の人。丁原に仕えていたが、董卓と密約を結び丁原を暗殺。董卓と父子の契りを結び身辺を警護したが、些細なことで激昂する董卓に恨みを抱き、また董卓の侍女と密通していたため、身の危険を感じるようになる。その頃、王允に董卓暗殺計画を打ち明けられると董卓を刺殺し、王允と共に政権を握った。董卓暗殺の復讐に燃える李[イ寉]の攻撃に、袁術を頼るが拒絶され、張楊に身を寄せるが、張楊配下に狙われ危険を察知し、袁紹に身を寄せる。袁紹の命で張燕を討伐したが、次第に袁紹に煙たがられ、刺客放たれるがこれを察知し逃げだす。また、張楊に身を寄せる。曹操が徐州に遠征すると、謀反を起こした張バクらによって、[亠兌]州牧として迎えられた。曹操との[亠兌]州争奪戦に敗れ、徐州牧の劉備を頼った。劉備が袁術軍と対峙すると、呂布は徐州を奪い取って刺史を自称した。降伏した劉備を小沛に駐屯させると、押し寄せた袁術軍を、自らの弓の腕を披露して撤退させた。劉備が徐々に力を蓄えると、曹操の元へ敗走させた。また、曹操から派遣された夏侯惇をも撃破した。しかし、劉備と合流した曹操の攻撃を受けると、籠城戦の末、降伏を申し出た。呂布は、なおも曹操に取り入ろうとしたが、劉備の一言でついに処刑された。
「三国志中最強の英雄」であろう。無類の強さを誇り、勇猛な北方の騎馬兵を従え、自慢の方天画戟と名馬赤兎に跨り縦横無尽に戦場を駆け抜ける。その抜群な武勇を買われて、丁原、董卓と主を変え、その武勇を発揮し重宝されるが、丁原、董卓ともに理由は違えど殺してしまう。
ここから呂布と言えば「裏切者の代名詞」として定着しているが、弱肉強食の乱世のおいて、一人の君主に仕えた武将はむしろ少ないだろう。強い者に従い、利あらば裏切り主君を変える。生き残っていくためには必要だろう。
蜀漢を樹立した劉備も行動を見ても、裏切って、裏切って、裏切って蜀漢樹立しているのだから呂布と同類だと思うのだが・・・・
才を愛し、才あらば人格を問わなかった曹操でさえも、呂布の無類の強さを恐れ絞首刑にしたわけだが、曹操が歩兵を呂布が騎兵を率い天下を統一するのも面白いと考えるのは私だけであろうか(裏切らないという前提で)
主を変え、味方を変え、敵を変えてきた呂布の本当の居場所は戦場だけだったのかもしれない。絞首刑よりも剣に生き剣に倒れではないが、戦場で華々しく散ってこそ呂布らしいと思うのは私だけだろうか?
参考・引用・文献
略歴:137〜192年。太原郡出身。後漢の司徒。早くから名望家として世に聞こえ、後漢の三帝に仕えた。帝のみならず董卓も彼を信頼し朝廷の政治を委任した。董卓を呂布と誅殺後、多くの名士が蔡(巛+邑)の才能を惜しみ処刑に異を唱えたが、蔡(巛+邑)を処断した。首尾良く董卓を謀殺したものの、かつての董卓の配下であった李[イ寉]・郭[シ巳]らに長安城を囲まれ、呂布は共に逃れることを勧めたが、これを潔しとせず、反乱軍に捕らわれて処刑された。并州政権と呼ばれる王允・呂布政権は、実にあっけなく崩壊した。
王允と言えば、演義では曹操に宝剣を貸し与えたり、貂蝉を使った「連環の計」が有名だが、実際はどんな人物だったのだろうか。
代々、州郡に仕える名門の家柄に生まれ、彼も周囲の人々から「一日に千里を行く名馬のごとく、天子を補佐する名臣となろう」と評された。19才で郡の役人となり、宦官たちにおもねることなく、あくまで正義を貫いて名声を得た。黄巾賊を討伐して手柄を立てたが、宦官の一人が黄巾賊と通じていることを暴露して獄につながれた。その後恩赦にあい、豫州の刺史に復帰するも、また別の件でで逮捕されてしまう。大将軍何進らのたびたび重なる嘆願でようやく許されたが、宦官の追求を恐れ、姓名を変えてさすらった。霊帝の死後、再び復帰。何進と宦官誅滅を謀ったが、何進は宦官に殺され、その宦官達は袁紹に殺されてしまう。そのとき軍を率いて現れ朝廷を牛耳った董卓の信任を受け、政治のいっさいを任される。首尾よく董卓を誅殺するが、クーデターの後の旧董卓軍問題処理に失敗し旧董卓軍に攻められ処刑された。
名門に生まれ有能且つ清廉で気骨のある人物