コラム
『氏・名・字』
『清流派について』 11/22
『三國志と邪馬台国』 8/16
『どんなお酒を飲んでいた?』 8/22
『赤兎馬とはどういう馬だった?』 8/28
『芙蓉の地「蜀」』 9/30
氏・名・字
呉の周瑜公瑾は、周が性、瑜が名、公瑾が字である。中国では子供が産まれると幼名を与えられ、成人すると二つの名前が与えられ、一つは名(本名)で、もう一つは字(通称)である。本名の他に名前を与えられるのは、東洋では昔から言葉には呪術的な力があるという、言霊信仰があり、やたらに本名を用いると本人に悪影響を及ぼすと思われたからである。でもさすがに漢代になるとその迷信も衰えて、儀礼的なものとして残った。本名を呼ぶのは父親と主君だけであり、それ以外の人、同僚、配下は字を呼ぶのが礼儀とされていた。名と字は同格であり、曹操孟徳や諸葛亮孔明とか書くのはくどくておかしい。それとよく見かけるのが「曹孟徳」とか「諸葛孔明」と名を省略して呼ぶ人がいるが、字(孟徳、孔明)は独立しているので、そう呼ぶなら曹操や孟徳と呼んだほうが良いと思うのだが。知っていて呼んでいると思うけど。
清流派について
三国志の中で清流派の士人???などと出てきますが、一体、清流派とはどういったものだったのでしょうか?清流派について書いてみたいとお思います。
古来、中国では政界(朝廷)の人物評を「清流と濁流」に二大区分する傾向があった。
三國志と邪馬台国
陳寿の書いた『三國志』のうち、「魏書」第30巻に「東夷伝」がある。ここに女王卑弥呼の治める国についての記述があることから、その位置をめぐって、いまだに論争が続いている。
どんなお酒を飲んでいた?
三国志には英雄達が酒を酌み交わす場面がよく登場する。彼らはどのような「お酒」を飲んでいたのであろうか?
赤兎馬とはどういう馬だった?
「人中の呂布、馬中の赤兎」と当時の人々は赤兎馬を評したが、実際の赤兎馬とはどのような馬だったのか?
宦官はその破廉恥な性格のゆえに、濁流の筆頭に揚げられ皇帝の母や后の家族や血縁者である「外威」もこれに属した。
逆に、宦官に反発するものや、陰ながら敵愾心を持つ人々に徳目(「賢良方正」・「直言」・「明経」・「有道」・「茂才」・「考廉」。とくに「考廉」=孝心が厚く、清廉な士)をもって推挙された、地方豪族出身の官僚=「士」はこれらに対峙するものとして「清流」に位置付けられた。これらの人々を「清流派」と呼んだ。
代表的な人物として、李膺、陳蕃、陳ショク、荀爽、韓融、孔融、鍾ヨウ、管寧、荀[或〃]等。
卑弥呼が遼東の公孫氏に朝貢していたのは、220年頃とされている。曹操が死んだ年である。公孫氏が滅ぶと魏に朝貢を切り替え、239年、卑弥呼が魏に使節を送って、親魏倭王の詔書、印綬を受けた。孔明が五丈原に没した5年後のことであった。
公孫淵が滅亡後、高句麗が朝鮮半島南部を席巻。さらに余勢を駆って、日本海沿岸ルートを伝い、「倭(日本、邪馬台国)」をその支配下に置こうと企てた。対呉、対蜀戦に専念したい魏にとっては、そのまま放置するわけにはいかず、正始五年(244)、公孫淵討伐に失敗した幽州刺史・毋丘倹が名誉回復の賭して高句麗討伐を開始した。毋丘倹は大がかりな高句麗征伐を断続的に三年にわたって実施、完全にこの方面(朝鮮半島北半)から脅威を取り除いた。この毋丘倹の高句麗征伐により「倭(日本、邪馬台国)」は息を吹き返すことが出来た。
もっとも当時飲まれていたのは、米などの穀物の粉を水に溶かした”漿”という汁を発酵させた、ドブロクの原型のような濁り酒だった。これを酒場や宴会で飲んでいたわけだが、なにしろ醸造技術も未熟であったため、アルコール分は極端に低く、水っぽいものであったらしい。三国志の列伝の中には酒豪の話しが多いが、酒の強い連中がこんな酒をいくらガブ飲みしても、乱れないのは別段不思議ではないということだ。それでも酒を飲めない人や貧しい人は”漿”を飲んでいたそうだ。また当時の酒はアルコール分が低かったので非常に腐りやすかったらしい。
前漢最盛期の皇帝武帝は、一日千里を奔り、血の汗を流す汗血馬を求めて西方の地大苑(フェルガーナ)へ兵を向けた。小さく、戦闘力に乏しい中国馬では、北方騎馬民族匈奴に対抗できなかったからである。
『三國志』の時代でもその重要性は変わらず、戦乱の時代であるからこそ、高い戦闘力を誇る西方馬が求められた。高い体高、荒々しい気性、そして何より、早く奔り続ける体力と持久力。
その全てを兼ね備えていた赤兎馬に最も近いと考えられる馬が、現在、トルクメニスタン共和国に生息するアハルテケである。
『三國志』の時代から残っている古い品種で、アレクサンドロス大王の愛馬ブケパラもこの品種だったと伝えられる。耐久力が強く、用心深く、御しにくいほど強情で勇敢な馬である。また、体毛の色は栗毛・鹿毛・葦毛があり、深い栗毛であれば「赤」と形容しても不自然ではなく、赤兎馬を比定する馬種としては申し分のない馬だろう。