三国志の故事・成語・戦闘

『坑を掘って虎を待つの計』
『燕雀安んぞ鴻鵠の志を知らんや』 2/25
『街亭の戦い』 8/16
『苦肉の計』 9/5
『[奚隹]肋』 9/12
『人中の呂布、馬中の赤兎』 9/17
『駑馬は桟豆を恋う』 10/9
『左伝癖』 10/19
『仁者は盛衰を以て節を改めず、義者は存亡を以て心を易えず』 10/28
『生死の交わり』 11/4
『水魚の交わり』 11/12
『白眉』 11/26
『忘年の交わり』 12/19
『錦馬超』 12/29
『泣いて馬謖を斬る』 99/2/8


「坑を掘って虎を待つの計」

「坑」は落とし穴の意。曹操は袁術を攻めたが兵糧不足。方向を変えて宛城の張繍征伐に向かう。その時、呂布のいる徐州に近い小沛に劉備(坑にあたる)を残し、内々、この計略なのだと劉備に言って聞かせ、よくよく呂布(虎にあたる)を監視するよう、言いおいた。


「燕雀安んぞ鴻鵠の志を知らんや」

『史記』陳渉世家に見える言葉。人に雇われて農耕をしていた陳渉が、低空飛行の小さな鳥(燕雀)には、おおとり(鴻鵠)のようにスケールの大きい志は理解出来まい、と雇い主に言った。

『演義』では、董卓の暗殺に失敗して逃げた曹操が、自分を捕らえた中牟県の県令陳宮にこの言葉を言い、その志に感じた陳宮は官を棄て、曹操とともに逃亡した。


「街亭の戦い」

建興六(228)年、北伐に出た諸葛亮は、天水・安定・南安の三郡を取ったが、魏は司馬懿と張[合β]を繰り出して反撃する。孔明は、重要拠点である街亭の守備を馬謖に命ずるが、馬謖は山頂に陣を取って、まわりを囲まれ水を断たれ、張[合β]に大敗した。勢いに乗って押し寄せる魏軍十五万の前に、孔明は撤退を余儀なくされた。


「苦肉の計」

 赤壁の戦いの時、呉将黄蓋は、わざと罰せられて背中を叩かれ、ひどい傷をを負った上で、曹操に「投降したい」と申し入れた。曹操を信用させて、一気に先制攻撃をしかけようという周瑜との共同作戦である。曹操もさる者、「苦肉の計で私を騙そうというのか」と言うが、使者のカン沢が見事に曹操を言いくるめ信用させた。正史には見えない。
 わが肉体を苦しめるので「苦肉」である。日本では普通「苦肉の策」と言い、追いつめられた状態で、何とか打開しようとするようなニュアンスで用いられることが多い。


「[奚隹]肋」

 ニワトリの肋骨は、ごくわずかに肉が付着しているが「肉を食べる」というほどはない。しかし、いいスープが取れるのは確かである。漢中をめぐって長期の対陣をした曹操と劉備。曹操は引き上げようとすれば、蜀に笑い者にされようし、漢中という土地にも未練がある。さりとて、この先いくら対陣していても、絶対に勝利できる見込みもなし、どうしたものかと思案していた。ある日、食事の際、椀の中のニワトリの肋を見て、感じるところがあり、軍令を聞きに来た夏侯惇に向かって、思わず「[奚隹]肋と言った。その謎のような軍令を解いた主簿の楊脩を、曹操はただちに処刑したが、これは前々から自分の真意を見抜く楊脩を殺そうとしていた曹操が、そのチャンスを得たのであった、と説明されている。
 出典は『後漢書』楊脩伝。普通には、「たいしたものではないが、捨てるとなると惜しい気もする」の意として用いられる言葉である。
 


「人中の呂布、馬中の赤兎」

 ほめ言葉。虎牢関の戦いの際、紫金(赤銅)の冠をかぶり、紅錦の陣羽織、獣面呑頭の模様の鎧を身につけ、獅子の模様の玉帯をきりりとしめた呂布が赤兎馬に跨った見事な様を、地の文で評している。この言葉は陳寿の『魏志』呂布伝に引かれた『曹瞞伝』に、「人中に呂布有り、馬中に赤兎有り」と見えるもの


「駑馬は桟豆を恋う」

 下等な馬は、それにふさわしい、かいばおけの豆を恋しがる、という意で、司馬懿がクーデターを起こした時、「知恵袋」というあだ名の桓範が洛陽を脱出して、曹爽のもとに走った。その時、太尉の蒋済が、「下等な曹爽には、かいばおけの豆がふさわしい。どうせ桓範の知恵を用いられませんよ」と言った。
 *『魏志』曹爽伝の注に引く干宝の『晋書』に見える言葉である。


「左伝癖」

 晋の鎮南大将軍杜預は、『春秋左氏伝』を愛読し、片時も手放さなかったので、時の人はこれを「左伝癖」と言ったと演義にある。
 『晋書』杜預伝によると、杜預は司馬炎に「王済は馬癖(馬に凝るクセ)が、和[山喬]には銭癖(金におぼれるクセ、彼は極度にケチだった)が、私には左伝癖がございます」と、自分でそう言ったように記されている。


「仁者は盛衰を以て節を改めず、義者は存亡を以て心を易えず」

 徳義がしっかり身に付いている人間は、繁栄・衰退、あるいは死ぬか生きるかの時でも、おのれの節義を変えたりはしない、という意。曹爽一味が司馬懿のクーデターで皆殺しにされた時、曹爽の従弟曹文叔に嫁いだ夏侯令の娘は、ずっと前から未亡人だったが、何としても再婚を承知せず、耳・鼻を自ら切り落として節をたて、この言葉を家人に言った。司馬懿はそれを聞いて、彼女に養子をもらって曹氏のあとを継ぐことを許した。
 『魏志』何晏伝のあと注に引く、皇甫謐の『列女伝』による話。


「生死の交わり」

 呉将リョウ統は座下の馬を射られて転倒、あわや魏将楽進の槍に刺されようという時、甘寧の放った矢が楽進の顔面に当たり、命が助かった。実は甘寧は呉に降る前は黄祖の武将として呉軍と戦い、リョウ統の父リョウ操を射殺した人物だった。リョウ統はそれまで父の敵として甘寧に殺意を抱いていたのだが、このことで和解し、生死をともにしようという固い交わりを結んだ。


「水魚の交わり」

 劉備が諸葛亮(孔明)を得て、「私が孔明を得たのは、魚が水を得たようなものだ」と語った。これは臣君がきわめて親密であることのたとえ。


「白眉」

 荊州を得た劉備に、幕客の伊籍が馬氏の兄弟を推薦した。その五人兄弟の中で一番賢人であるとされた馬良の眉に白毛が混じっていたので、多数の中で最もすぐれた人物のことを「白眉」と呼ぶようになった。


「忘年の交わり」

 お互いの年齢の上下を忘れ、人と人とが互いに尊重しあう関係を結ぶことをいう。魏の陳泰は、自分よりすっと年齢が下の[登β]艾が、五つの理由をあげて、蜀の姜維が進攻してくるであろうとの見通しを述べたのに感服し、「忘年の交わり」を結んだ。


「錦馬超」

 西涼の馬超に対するほめ言葉。威風堂々として体格も立派な馬超が、獅子頭の兜をかぶり、獣の面を模様とした帯をしめ、白銀の鎧をつけ、白の直垂を着けてのさっそうの登場に、劉備が「錦馬超とはよく言ったものだ」と感嘆した。




「泣いて馬謖を斬る」

 街亭の守備に失敗した馬謖を軍律にてらして、涙をふるって処刑したあと、その首を見てひときわ激しく泣き出した諸葛亮(孔明)。成都からの使者阿蒋[王宛]が理由を問うと、孔明は、「先帝(劉備)が、『馬謖は言葉だけで実体のともなわぬ人間だから、重く用いてはならぬ』と遺言された通りになってしまった。深く我が身の不明がうらめしい」と答えた。


参考引用文献