上杉家史跡

上杉謙信公 上杉謙信公像。
上杉謙信(1530〜1578)
戦国時代の武将。越後を領し、加賀・能登に勢力を張る。長尾為景の子。
初名は景虎。上杉憲政から上杉氏を受領して春日山城に居る。のち輝虎と改め、剃髪して不識庵謙信と号。義侠に富み、兵略に長じ、しばしば小田原北条氏および武田信玄と戦った。

赤:生涯を義のために戦った世にも希な武将上杉謙信、個人的に柴田恭兵のイメージがあります(笑)


上杉鷹山公 上杉鷹山公像。
かつて米大統領ジョン・Fケネディが記者会見の時、「尊敬する日本人は?」との質問に「上杉鷹山」と答え、記者団をびっくりさせたことがあります。
上杉鷹山は第九代米沢藩主。米沢藩は、三代網勝公の急逝二より十五万石に減封されました。藩財政は逼迫し、八代重定公は幕府に封土の返納を決意したほど。この救いようもない窮乏期に高鍋期から養子に迎えられ、十七歳で藩主となったのが治憲(鷹山)です。治憲は大倹の断行を誓い、自ら一汁一菜を実行し改革に着手しました。新領主への反感や老臣たちの大家意識を克服し、武士といえども時には刀を鍬に替えて国を養うことを自ら実践しました。農民の援助、殖産興業、開拓、水利事業など勤倹を旨とする民政の安定、経済の復興を図り、三十五歳で治広公に家督を譲ってからも生涯藩政の安定に心をくだいた名君でありました。

赤:過去「知ってるつもり」で取り上げられ放映さたときに、鷹山公ことを初めて知りました。藩政改革をするために、若くして隠居(参勤交代を避ける為)する覚悟って凄いと思います。それだけ藩政改革の必要性に迫られていたんでしょう。石高が15万石に減封後も、30万石時代と同じ人数の家臣を登用していたってのも謙信公以来の名門意識だったんでしょうね。その根本から改革する鷹山公は並大抵の苦労では無かったはずです。


上杉神社 上杉神社
上杉謙信公を祭神として、毎年4月29日に例大祭が行われています。
旧米沢城奥御殿跡に建てられ松岬公園の中央に位置しています。
謙信公は武田信玄との壮烈な川中島合戦のあと、天正6年(1578)3月13日越後山城中で逝去されました。慶長6年(1601)景勝公の米沢移封に伴い遺骸を米沢城に移葬されました。

赤:上杉神社に行ったときは平日で雨が降っていたにもかかわらず、上杉神社への客足が途切れることはありませんでした。観光名所として有名なところです。


宝物殿(稽照殿)(画像撮るの忘れた):大正12年、上杉神社再建時、宝物殿として創設したもので、神殿と調和した日本風の重層建築です。
謙信公を主に、直江兼続公、鷹山公の遺品を中心に平安時代から江戸時代までの甲冑、武具、刀剣、絵画、書跡、仏具、陶磁器、服飾類など多種多様を収蔵展示。その数は、重要文化財132点、県文化財8点を含む1000点以上にのぼり、東北一の規模を誇る。

赤:宝物殿の中はやはり写真及びビデオ撮影禁止でした。謙信公の紙で出来た陣羽織?や直江兼続の兜飾り「愛」兜、甲冑一式や武具、刀剣等が展示されて戦国時代が好きな私は大変興味深かったです。
個人的には直江兼続の兜飾りが「愛」の兜を見られただけで満足でした。(笑)

直江兼続の兜飾り「愛」について:一様、調べて見たのですが、分かりませんでした。す、すいません
正確なことはわかりませんが、おそらく神仏に帰依していた謙信公の薫陶を受けて育った直江兼続ですから、謙信が毘沙門天の「毘」を旗としたように、兼続は「愛染明王」の「愛」から取ったのではないかと思われます。間違っていたなら申し訳ない。

愛染明王について:動かざる尊者の意。五大明王・八大明王の一。仏典では最初、大日如来の使者として登場し、やがて大日如来が教化し 難い衆生を救うために忿怒(フンヌ)の姿を仮に現したものとする。普通、一面二臂で、右手に降魔の剣を持ち、左手に羂索 を持つ。矜羯羅(コンガラ)、制多迦(セイカタ)の二童子などを従える。不動尊。無動尊。

春日神社 春日神社
祭神:武甕槌命(たけみかづちのみこと) 
経津主命(ふつぬしのみこと)
天児屋根命(あめのこやねのみこと)
比売神(ひめがみ)
の四神を祭っています。
藩祖謙信公が奈良の春日大社から分霊し、越後の春日山城に春日明神を創立した。上杉氏の会津から米沢への移封に従って、元和3年菩提寺の林泉寺境内に遷座、上杉氏の氏神となる。明治になって、大乗寺邸に移り、大正8年の大火で焼失したため松岬神社に合祀された。昭和56年、上杉神社南側の旧鎮座地に再建立され、遷座した。

赤:上杉神社の正面より左細道を通ったところに、ひっそりと建立されてました。おそらく観光コースから外れているので、一般観光客の大半は見逃して行っていると思います。現に私以外、ここに来た人は見なかったです(苦笑)


上杉記念館 上杉記念館
旧上杉伯爵邸。
元二の丸で祠堂勤仕の寺院があった場所に造営されています。
明治29年、上杉氏14代茂憲伯爵邸として建設され、鶴鳴館と呼ばれていました。
戦前は皇室が宿として利用、戦後は公民館等に利用され、今は上杉記念館になっています。
郷土料理、献膳料理などを提供。歴史資料等も展示しています。

赤:普通は正面門より上杉記念館に入場するはずなのですが、私は場所が分からず適当に脇道から庭の方に進入し、出たところが上杉記念館でした。(笑)
諸事情により入館はしませんでしたが、東京の浜離宮に倣って造られた庭園はは素人目にも素晴らしいと感じました。


御廟 上杉家廟所
米沢藩主上杉家の墓所。
元和9年(1623)3月20日上杉景勝公逝去の折り、廟所として造られ、初代謙信公から12代斉定公まで埋葬されています。謙信公の尊骸は、米沢城の解体に伴い、当廟中央に移葬されました。

赤:画像は中央に位置する謙信公の御廟です。
謙信公御廟に御焼香をし、御廟全てに冥福を祈ってきました。
謙信公を中心に左右交互に廟が建てられてました。私が御廟全体を見て思ったことは、全ての廟が地味(飾り気がない)と感じました。何故だろうと思いパンフを見ると「上杉家古来の質実剛健をの家風を現し何の装飾もない」とのこと、上杉家の家風と知り納得しました。
注:中央に写っている白いのはエクトプラズムでは無く、線香の煙ですよ(笑)