(アピール) 史実をゆがめる「教科書」に歴史教育をゆだねることはできない
 「新しい歴史教科書をつくる会」(以下、「つくる会」)の人びと
がつくった「歴史教科書」(二〇〇二年度から中学校で使用)をめ
ぐって、「強者の論理に終始」、「過去の歴史を歪曲」など、いま、
その内容を危惧する声が内外からあがっています。
 「つくる会」の人びとは、一九九〇年代半ばから、現行の歴史
教科書を「自虐的だ」と非難する運動をおこし、「自国の正史を回
復するため良識ある歴史教科書」をつくると宣言してきました。
そして、二〇〇〇年四月、自分たちがつくった「教科書」の検定
を文部省に申請しました。他方、まだ検定申請中であるにもかか
わらず、執筆者や発行元は、いわゆる「白表紙本」をテレビで見
せたり、採択を促すために事前の学校訪問をおこなったり、さら
に地方議会の決議を求めるなどの運動をおこなってきています。
 私たちは、所定の手続きをへて教科書を発行する権利自体は、
誰もがもっていると考えています。しかし、歴史教科書はもとよ
り、いずれの教科の教科書でも、教科書であるならば求められる
べき最低の基準があるはずです。それは、少なくとも「教科書に
虚偽・虚構があってはならない」ということではないでしょうか。
 一八九〇年前後から一九四五年の敗戦にいたるまでの日本では、
国家や軍の機密、あるいは皇室に関することは、たとえ事実であ
っても、自由に話したり、記録して公表したりすることができま
せんでした。歴史教育の目的は、天皇に忠義を尽くす「臣民」を
つくることであり、歴史教科書は子どもを「臣民」の鋳型にはめ
るためのものとされました。これに合致しない事実は退けられ、
架空の物語が日本の歴史教育の根幹を占めました。こうしてつく
りあげられた独善的で排外的な意識や思想にもとづいて、日本と
日本人は戦争をくりかえし、内外に多大の犠牲を強い、ついには
あの惨たんたる敗戦を迎えるに至ったのです。私たちは誤った歴
史教育がはたしたこの重大な役割を忘れることができません。
 ところが、いままた、架空の物語によって子どもたちを教育し
ようとする「歴史教科書」が、この日本に登場しようとしている
のです。「つくる会」の「歴史教科書」については、新聞などです
でに報道されているように、さまざまな批判がおこなわれていま
すが、
私たちは、とりわけつぎの二点について注意を喚起するも のです。  第一は、
記紀神話をあたかも歴史的な事実であるかのように記
述していることです。たとえば「神武天皇の進んだとされるルー
ト」を地図入りで示すなどして、「神武東征」をあたかも歴史的な
事実であるかのように描いています。また、学問的な研究をいっ
さい無視して、「神武天皇即位の日」を「太陽暦になおしたのが二
月十一日の建国記念の日」であるとまで書いているのです。
 全国の学会・個人によって構成されている日本歴史学協会は、
一九五二年から今日まで、一貫して「紀元節の復活」に反対しつ
づけてきていますが、それは学派のいかんを問わず、神話を歴史
の事実とすることはできないという歴史研究者・歴史教育者の共
通の認識があってのことです。
第二は、
近代日本のあいつぐ戦争を正当化しているばかりでな
く、「大東亜戦争」はアジア解放のための戦争だったと描いている
ことです。日本はイタリアやドイツと同盟を結んではいたが、ム
ッソリーニのファシズムともヒトラーのナチズムとも違い、人種
差別反対を国の方針としていた、「大東亜会議」の際の「大東亜共
同宣言」(一九四三年一一月六日)は、一九六〇年の国連総会での
植民地独立付与宣言と同じ趣旨のものであった、とまで書いています。
 
しかし、大日本帝国が一九四五年の敗戦を前にしても、なお「朝
鮮ハ之ヲ我方ニ留保スル」との方針をとり、あくまで朝鮮を植民
地として維持しようとしていたことは、日本政府が公表している
文書からも明らかです〔一九四五年五月一四日、最高戦争指導会
議構成員会議「対ソ交渉方針」(我譲渡範囲)〕。こうした事実を無
視して、大日本帝国があたかも「植民地解放の旗手」であったか
のように描き出すのは、まさに歴史をゆがめ、「現代の神話」をつ
くりだすものと言わざるをえません。
 敗戦後の日本の歴史学・歴史教育は、国民を戦争へと導くのに
大きな役割をはたした戦前の歴史学・歴史教育のあり方に対する
深い反省から出発し、多くの学問的な成果をあげてきました。「つ
くる会」の「教科書」は、歴史の真実をゆがめるばかりでなく、
こうした歴史学・歴史教育の学問的な達成を真っ向から否定する
非科学的なものでもあります。
 私たちはこのような「教科書」を日本政府が公許し、それが採
択されて、子どもたちの歴史教育に供されることは、まさに敗戦
に至る戦前のあの独善的な歴史教育の復活に道をひらくものだと
考えます。同時に、教科書検定基準に「国際理解と国際協調の見
地から必要な配慮がなされていること」との一項を設けた日本の
国際的な約束に背くばかりか、平和と民主主義を希求する世界、
とくにアジアの世論に挑戦するものであり、日本を国際的な孤立
に陥れるきわめて危険なくわだてにほかなりません。
 私たちは、歴史研究者・歴史教育者としての自己の良心にもと
づいて、このような「教科書」が登場することに対する深い憂慮
を、広く日本の内外に表明するものです。

 二〇〇〇年一二月五日

呼びかけ人(五〇音順)
朝尾直弘  甘粕 健  網野善彦  荒井信一  粟屋憲太郎  猪飼隆明  
石躍胤央  伊藤康子  井上勝生  入間田宣夫  岩井忠熊  江口圭一 
笠原十九司  糟谷憲一  門脇禎二  鹿野政直  木畑洋一  君島和彦 
木村茂光  木村 礎  工藤敬一  小沢 浩   小谷汪之  小林昌二 
小松 裕  佐々木潤之介  佐藤宗諄  鈴木 良  高沢裕一  田港朝昭  
堤啓次郎  戸沢充則  直木孝次郎  中塚 明  永原慶二  西川正雄 
橋本哲哉  浜林正夫  林 英夫  広川禎秀  藤木久志  古厩忠夫 
松尾尊~  松島榮一  丸山雍成  丸山幸彦  峰岸純夫  宮城公子 
宮田節子  宮地正人  村井章介  安井三吉  安丸良夫  弓削 達 
吉田 晶  吉田伸之  吉見義明  渡辺則文  和田春樹  脇田晴子
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