原告 檀蔭春さんの意見陳述(山形地裁にて:05.3.22)
1.私は、檀蔭春と申します。本日は、私を初めとする中国人原告のため、このような法廷を開いて頂いた裁判所に対し、心から感謝申し上げます。これから、少しお時間を頂いて、原告及び今から60年前に起きた強制連行・強制労働事件の中国人を代表して、意見を述べさせて頂きます。
2.私は、中国の河北省刑(右がこざとへんが正)台市任県で生まれ、今もそこで住んでいる者です。年齢は現在84歳ですが、中国で捕まり日本に連れてこられた当時は、24歳でありました。
3.私は、1944年のある日、刑台駅で、突然刑台老工協会の中国人に捕まりました。そして、捕まる理由を伝えられず訳も分からないまま、日本人機関や警察署に連れて行かれ、そこで拷問を受けたり監禁された後、刑台西刑務所へ連れて行かれました。
そこで1か月監禁された後、同じように捕まってしまった中国人26名と一緒に、1本の紐に3人ずつ縛られながら、汽車で塘沽収容所へと送られました。
4.塘沽収容所は、日本人が管理していて、周囲は鉄条網で囲まれていました。粗末な綿の服を支給されましたが、寝る時は取り上げられてしまい、11月に入っているのに冷たい板の上で裸で寝せられました。
半月くらいの間にだいたい200人ぐらいの中国人が集められ、1944年11月下旬ころ、その中国人ん全員が塘沽港から船に乗せられました。その時は、次はどこへ行かされるのか、何をされるのか分からず、不安で不安で仕方がない状態でした。
5.船に連れ込まれた私たち中国人全員は、船底に押し込まれました。船底は、石炭が積んであり、その上に藁を引いた程度のところで、私たちは、そこにぎゅうぎゅう詰めにさせられました。食べ物や水も途中からなくなったため、食べ物がのどを通らない状態となり、また、船酔いで吐く物がありませんでした。
6.21日くらいの航行の後、船はやっと港に着きましたが、着いて初めてここが日本だと知りました。
港に着いてから、私たちは、副を脱がされて風呂に入れらされ、消毒し、着替えをさせられました。そして、何をするのか教えてもらえないまま汽車で3日くらいかけて移動させられ、着いたところが酒田だったのです。
7.酒田に着いてから3日ほど休んだ後、私たちは酒田港の現場で働らかされるようになりました。
朝6時ぐらいに、酒田港に行き、鉄のカゴで船から石炭を降ろし、その降ろした石炭を竹カゴに入れ、それを担いで列車へ運んだり、船に積んである石炭以外の荷物、袋入りの大豆とかだったと思いましが、それらを背負って船から降ろしたりして、それを列車まで運んだりしました。
お昼には現場で蒸しパン2個を与えられましたが、不十分なままで午後も同じような仕事をさせられ、それが夜8時から10時くらいまで続けられました。休日などなく毎日同じような仕事が続きました。私たちは、いつも疲れ切っていたのですが、仕事を監視する日本人は、早く仕事をしろと言い、少しでも仕事が遅れたり、ミスをしたりするとすぐ殴りました。
8.寝泊りは、中国人の宿舎でしたのですが、入り口には詰め所のような所があり、警察のような人たちが常駐していたので、常に監視させられた状態でした。
また、寝る時は、10数メートルくらいあるベッドに、20人くらいが1列になって寝ていました。床は、藁を引いた板でできていたので、蚤が氾濫して寝られない日もありました。宿舎にお風呂はなく、一度も入ったこともありません。夏に海で水浴びするしかありませんでした。
食事は、1日3食、1回につきタバコの箱くらいの大きさの蒸しパン2個しか与えられませんでした。当然これだけでは到底足りず、海に行って海草をとって食べていたこともあったのですが、海で溺れそうになったこともあり、それもできなくなってしましました。
酒田に来たときには、粗末な麻の服を渡されましたが、それ1着しかないので洗濯をすることもできず、夏の日も冬の日も着続けていました。履物については、真冬でも素足のまま自分で作らされた藁草履を履いていただけであり、作業中、石炭のかけらが草履に入り込んで足が血だらけになりました。その時の傷痕は今でも足に残っています。
9.このようにとても酷い環境だったからでしょうか、1945年の2月には、そこから逃亡を図る者が人も出ました。しかし、どこに行けばいいのか分からない真冬の土地だったからでしょう、結局その3人は、列車に轢かれて死んでしまいました。また、別に逃亡を図った者は、捕まってしまい、日本人から思い切り殴られ瀕死の重傷を負っていました。
私と同時に酒田へ来た中国人は、200人くらいいたのですが、酒田へ来てからたくさん死んでしまいました。同じところから日本に連行され、一緒に働かされていた宋増林さんは、1945年7月に倒れて動けなくなり、どんどん痩せていったのに、何も治療を受けられないまま、8月に死んでしまいました。このように、病気になっても何も治療してもらえず、どんどん病気がひどくなって死んでいく者もたくさんいたのです。
私も、このままでは辛くて死んでしまった方が楽なのではないかと思うようになっていました。
10.1945年8月、戦争が終わったらしく、私たち中国人が働らかせられることがなくなりました。これで生きて帰れる、家族とやっと会えるとホッとしたのを覚えていますが、すぐには帰れませんでした。ようやく冬になって長崎の港からアメリカの船に乗り、中国の塘沽港に戻ってくることができました。そこから徒歩で家まで帰り、私は1946年1月にやっと家にたどり着きました。
刑台西刑務所に入れられた後に、私の家族は、私を救うためにいろいろな方法を考えました。まず、親戚に、刑務所の人へお金を渡して私を釈放してもらえるように頼みました。当時2万元を支払ったら私を釈放するという約束でした。家族は、早速家に帰って、全ての財産と土地を売り、やっと2万元のお金を作りました。その後、お金を刑務所の人に渡したのですが、その時私は列車に乗せられてしまっており、解放されることはありませんでした。結局、私たち家族は、全ての財産を失った上、私が日本に連行されるのを防ぐことができなかったのです。
また、私の妻は、私がいなくなったショックで、私たちの娘とともに食事ができない状態となり、目が見えなくなってしまいました。その時妻は24歳だったのに目が見えなくなってしまったのです。その後の治療で、右目だけは回復したのですが、左目は結局回復することはありませんでした。また、1960年には、妻の右目はまた悪くなり、結局右目も見えなくなってしまいました。
その後、私は、銀行で働くことができましたが、1960年に妻の目が悪くなってしまったために、銀行を辞めなければならなくなってしまいました。一緒に妻の目の病気と闘ってきたのですが、その妻も、1997年に死んでしまいました。
11.私は、60年もの間、日本での強制労働の苦しみ、それから帰国後の苦しみに耐えてきたのですが、日本は結局私たちに与えた苦痛に何もしてくれませんでした。ここ最近裁判をして闘っている人の話を聞いて、裁判で日本に謝罪などを求めることができると知り、今回60年という機関を経て裁判をさせて頂くことにしたのです。
もし、私たち中国人が無理矢理日本に連行され、働かせられることがなかったら、どんな人生を送ることができていたのでしょうか。もっと平穏な気持ちで生活できたのではないでしょうか。列車に轢かれずに今なお元気に生きていたのではないでしょうか。怪我をっしてその後遺症に悩みながら生活せざるをえないということはなかったのではないでしょうか。妻の目が見えなくなるということなどなかったのではないでしょうか。全財産を失うことはなかったのではないでしょうか。
以上、私が話したことは、全て私の目で見たことと私の経験したことであります。全て事実であります。私が話した内容は天と地が証明してくれます。
私は、裁判官にお願いします。私たちが受けたこの苦しみをどうか理解して頂き、公正な立場で本当に正しい判断をして頂きたいのです。
原告とその他大勢の被害者を代表して、以上のとおりご意見を申しあげます。
以上
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