李素珍さんは、「被害者本人が原告に」の方針のために原告にはなっておりません。
酒田に連行された李紹永さんの娘(遺族)です。(訳:高橋幸喜氏)
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は、李素珍といいます。女で中華人民共和国国民です。中国開欒有限責任公司熱電分公司の労働者です。日本に強制連行された李紹永の娘で、中国河北省唐山市古冶区に住んでおります。現在日本に強制連行された中国労工聊誼会理事、唐山分会会長をしております。

 ここに、私は、怒りと悲しい思いで多くの日本国民と日本政府に日本軍国主義による中国侵略戦争が私の家族と全中国人民に及ぼした災難、罪悪について訴え、明らかにしたいと思います。

 私の父親・李紹永は河北省唐山の人で、1924年3月18日、河北省樂県巍峰後村で生まれました。盧溝橋戦争勃発後、父は祖国を愛するすべての同胞と同じように、抗日救国運動に参加しました。鉄道の駅での物資輸送の仕事を利用して、抗日武装勢力のために、当時侵略日本軍に厳しく禁じられた抗日根拠地への軍需物資及び薬品や文具などの購入、輸送を行っていました。

 は、裏切られて1944年9月、当時雷庄拠点駐留の日本軍に家を包囲されて庭の藁山の中から捜しだされ、八路軍の状況を問いだされて拷問を受けました。父は、歯をしっかり噛んで何も言いませんでした。怒った日本兵は、茶碗の太さの木の棒でいきなり父の頭を殴って血が噴き出し地に昏倒しました。
残虐な日本兵は、父の両手を縛り馬の尻尾にしばりつけて雷庄の拠点までひっぱって行き、監禁し尋問しました。

         の母、陳玉芬は、この様子をみて、何もかえりみずに夫のところに駆け寄りました。日本兵らは、前に出て鉄杷で何回も殴り母を地に倒して気を失わせました。この時母は、妊娠していて6か月以上でこの殴打をうけて、翌日双子の男の子を早産しました。2人の子は相次いで死亡しました。
 子を失い夫を失って、母は飲むことも食うこともしないで泣き続け精神的に異常をきたしました。

は、いつも夜中に起きて街中を走っては叫びました。”わが子を返せ、夫を返せ”と。母は、こういう災難を経て精神に異常をきたしたばかりでなく、その後子どもを生めない身体になりました。

 1958年になって、生後50数日の私を養女として育て始め、母の病気は次第に回復するようになりました。私は、日本軍国主義がわが家に及ぼした生涯の苦しみは、死んでも忘れられません。

 父が、雷庄拠点に捕らえられて、しばらく監禁された後、天津・塘沽の冷凍公司に連行、監禁されました。1944年12月に日本酒田港に連行、労工にされました。酒田での悲惨な体験については、私は小さいときから何回も父から聞きました。その屈辱の日々に、労工たちは人間らしい生活を送れませんでした。

 むところは、寒くて湿気が多く、低い木製の小屋に住んでいて、冬には寒い風が骨を刺すようで、1枚の薄い毛布で夜には布団にして、昼は服のかわりに身体にまきつけ、履物は藁で作った草履で労工たちの足は痛んで血豆ができたり凍傷になったりしました。食べ物は、どんぐりでつくった饅頭で腹一杯にはとてもなりません。毎日12時間以上の港の積み下ろし作業が多いとときは徹夜で働かされました。

の日も風の日も働かされました。殴られることは、労工たちにとって、茶飯事で仕事中ちょっとうっかりすると、ひどく殴られました。父は、私に欒県宋児林の威聖雨、曹家河の曹老五(曹龍治)、黄家河の馬桂林たちが、虐待にたえられずに逃走して汽車に圧死され、労工たちへの見せしめにされたこと等を父は話してくれました。

 は、これらのことを生涯忘れられません。
 彼らに代わって、日本政府と加害企業に正義(公道)と尊厳を返してもらい、彼らの魂を慰め、養育の恩に報い、娘としての孝行と責任を果たしたいと思います。

 は、父親たちの願いを実現するために、1995年からずっと努力をつづけてきました。良識ある日本の皆さんと団体に感謝します。「考える会」の友人の皆さんの支援と援助に感謝いたします。

害者が必ず歴史を正視して歴史の責任をになって、ドイツを見本として、被害者及び遺族に謝罪し賠償されるよう、そして世界の人々の理解を得て真の中日友好の実現のために努力されるよう求めたいと思います。

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李紹永さんの拉致と強制労働の場合を「娘」さんが証言