中国人強制連行事件の真実を広げ、平和と友好の輪を広げよう
1998年5月26日
酒田・中国人強制連行を考えるつどい
酒田港中国人強制連行事件は、戦後50余年にしてようやく明らかにされつつあります。
338名の強制連行の実相は、極めて鮮明になっています。44年12月18日酒田到着の第一陣200名は、ほぼ河北省の農民、労働者、商人などで、日本軍の「労工狩り」作戦によって拉致され、縄で縛られて貨車詰め、あるいは犬に追い立てられての連行でした。
第二陣138名は、翌年5月、東京港湾からの連行で、山西・山東・河南省などの、多くは抗日軍民の捕虜でした。

2年、3年にわたる中国国内での連行、虐待のうちに生き延びた477名が44年8月天津・塘沽港を出港、船中死亡
10名、東京港湾到着後短期間のうちに129名が死亡(乗船後139名、死亡率29%)、酒田への138名はそこからの再連行でした。
いずれも牛馬にも劣る残虐な連行であり、残された家族は路頭に迷い、一家離散などの境遇に突き落とされました。

酒田港では、臨港線沿いに塀で囲まれた「板張りの大きな芝居小屋のような中二階」の収容所に、華工管理事務所の手で、また正面脇の警察官派出所による厳重な監視下に強制労働を強いられました。当時の酒田港はもとより酒田市は、県内一の軍需工業地帯として、1600名以上の軍隊が駐屯し軍事要塞化されていたと言われます。中国人は、民族蔑視とこの軍事支配のもとで、飢えと寒さ、重労働にさいなまれました。

「一日300〜350グラムの食事でおかずは何もなく、いつも腹ぺこで、それなのに重労働をさせられた」と被害者は苦痛にみちた証言をしています。石炭や岩塩などの戦略物資の荷役労働は、当時厳しく危険な重労働でした。当時の嘱託医によると6割が栄養失調で、皮膚や眼の病が広がり、肺炎などの疾病による23名を初め31名が死亡しています。虐待にたえかねた3名(4名とも)が」塀を乗り越えて逃亡し藤島駅手前300メートルで人間とは判別つかない状況で轢死します。

侵略者の手で、侵略者の国に拉致され、無念の死をとげた中国人の思いはどんなものだったでしょうか。遺骨は、全部持ち帰られたことになっていますが、未だに、その死さえ知らされず遺骨も手にしていないという悲痛な手紙がいくつか寄せられています。

中国人の強制連行は、昭和17年11月の東条内閣閣議決定に始まると言われ、朝鮮人の強制連行につぐ、政府、企業、軍一体となった野蛮な犯罪行為であります。しかし、戦後50余年の今日にいたるも、政府自身による事件の解明と被害者への謝罪、補償は何一つ行われていません。むしろ証拠隠滅に血道をあげ、侵略戦争の合理化、美化勢力の動きも激しさを加えています。そしてアジア諸国民にとっては、最近の日本の軍事的脅威とともに不信の念を強めるものとさえなっています。

私たちは、この酒田に集い、強制連行の歴史的事実に真正面から向き合い、平和と真の友好を共に考え、広げてゆくことを呼びかけたいと思います。

1:事件の解明を急ぎ、記録に残すために多くの人々が力をあわせよう。とりわけ酒田市は、海を隔てた中国・唐山市とは友好都市ですが、その地から第一陣の半数以上104名が連行され、また「三光作戦」がその地でも展開され
ているという事実を重視して友好交流をすすめましょう。

2:事件の解明を通じて、国家責任と国家による被害者への謝罪、補償の実行をせまって行きましょう。そのために全国的な交流をすすめましょう。

3:酒田の地で失意のうちに亡くなった31人の方々の慰霊や日中不再戦・友好のとりくみを各界の広範な市民の参加のもとにすすめましょう。

4:私たちは、今日の「集い」を機に、「酒田・中国人強制連行を考える会」をつくり、平和と友好の運動を県内全域におよぼす、継続した活動をすすめてゆきたいと思います。多くの方々の参加を呼びかけるものです。

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酒田の地からのアピール