中国・唐山市・曹月英さんからの聞き取り
(注)@98年11月9日に唐山のホテルで聞き取りをしたもの。

父が連行された
@今回の調査には、山形市の加藤實弁護士を団長にして計5人が参加した。
A中国名の問題もあり今のところ仮の訳としておく。
B曹月英さんは、娘さんにあたる。
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Q:忙しいところをきていただいてありがとうございます。
       私どもも、あなたのお父さんが山形(酒田)に強制連行されたということを知っ 
       たのはつい最近なのです。酒田の港からは338人の方が強制連行されたので 
       した。その内、31人の方が亡くなられました。酒田の地で。あなたのお父さんも
       この31人の中の一人でした。
曹:   ……。(じっと聴く)
Q:今年2月11日、あなたからお手紙を頂きました。。そこで曹さんが、お父さんが
    亡くなられた年にお生まれになったことを知りました。
曹:いいえ、43年とすると、生まれてから2歳の時に亡くなったのです。
Q:ああ、そうですか。亡くなられた時は、2歳だからお父さんのことは何も知らない・・。
      あなたのお母さん・ハン・ゼンオンさんが大変苦労されて…。
曹:父のことは母から聞いています。父は石炭の仕事をしにいきましたが、途中で日本兵
    に捕まりました。その時から父がどこに、何をしに行ったか分からなくなりました。
    普通は4時頃に帰るのに、夜になっても帰りません。他人の話しによると、日本軍に
    縛られて何か缶詰みたいな車で運ばれていったということでした。
Q:その他、あなたのお父さんのことについて、お母さんから聞いておられることはあ 
     りませんか。
曹:中国の東北地方へ連れていかれ、翌年亡くなったと聞きました。仕方なく、母は、他 
    人の着物を縫ったり洗濯したりして生活しました。4歳の時生活は極めて厳しいもの  
    になりました。母は、自分を連れてお祖父さんの家に入りました。でも祖父さんの家
    もとても貧乏だと聞きました。子供は4人でした。その時、ソー・ケイ・シーさんに    
    会いました。父の友人から紹介があり結婚しました。自分より13歳上の方でした。
Q:お父さんはその時、何歳でしたか。
曹:30歳でした。父は背の高い人でした。180センチ以上だと聞いてます。
Q:お父さんは、1945年10月8日に亡くなられたと伺っています。死因は、「記録」
     によると急性腎臓炎ということになっています。これは、本当にそうかということ  
     は確かではありません。当時は、働いた事務所で勝手につけたものかもしれません   
     し。急性腎臓炎というのは「過労」の時によく起こる病気です。
曹:「統一戦線部」で調べた結果、強制連行される前、鉄道関係の仕事をしていたで一緒
    に酒田に連行された方の奥さんから聞いたのですが、労働の時は裸だったということ
    でした。とても苦しいもの だということでした。住所と名前が分かりますが、
    急いでここに来たので持ってきませんでした。その方は、96年に亡くなりました。
Q:お父さんが行方不明になり(日本兵に)つかまったのは44年の何月のことですか。
曹:5年前に母が亡くなり、母がいる時にいろいろ聞いたのですが、「何月」というはっ   
     きりしたことは、分かりません。
Q:お父さんの子供さんはあなただけですか。
曹:はい。
Q:曹さんが生きていた時に働いていた村とはどのようなものでしたか。
曹:父は、石炭の仕事に従事していました。一軒の家に住んでいました。
    家族三人での生活でした。故郷は藩家オクで、そのおじいちゃんは90歳でまだ
    元気です。
Q:お世話になった方?
曹:そう。そのおじいちゃんは強制連行のことをよく覚えています。もし、藩家オク
    に行くならその方を探して下さい。12人連行されたということです。
    父は、その12人の中の一人だということになります。
Q:お会いできればそのへんのことはもっときけますね。
曹:はい。おじいちゃんのこと、この本(酒田での強制連行について書いた本)に書いて
    ある人を訪ねても分かるはずです。
Q:お母さんが再婚されて、あなたも共にどこへ行くことになったのですか。
曹:ソウシュウというところに行きました。あとのお父さんの故郷です。
    曹ケイセイといいますが石炭の仕事をしました。93年に唐山に戻りました。
Q:「お母さんは大変苦労しました」とお手紙にありましたがそういう内容でしたか。
    つまり、別居生活というか…。
曹:そうです。でも、49年に解放されますので53年にはお父さんの会社から家を
    もらいました。そこで一緒に生活しました。最初は一間で今4LDKです。
    今は2階に住み私のは2LDKです。
Q:あなたはお父さんの顔などはわからない…・?
曹:写真もなく想像もできません。母は、お父さんのことを言うと涙を流すのです。
Q:私たちがいろいろ調べたところでは、過酷な労働をさせられたことは事実なようで  
     す。
曹:……・。感謝します。
Q:遺骨は、45年11月19日に酒田から帰るときに帰る人が列車で持ち帰ったとい  
     うことになっているが全部持ち帰ったかどうかは今のところ確かめようがありませ 
     ん。弔ってくれた海音寺の坊さんの話しでは、同じ村の人がその村の人の遺骨を
     持っていってくれたということなのです。
曹:父の遺骨のことは分かりません。聞いたことはありません。
    もし、だれかが持ってきたというのであれば知りたいのですが。
Q:54年ころ、お寺の坊さんが「31人中30人のものは持って帰った。一人の方の
     ものだけ残っていた…。」と言っています。カテイロクさん、その方のものは、53
     年か54年に返したといいうことになっています。新聞報道にもでています。今の
     お寺 の坊さんはその後の坊さんで…・。100%持ち帰ったかどうか、疑問も
    あります。
    調べるのは容易なことではありません。同じ村の方のものは、同じ村の方が持ち帰っ 
    たという例はありますが。酒田にきているひとで同じ村の方というと、一人なので遺  
    骨が届かないということがあります。例えば天津あたりでおきざりになるとか。
Q:酒田に残っているともいないともいえない。
曹:中国の国内戦争の時代ですから…・。
Q:昨日、歴史記念館にいっても調べてきたのですが。
Q:可能性は薄いです。何故かというと、あそこにあるのは、1953年から63年ま  
     でのものだから。日本にちらばっていてそれまで返還されないでいたものが集めら                                       
     れたものがあそこにあるので。昨日の話しではっきりしなかったのですが、当時は
     国民党の時代で、当時の遺骨は、天津のセイコウク・ヨウリュウセイ・この辺に 
     埋められたという話しがあります。館長さんもそこがどこかはっきり分からないと 
     いうことでした。唐山市の方で連行された方によく聴くのもさがすのに手がかりに
     なると思います。
曹:……・。
Q:日本の軍国主義のせいでこうなったわけです。日本の国の責任です。企業も責任が
      あると思います。
曹:……。
Q: 藩家浴村で、41年に三光作戦がありました。1700人の村の人の中で
      1300人が日本軍に殺されました。生き残ったお父さんがまた、日本によって
       連れ去られたということになります。
曹:父は三光作戦の時、外で働いており助かりました。自分の父がどこで亡くなったかが
    分かり、感謝します。
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