酒田に連行された私
幺作相(ようさくそう)
私は、中華人民共和国河北省唐山市豊南区黄各庄鎮王盤子村に住んでおります。
年齢は82歳、抗日戦争のころ唐山鉄南ん遊撃大隊の副隊長を務めていました。
1944年、唐山で1480憲兵隊に逮捕され、同年、10月タンクー港に連行され、港で半月
拘留された後、日本の汽船に乗せられました。日本人は私たちを船底の部屋に
押し込めました。船上でもわたしたちは毎日脱穀させられ、それでやっといっぱいの
おかゆが与えられ、また、2、3日に一度水が与えられました。中には、このような
苦しみに耐えきれず、海に飛び込む者もいました。半月の過酷な試練を経て、
とうとう山形県の酒田港華工(中国人労務者)管理事務所に到着しました。わたしたちは
木造の小屋に閉じ込められ、毎日「饅頭」がふたつ与えられました。飢えでどうしようも
なく、こっそり外へ出て猫や犬の死体や捨てられた野菜の葉を拾って食べる者もいました。
それが日本人に見つかると、またしぬほど殴られました。夜寝る時、港は厳しい寒さでしたが
掛け布団ももらえませんでした。
数日後、私たちは港で荷揚げの作業をさせられました。荷揚げした貨物は食糧と石炭でした。
私たちが働くときは日本人が監視していて、仕事ができないものは殴る蹴るの暴行を受け
ました。時には、棍棒や皮の鞭で殴られ、全身傷だらけになりましたが、それでも働らかなけ
ればなりませんでした。働くときは、服も与えられず、連行された時に着ていた服があるだけで
靴もなく裸足でした。港は厳しい寒さでしたが、私たちは紙を拾って身体を包み、藁で足を
包むしかありませんでした。藁と足が凍ってくっつき、足は裂けてしまいました。
こうしてそれが日本人に見つかると、また殴られるのでした。私たちは毎回おにぎりを2つ
与えられましたが、一日に与えられる回数は決まっておらず、空腹でどうしようもないときはやはり
捨てられた野菜の葉を拾って食べました。働く時間も一定ではなく、昼夜を問わず働きました。
疲労と極度の栄養不良で、私たちはよく病気をしました。疥癬や血寒病(?)などです。
このような虐待にどうしても耐えきれず、ある時、3人の労働者が逃げましたが、次の日、
私たちが朝起きて目にしたものは、大きなかごに入れられ、無残な姿になってしまった
仲間でした。日本人は、私たちにそれを見せ、これが逃走のなれのはてであると警告した
のでした。
ある時、私は、荷揚げ中に港の柱が倒れてきて足を怪我しましたが、その時も私は、
激痛に耐えながら働らかされました。治療をしなかったため、感染症にかかり、障害が残り
ました。また、血寒病にかかったときは、鼻血が止まらず、日本人は、私はもう助からない
と思って死体置き場へ運びました。幸い、私の生命力がまさり、10日ほどたって自然に治癒
したのでした。治れば、もちろんまた連れ戻され働らかされました。
日本投降後の1945年12月、私たちは、アメリカの汽船で中国へ送り返されれました。
私たちは、日本の酒田港で13か月非人道的な生活をさせられましたが、とうとう祖国へ
帰ることができました。この苦しかった日々を思い出すとき、私は恐ろしさに震えます。
私は、日本政府にこの歴史を正視することを要求します。また、日本政府及び加害
企業に対し、私や中国人労働者に謝罪し賠償することを強く求めます。
(長藤節子氏訳)
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