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少年少女念佛踊り

少年少女念佛踊り
 念佛踊りは、伊佐沢の伝統芸能であり無形文化財です。「かね」や「太鼓」を打ち鳴らしながら「五穀豊穣」「無病息災」の切なる悲願をメロディーにのせて踊ったといわれています。踊りは、花笠・鳥毛・奴振り・枕打ち・四ツ竹・道心坊・相撲・行司からなり、大太鼓と小太鼓・横笛・まといが加わりこれらを中心に大きな輪を作って踊ります。
 ”みつおくり(序)”と呼ばれるメロディーに始まり”いれは(破)・甚句(急)”と変化に富む旋律にのせて、きらびやかに踊るこの「念佛踊り」は、この地方(伊佐沢地区)の春秋の晴れの日の行事に彩りを添えるものとして昔から人々に親しまれてきました。衰えては盛り上がり、盛り上がっては衰えるというように盛衰を繰り返しながら伝承されてきました。
 これまで各種団体の依頼を受け公演を続けてきました。先輩から後輩、そして先人の心に触れながら念佛踊りに誇りを持ち伊佐沢の心を大切にしたいという願いでこの踊りを受け継いでいます。

念佛踊りの起こり
  この踊りの起こりは、室町頃だろうと言われています。慶長の頃、上伊佐沢渋谷八郎右衛門のすすめで広まり寛永、元禄時代になってその姿を整えたと伝えられ、旧米沢藩主上杉氏が視察のために来村した時に久保の桜の下でこの踊りを見て大変感心されたそうです。
 
明治初年(1868)には、京都の歌舞伎俳優・丹後丈という人が宮内に来た時に、伊佐沢の有志にいろいろ教えていき、その影響が「枕うち」「四つ竹」「花笠」に残っているといわれている。
 明治22年(1889)新市町村制の施行によって「伊佐沢村」ができた時、祝賀行事の中でこの踊りが披露され、初代村長鈴木千誉太氏の力によって、今の踊りに近いものが作られました。
 戦争中は一時、途絶えましたが、戦後復興されたものの、踊り手になる青年が少なく、どうにか踊りが続いているという状態が続きました。そんな様子を見た当時の伊佐沢小中学校の先生と生徒の有志が共同で「念佛踊りの研究」をまとめ、昭和29年に「山形社会教育」誌に発表、その社会的意味と保存の必要性を訴えたことで、念佛踊りにまた人人が関心を寄せるようになりました。
 昭和42年には地元青年団が活動の一環として、郷土の芸能の復興に取り組み、多くの師匠の指導を得て保存会を結成、公的行事や祭り等に積極的に参加しました。昭和59年には明治・大正の頃の貴重な写真が地区内で発見され、資料不足だった念佛踊りにも確かな歴史の証ができました。

念佛踊りの構成
太鼓・・・大太鼓、小太鼓があり、踊り子が振り袖、草履、笠をかぶり、しなやか
     に「ばち」をさばく姿は、踊りの中の花形である。

横笛・・・「笠をかぶって女装し、太鼓とともにこの踊りの中心である。
まとい・・「さねがさ」といわれる二つ折りの笠、わらじをつけ「念佛踊り」とかかれ
     たまといを持ち、円の中心にいて照明の効果を果たしている。



行司・・・相撲の行司の装束で、軍配をさばいて先頭に立つ。主に年少者がこの役
     につく。

相撲・・・化粧回しを締め、堂々と踊る。大名のお抱え力士を意味している。



鳥毛・・・装飾文字の印半天をつけ、股引、はちまき、胸掛け、脚絆、わらじのいなせ
     な男衆姿で「クゴ」を束ねて、鳥毛棒という武器をまねたとも考えられる。



奴振り・・・紙細工の「どーらん」を腰に、定紋入りの「はさみ箱」を肩に踊る。「はさみ
      箱」とは、昔、武士が用具を入れてさおに通し、下僕に背負わせた箱のこ
      とであり、大名行列をまねている。



枕打ち・・・前かけ、角帯、黒たび、横鉢巻、黒緒草履、綿なしどてらを着け、小豆粒
      を入れた朱塗りの小箱を両手に持って踊る。これは大名行列の小型の茶
      弁当ではないかと言われている。踊りに歌舞伎の「極め」が織り込まれて
      いる。



花笠・・・赤模様の振り袖、御太鼓、白足袋、赤緒草履、赤幕を引き、造花をつけた
     笠をかざして踊る姿は、腰元という名にふさわしい。歌舞伎にも似た踊りが
     ある。



四つ竹・・・地味な色の振り袖、御太鼓、白足袋、赤緒草履、白幕の笠をかぶり、両
       手で「四つ竹」を鳴らしながら踊る。「四つ竹」は琉球をはじめ、色々なと
       ころで楽器として用いられている。



道心坊・・・ボロの黒衣、又は蚊帳をまとった僧が、「かね」をたたいておもしろおかし
       く踊る。僧侶が仏法を広める手段として始めたことから「念佛踊り」の名
       がついたという。