恩徳寺
恩徳寺
(おんとくじ)
その歴史は古く,当時は北へ約2キロ離れた山王原(さんのんぱら)にあった。
時は857年,弘法大師の高弟,柿本紀真済(かきのもときのしんぜい)僧正という僧侶が,大師の命を受けて真言宗布教のため牛に乗って東国を行脚した。
途中,飯豊の南方にそびえる眺山(ながめやま:川西町と飯豊町の境)から望む西置賜の盆地の美しさに誘われ,山王原を訪れた。
ところが長旅の疲れか,牛が倒れてしまう。真済は手厚く葬り,恩徳寺を開山した。そして牛の死を悼み,この地を破牛(はぎゅう)と命名。
後に牛の塚に白い萩が群生したことから「萩生」の文字を当て地名が誕生したという。
さらに室町初頭,伊達家8代城主,宗遠(むねとお)が長井の地頭(じとう)である広房(ひろふさ)を攻略し,置賜地方を制した。
そのとき伊達家の重臣,国分正信は戦いの手柄によって萩生の地を賜り城を構えた。
後の応永年間(1394-1428)に国分家3代城主,光信が身近に寺領を置き,城の安泰を図り,山王原から寺を城内に移築したのが今日の恩徳寺であり,境内には真済の墓も祀(まつ)られている。
恩徳寺には当時,真済僧正が弘法大師から託され,背負ってきたといわれる「御黒箱」(おくろばこ)という笈(おい)の中に五智如来(ごちにょらい:元来天竺より伝わり弘法大師入唐の折日本に持ち帰られたもの)が秘仏として安置されている。
ちなみにこの御黒箱は,奈良の室生寺,名古屋萬徳寺にも伝わっており,当時は21年に一度の御開帳と定められ過去には盛大な法要が行われた。
時の城主が恩徳寺を移した理由は,萩生城内に罪人処刑場があり,城主は亡霊に悩まされて苦しみ,御黒箱の五智如来に祈願供養し,亡者の霊を鎮めたという話もある。
後に処刑場は真済僧正の墓となり,仏山(ほとけやま)とも称されている。
現住職,片桐天山氏で61世を数えるが歴代の僧侶で次の二人の方が有名である。
・17世 道智(どうち)
大井沢の大日寺開山,黒鴨(白鷹鮎貝)~ 大井沢までの湯殿山参拝道の開道(いわゆる道智みち)
・39世 鏡山
本寺神護寺(しんごじ:京都)で修行,京都六角堂で 花道を学びこの地域に池坊をもたらす。嘉六文書(町所蔵)に多数古文書がある。花道号:千龍堂鶴子
石現文殊堂と間引き図
恩徳寺敷地内にある石現文殊堂は1706年に建てられたものである。 ご本尊の由来は,西根村(長井市)に住む松田与次エ門が野川に石を拾っていたところ,光を発する仏像の姿をした石を見つけた。家に持ち帰り飾ったが,その後,何かと災いがあり,近くの寺に相談したところ,南方の寺に行っ て安置してもらいなさいということになり,この地に落ち着いたという説がある。
お堂の中にはいくつかの絵馬があり,間引き図もその1つである。現在は傷(いた)みが激しいので本堂に収蔵されている。間引きは,種を蒔いていらない若芽を引き抜き良質な野菜を育てることからできた言葉だが,人間を野菜と同様に扱ってはならぬと警鐘を鳴らす絵である。作者は宮内生まれの英不白(はなぶさふわく)でこの種の絵を数多く寺に残している。
絵は新聞・テレビ等のマスコミや長野・仙台等の美術館に特別展示されたこともあり,世に知られるようになった。
絵馬は1985年町有形文化財(絵馬)に指定されている。また,お堂の中に針子図(裁縫画:1886年)もある。教え子が町上の梅津ちやう先生を囲み,「手に職をつけていいところに嫁に行けますように」との願いが託されているようだ。