●学生時代の音楽生活の追憶  (2014 4 29 ツイッターから) ※現在プロミュージシャンとして活躍している方は実名で書かせてもらいました。

長男のY大学入学式後,会場の外に出るといろいろなサークルが賑やかに新入生を勧誘しています。
ジャズ研もいるかな?

新歓ライブ,下手なの気にせず部室の前で演ったっけなあ。
30数年前のサークル活動の思い出です。

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1982年4月,小金井のアパートに引っ越した夜,大学構内を歩いてみた。プール横の黒い小屋からドラム〜サックスの音が聞こえて来る。

1982年4月,恐る恐る部室の扉を開けるとテナー,ビブラフォン,ピアノ,ベース,ドラムという編成のバンドだった。

後日,テナーのU先輩が石森管楽器に連れて行ってくれた。今のような立派な店舗になる前のこと。ロリンズとオヤジさんの写真が印象的だった

パチンコ屋のわずかなバイト代を頭金に中古テナーを購入,仏マークシックスだった。

まったく初心者の私に,サックスの基本的な扱い方,呼吸法などを教えてくれたのは,吹奏楽部上がり,1年上のN坂先輩だった。

最初に組んだ練習バンド、テナー、クラリネット、ピアノ、ベース、ドラム 夏合宿でブルースとブルーボッサを演ったのを覚えている。

クラのK山君は誰だったかを完コピしていて驚いた。 私はイオニアンをエニキーで覚えるので精一杯のレベル

バンドで演奏していることが嬉しかった。 夏合宿の発表会では先輩達が盛り上げてくれた。

当初,アドリブはそこのキーだけ意識してデタラメに指を動かしていた。

ある日,ギターのT田先輩が2−5のフレーズを教えてくれた。翌日「昨日の演ってみろ」と言われたが,練習していなかった私の体は宙に浮いていた。T田先輩は柔道をやっていたらしい。

二年目の春だったと思う。サークル内でリーダーバンドを組んだ。 ピアノトリオのリズムセクションに年生のギターの先輩も加わってくれた。

ギターT田さん、ピアUかりちゃん、ベース川畑君、ドラムスE口君、テナー今、だったと思う。

ベースの川畑君は現在プロミュージシャンとして活躍している。

スプリングコンサートでバイバイブラックバードと夜は千の目を持つに取り組んだ。 トレーンやモブレイのフレーズをコピーして使う楽しみを覚えた。 T田先輩からバンドリハの進め方を教わった気がする。

T田先輩はスプリングコンサートのみの参加だった。 その後、このバンドでサマーコンサートにも出演させてもらった。 音楽サークル合同の学内野外コンサート。 ロリンズのカリプソとかミスターPCとか。学園祭時は法政大工学部ジャズ研K脇さんがゲスト参加。  

野外コンサートでマイナーブルースかよとも言われたが, あの頃は熱く吹きまくる真似がしてみたかった。

あの時期にコピーしたものの多くが、現在でも自然に出てくるお馴染みフレーズとなっている。

トレーンのミスターPCのアドリブコピーを練習していたら、アルトの先輩がアドバイスしてくれた。 現在、熱帯JAZZ楽団等でご活躍の藤陵さん。テナーの調整の状態もひと吹きで分かるし凄い方。

二年目学祭の季節、下手なくせに意気込んで他大学のジャズ研ライブセッションに出かけた。 一橋大ジャズ研でロリンズのビレッジバンガードのような演奏に圧倒された。

同じ学生でこんな演奏をする人達がいるのか、衝撃だった。 ドラムが狩野さん、テナーが岡さん。

テナーのケースを持っている私に、女性部員の方が声をかけてくれた。「セッションいかがですか。」 逃げ出したい気持ちながら楽器を組み立てツーテナーのセッション。ロストしまくりだったが妙な充実感があった。

息子の引越しをしながら、自分の学生時代を思い返していたら、調子に乗ってしまった。 忘れてたことを思い出したりして面白いので、このまま回想録風に続けてみよう。

コード,ケーデンス,スケール等,音楽理論はサークルの先輩から教わった。 教本はサークル部員必携の1冊 MODERN JAZZ SCHOOL ジャズ理論講座2コードプログレッションとアドリブ技法 最初はなかなか理解できなかった。

1982年初版発行 佐藤達哉さん著 ジャズ・テナーサックスの技法 は一番お世話になった教本。ジャズライフ誌の記事にもモチベーションを高めてもらった。

書店でアドリブコピー集 ソニーロリンズの奇跡,ジョン・コルトレーンの軌跡を見つけ,有り金はたいて購入した。合わせて4400円だったが当時の私にはけっこうな額だった。

コンファメーションのテーマを練習していたら,通りがかった先輩が一緒にボントロ吹いて「コンタク,いい練習になったぞ」と言ってくれた。とてもうれしかったのを覚えている。 現在スカパラのリーダーとして有名な北原さん。

北原さんは部室に来ると,鏡とマウスピースだけ持って延々と基礎練習している方だった。

いろいろ影響を受けお世話になったのはテナーのU田さん,名古屋,三重方面でテナー奏者として活躍している。音楽的な刺激が楽しくて,ちょっと上の先輩達にくっついているのが好きだった。

軽音楽部という名称であるが,インスト中心でジャズ研と言ってよい内容であった。学芸大生以外の部員も多かった。

教育学部音楽科があり,幼少の頃からピアノ等に触れている部員も多かった。絶対音感というものの存在を初めて知った。「うちのピアノはね,ラー,これぐらい。」「そうなんだ。うちのはね,ラー,これぐらい。」自宅のピアノの調律について,先輩達の会話は驚異の世界。

チューニングしようとしても,自分のサックスのピッチが高いのか,低いのか,良く分からなかった。30年経っても,あまり自信がない。

軽音楽部の学園祭ライブハウスKey-Cocko(キーコッコ)は毎年ワクワクするものだった。当時の大食堂横の通路をライブハウス風に仕立て,飲み物各種,軽食等のメニューも提供していた。

お店の内装に凝り,午前10時頃から深夜まで交代でバンドの演奏が続く。先輩やプロを含むOB達の演奏に触発されるものが大きかった。夜のセッションも学外からの参加が多かった。

3年目だったか,4年目だったか忘れたが,Key-Cockoでの演奏後,見知らぬ女性からバラの花一輪を手渡され,天にも昇る気分になったという思い出もある。

学祭中,楽屋で私のテナーに先輩の彼女が引っ掛かって落下,グシャグシャにつぶれてしまったことがあった。修理に数万円かかったが,先輩はバイト代から支払ってくれた。

お客さんの勧誘やお店のウエイターの仕事はあまり得意ではなかった。女性客をどんどん呼んでくる内T先輩がかっこ良かった。

3年目に入った頃,同学年メンバーでリーダーバンドを組んだ。ピアノO口さん,ベースT中君,ドラムスE口君,テナー私。O口さんが千葉から通学していること,タモリの今夜は最高等から取って,バンド名を「総武トレイン」とした。

このバンドでは,サム・アザー・ブルース,ソウル・トレイン,バイオレット・フォア・ユア・ファーズ等,トレーンゆかりの曲に多く取り組んだ。私が抜けてピアノトリオでビル・エバンスの完コピ演奏を演ったこともあった。

50年代のトレーンを追いかけたかったが,メンバーはもっと新しい時代の曲を演奏したがっているのが伝わってきた。メンバーの行方不明等いろいろあったが,バンドはOさんの卒業まで続いた気がする。

デュコフのマウスピースを使ってみたら,「コンタクの音が良くなった」という人が多くて苦笑した。テナーサックスと言えばそういう音色が求められる時代だった。

ビーチラーのマウスピースが気に入っていたが,電車の中で落としてしまった。ソフトケースのポケットが開いていたらしい。

マイルスからジャズに入ったので,2フロントバンドに憧れていた。トランペットのH野さんが,楽器始めて1年ほどの私を合宿でのリハーサルバンドに誘ってくれた。 

クリフォード・ブラウン等でお馴染の曲を演らせてもらったが,リフが滑らかに吹けずかなり足を引っ張った。合宿が終わると,私抜きほぼ同メンバーの別バンドが活動を始めていた。(涙)

2年程経て,後輩のF松君を引き入れてトランペットとの2フロントが実現した。イフ・アイ・ワー・ベル等でマイルスクインテットの気分を楽しんだ。

トランペットと言えば,現在スカパラで活躍しているナーゴ君も軽音に在籍していた。彼とはホーンセクション等で一緒に演奏したことがあった。

本家マイルスバンドのライブ演奏は読売ランドのオープンシアターEASTで何度か観ることができた。ビル・エバンス,ボブ・バーグ,ケニー・ギャレット等のサックス奏者を生で聴いた。

会場で見つけたビル・エバンスと握手を交わした。オープンシアターEASTは2013年で営業を終了している。

時々,ライブハウスでプロの演奏を聴き刺激をもらった。下北沢T5,西荻窪アケタの店,新宿旧ピットイン,六本木ピットイン,高円寺ジロキチ,府中バベルセカンド・・・。

日本人テナー奏者で最初によく聴きに行ったのは,橋知己さん,植松孝夫さん,井上淑彦さん,峰厚介さん,山口真文さん。

マスターの人柄に惹かれ国分寺のジャス喫茶,プー横町の店には良く通った。常連客の皆さんとも仲良くなり,常連バンドを組み,国立あたりでライブをやったこともあった。マスターがドラムをたたいた。

吉祥寺に行った際は,中古レコード店を物色し,ジャズ喫茶A&Fのリスニングルームで新譜に聴き入るのがお決まりコース。バイトの女の子が可愛かった。

著名なテナー奏者が来日する際は財布をはたいて出かけた。ソニー・ロリンズ,チコ・フリーマン,ウエイン・ショーター(ウエザー・リポート),ジョー・ヘンダーソン,アーチー・シェップ,ジョージ・アダムス(ギル・エバンス・オーケストラ),マイケル・ブレッカー,スティーブ・グロスマン,デイブ・リーブマン(クエスト),ブランフォード・マルサリス・・・。

VHS&ベータのビデオやレーザーディスクが出始めの頃だった。海外から入手したビデオを観せてくれるお店が中野にあり,仲間と何度か足を運んだ。動くマイルス&トレーンのソー・ホワットは背筋に走るものがあった。

ジャズ批評の48号「テナーサックス特集」には,いろいろ影響を受けた。ここで紹介されているテナー奏者のレコードを意識的に聴いて幅が広がった。さらに,「日本のテナー紳士録」に出ている日本人奏者を片っ端から生で聴いてやろうと思い立ち,ピアをガイドにライブハウスを巡った。

その頃聴いた日本人サックス奏者の方々。佐藤達哉さん,酒井春雄さん,今泉裕さん,ボブ斎藤さん,鈴木雅之さん,榎本秀一さん,国安良夫さん,林栄一さん,松風鉱一さん,渡辺貞夫さん・・・。

府中のバベルセカンドで山中良之師匠を聴いた時,グッとくるものがあった。終演後お話しさせてもらうと気さくな人柄,弟子入りをお願いした。この後約2年間,月1のペースでレッスンを受ける。

神保町の下倉楽器の練習スタジオでレッスンを受けた。10円コピーの店で大量の手書きの楽譜をコピーすることからスタートした。現在は石森管楽器のスタジオで行っている。

レッスンの内容は,アンブシャ,ロングトーン,オーバートーン,インターバル,リズム,スケール,フレーズ,コピー譜の演奏,アドリブラインの作成等。次回までの課題をもらい,練習結果を見てもらってアドバイスという繰り返し。

教わった2−5等のフレーズを12キーで吹けるようにしていくのが,なかなか大変だった。繰り返し練習してフレーズそのものを覚えるのと,実際の演奏で使えるようになるのはイコールではなかった。

コピー譜にタンギングのポイントを書き込んで吹く,メトロノームを3連符の3つ目に感じながら演奏する等は,良い練習になったと感じた。その後,あるドラマーに「一緒に演っていて気持ち良い」と言ってもらえたことがあり,嬉しかった。

早吹きに憧れ,アパートで運指の練習だけ繰り返した。その成果が少しづつ形になっていくのが分かって夢中になった。先輩に「粘り強い東北人」と笑われたが,悪い気はしなかった。

当時,山中師匠はサックス教本を書いている途中で,原稿を見せてもらったりした。出版後,結構売れたらしい。レッスン後,居酒屋でいろいろ話を聞かせてもらったこともあったし,アパートに遊びに行ったこともあった。

京都薬科大を出て薬剤師の国家試験に合格しているジャズマン。コルトレーンの演奏に魅せられテナー奏者を志したという。私がお世話になっていたころコルトレーン系と言われる演奏スタイルであったが,あれから25年経って変化している。

当時,ファットリップスと呼ばれる上下とも唇を巻かない奏法であったはずだが,現在は上下とも巻くダブルリップであるらしい。私がアーチー・シェップを観に行った時のヌルヌルと超リラックスしたアンブシャの話をした時,興味深そうに聞いてくれていた。

山中師匠のライブはかなりの数聴きに行った。レッスンで教わっていることを実際にどのように使っているのか分かる部分もあった。トレーンのリベリアでオーバートーンを駆使する様は圧巻であった。

新宿ピットインでのライブを聴き入った際,長身の学生が飛び入りでフォアを演奏し,強烈な印象を受けた。師匠に聞くと早稲田の学生で私と同い年らしい。Y木さんとはこの20数年後に新潟で再会し一緒に演奏させてもらうことになる。

1986年1月,ステーブ・グロスマンが来日,新宿ピットインで日本人ミュージシャンと演奏した。日によって調子の良し悪しがあったようだが,凄まじい印象を残した。プロアマ問わず見覚えのある信者達が集まり異様な雰囲気にまで盛り上がった。1987年4月,六本木ピットインでのマイケル・ブレッカーバンドも同様だった。当時の録音は宝物。

軽音の春合宿は湯沢スキー場のスタジオ付ロッジが宿だった。中高時代スキー部だった私にとってスキーは過酷な競技でしかなかったが,都会の人たちには別の意味があることは新鮮だった。軽音楽部のメンバーで蔵王にスキーに行ったこともあり思い出深い。

立川の小学校での教育実習で,好きでいいから音楽の授業もやってみなさいと言われ,リコーダーでアドリブを吹こうという授業を考えた。Cのブルース上で好きに吹かせようと考え,後輩達にマイナスワンの録音協力をお願いし部室に集めた。ピアノ堺君,ベース須藤君,ドラム滑川君,3人とも現在はプロミュージシャンという贅沢メンバーだった。

3年目ぐらいからだったか,学内外の他音楽サークルでも演奏する機会が増えた。モダンフォークの「貫井北町ベイブルースバンド」では,ドゥービーブラザーズのロングトレイン・ランニング等を演った。悲しい色やねのサックスソロも楽しかった。ギターK川君,ベースM出君,キーボードSっこちゃん・・・。

法政大学工学部の音楽系サークルのメンバーが中心の「マッハ森とゴー・ゴー・ゴー」では,サム・スカンク・ファンク,コクモ・アイランドといったフュージョンを中心に演奏した。学園祭の時期はスクーターにテナーケースを載せて行ったり来たりした。ピアノの宮前くんは現在プロとして活躍している。

ロック系サークル,音楽友の会ではKばやん&Tかちゃんのバンド「ミス・トーン」に参加,レベッカ等の曲を演奏した。小金井祭のライブでテナーソロに深いリバーブがかかり,ミラーボールが回転する光景が思い浮かぶ。

塾の講師と家庭教師の掛け持ちで,バイトの方も稼げるようになり,後半は比較的裕福な学生生活になった。夏休みは塾の夏期講習で1日10駒授業を持ち,当時まだ高価だったVHSのビデオを購入。アパートに仲間を集めてライブビデオ鑑賞を楽しんだ。

軽音楽部では後輩達との「今グループ」を組んだ。メンバーは,ピアノN島さん,ベース川畑君,ドラムスS藤君,テナー&ソプラノ私のカルテット。時折ボーカルやギターのゲストを入れた。

トレーン,ロリンズ,ショーター等,テナー奏者所縁の曲を中心に演奏した。私の代の卒演では,このバンドでイエス・オア・ノウ,インナセンチメンタルムード等を演奏し,良い思い出となっている。

卒演では,私の我がままでやってみたかったエレクトリックマイルスバンドを実現させてもらった。マイルス役はF松君,マイク・スターン役がF島君,アル・フォスター役をS藤君,ビル・エバンス役が私,マーカス・ミラー役はその後Tスクエアに抜擢された須藤君だった。

大学にはもう一年残ることになった。その後,法政大工学部のマッハ森ではボーカルを入れてスティングバンドのコピーもやった。コーラスに東京家政大の女の子達に入ってもらい,家政大の学園祭にも出て盛り上がった。吉祥寺のライブハウスを借り切ってのイベント等も企画した。

5年目は教員採用試験等もあって,リーダーとしての活動はしなかった。後輩バンドにゲストで入ったりしたように思うがあまり思いだせない。学園祭でギターの中鉢君のバンドに参加して彼のオリジナル曲を演奏した。彼もまたプロギタリストとして活躍している。

大学卒業後は東京都の教諭として杉並の中学校,小学校に6年間お世話になった。この期間も音楽活動は続き,いろいろな思い出が残る。

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と言う訳で学生時代の音楽生活を一気に振り返ってみました。たくさんの素晴らしい方々のお陰で,いろいろ学んだり楽しませてもらったりしたこと,改めて感謝したいと思います。

そのうち,次の6年間の【続編】も振り返ってみたいと思います。

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長男の大学進学をきっかけに,学生時代の音楽活動の思い出を並べてみたところ,面識の無いない方からも「面白かった,続きを」というメッセージを頂いたりしました。ありがとうございます。

ツイッターの方に,その後のことを呟き続けていたのをまとめてみました。ということで【続編】です。

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大学を卒業,4月になっても採用の話が来なかった。塾の講師のバイトもやめたし収入ないぞ,どうする。

もう新学期が始まった頃,杉並区教育委員会から連絡,面接,服務の宣誓をして指定された学校へ赴いた。

急な学級増への対応ということで,小学校教諭で採用予定のはずが中学校へ。

井之頭線 永福町駅近辺の中学校だった。4月15日付の採用だが教頭と相談して翌日から勤務,一週間はタダ働きだった。

神田川沿の中学生に悪戦苦闘の毎日,楽器からはしばらく遠ざかる。中央線武蔵境駅周辺のアパートに引っ越した。

サッカー部の練習試合に電車で出かけた。ボロ負けした帰り道,新宿で乗り換えるうちに生徒が散ってしまい,真面目な副キャプテンと二人で学校に戻った。

シンナーでラリった生徒が授業中の教室に乱入,ドラマな日々だった。

やっと1学期が終了という頃,ベースの須藤君からの電話,大学のサマーコンサートOBバンドで演奏することになった。

メンバーはY岡さんドラム,須藤君ベース,堺君ピアノ,中鉢君ギター,私のテナー。須藤君はプロとしての活動が始まった頃だったと思う。

久しぶりに楽器を出して,夜の理科準備室で練習した。

マイケル・ブレッカーの初リーダーアルバムが出た頃だった。須藤君と電話で相談し,ナッシング・パーソナルを選曲。

再び屋外のサマーコンサートでマイナーブルース。

サマコン当日,職場から大学に直行,スーツの上着を脱いでステージへ。曲間のベースソロにうっとり,マイナーブルース堺君のピアノソロが凄まじかった。

お馴染みアウトフレーズを駆使してなんとか格好つけた感じだったが,後輩達は持ち上げてくれた。^ ^

ギターの中鉢君,モダンで端正なフレーズの応酬。

中鉢君は現在,プロギタリスト,ギタースクール講師として活躍してるようだ。

おお,堺くんは上田正樹さんと演奏してるのか。

中学校にはその1年だけ務め,翌年から当初の予定通り小学校に異動した。荻窪北口の繁華街が学区域だった。

中学校での同僚にベーシストがいて,彼のバンドのライブにゲストで出演する機会があった。

早稲田の音楽系のサークルのライブで今井美樹等Jポップのカバーバンド。管楽器が入るのは珍しいらしく,妙に注目してもらった気がする。

そのバンドのキーボードとドラムの二人に誘われ,オリジナル曲を演奏するポップスバンドに加入した。リフレクションというバンドだった。

キーボードの子がニューヨークで接したアシッドジャズに惹かれ,それっぽい打ち込みを軸にした曲を書いていた。

サックスのかぶせ方は,その頃良く聴いていたスティングのバンドを意識した。

バンドのメンバーは固定していたが,ボーカルは何人か交代した。ボーカリストを目指してレッスンを受けているような女の子達だった。

クロコダイル等,渋谷あたりのライブハウスで演奏した。

東京12チャンネルのオーディション番組に出たこともあった。

週末に井の頭公園の端っこで練習したものだったが,今は禁止されているらしい。

練習不足が否めず,自分のピッチに自信が持てなかった。

平日夜も楽器に触れたいと考え,ローランドのデジタルピアノを購入した。inBbに移調できるのが便利だった。

長続きしなかったが,ピアノも少しは弾けるようになりたいと思い,吉祥寺のヤマハでポピュラーピアノのレッスンを受け始めた。

軽音の部室に遊びに行ったら,OBが中心になってビッグバンドを始めたという。リーダーのT田さんにお願いして入れてもらう。

最初は4ブラザース,メイデンボヤージ等,市販の譜面に取り組み,大学内のコンサートで演奏した。

次第にリーダーがアレンジした譜面で,インスト曲のカバーもレパートリーに入るようになった。

ギターの浜崎君がボーカルも担当した。レパートリーを増やし吉祥寺のお店でライブを開いた。

ピアノ,キーボード,ギター(ボーカル),ベース,ドラムス,パーカッション,トランペット×2,トロンボーン×2,アルトサックス×2,テナーサックス×2の編成が基本だったと思うが,その時々の都合で編成もメンバーも替わるバンドだった。

ホルンやマリンバが入ることもあった。

発足当時,バンド名を「東京ボンバース&ニュー・ブリーフ」としていた。

現役生でギター&ボーカルの浜崎君が,他大学で組んでいたバンドで,テレビ朝日のイカ天キングになった。

浜崎君がフライング・キッズでデビュー,東京スカパラダイス・オーケストラもメジャーになり,一緒に活動できなくなった。

ピアノのT田さんやアルトの武田君が曲を書きオリジナル曲が増えて行った。バンド名を「東京ダイナマイツ」と改めた。

自分も曲を書いてみた。サス4のコードを使ったのは,プー横町の店常連バンドで一緒だったギターのT部君の影響。サビの部分は,たまたま耳に残ったファンクバンドのベースラインをパクった。

リズムセクションを打ち込んでループさせておき,鼻歌を歌いながらメロディーを載せていった。

武田君の強力なアルトサックスを前面に出すことをイメージしていた。

武田君はその後バークリー音楽大学へ進み,プロとなっている。一昨年,舘ひろしバンドで紅白に出ていた。

一カ月かけて書いたので,タイトルを4WEEKSとした。

休日,勤務校の音楽講師にも手伝ってもらってパート譜を書いた。

シークエンサーにMIDI音源をつなぎデモテープを作ったりして楽しんでいた。現在のように全てパソコン上でできるような環境はまだなかった。

ホーンアレンジに難があるということで,その後4WEEKSはピアノの堺君のリアレンジで演奏するようになった。

あちこちの学園祭やライブハウスで演奏して周った。杉並区のプラネタリウムや勤務校の学年行事でも演奏した。

同期の仲間も住んでいる区の教職員アパートに引っ越した。サークルの後輩達に手伝ってもらった。独身部屋はかなり狭かったが,近所で手ごろな駐車場を借りることができたので中古車を購入した。

環8と早稲田通りが交差するあたり。家賃より駐車場代の方が数倍高かった。

週末は楽器を車に積んで出かけ,小金井公園等で個人練習をした。

バンマスの声掛けで,吉祥寺の音楽スタジオを借りてオリジナル曲を中心に東京ダイナマイツのレコーディングを行った。3曲ほどでテナーソロを吹いた。

バンマスが精力的にプロモーションし,ライブの範囲が広がった。ある夏には名古屋〜京都方面のツアーもやった。貴重な経験となっている。

横浜博覧会の野外ステージで演奏したときは,人の多さに興奮した。

浅草サンバカーニバルに3年程続けて出場し,音楽賞を獲得した。沿道の人の多さが凄かった。

二つのバンド活動が充実していたが,個人練習不足の悩みもあった。

録音を聴き返すと自分の演奏内容にがっかりすることも少なくなかった。

東京ダイナマイツのメンバーで横浜のクラブでも演奏を始めた。

平日の夜,仕事を終えて横浜に車を走らせるのは格好良い感じもしたが,仕事との両立がきつくないわけではなかった。 

小学校での仕事は充実していた。

リフレクションの方はレコード会社と関わるようになった。プロ志向にはなれなかったのでバンドを抜けることにした。

リーダーのKさんは,その後ソングライター&プロデューサーとして活躍。現在は福島に住んでいて,昨年福島で演奏した時に聞きに来てくれた。

ボーカルのMちゃんはコマーシャルソングを歌ったりしているらしい。

実家のオヤジの手術がきっかけで,田舎に戻ることを決意,音楽活動は休止して山形県教員採用試験受検の準備を始める。

田舎に戻ることが決まり,各方面の方々に送別会を開いてもらった。

東京では11年間を過ごした。

1993年から山形県で勤務。ここでもまた,小学校教諭として採用になるはずが中学校へ。

30代の10年間,音楽活動はほとんどなし。40の頃から,地元ミュージシャンと演奏するようになって現在へ〜。