「フィリピン慰霊の旅記」

 1 慰霊の旅計画

 太平洋戦争中に戦死した祖父について,父から聞いていたのは二つ,「祖母への手紙に小山内隊に所属していたことが記されていた。」「終戦後に訪れて下さった戦友の方から,フィリピンのサマール島の山中で昭和20年4月29日に食料調達に出たまま消息を絶ったことを知らされた。」父は日本遺族会のフィリピン行きツアーに参加しようと考えたが,サマール島がコースに入らないこと等から参加を見送って来ていたという。またそんな話をしていた2013年(平成25年)の夏,父の年齢も考え,50歳のリフレッシュ休暇を使ってサマール島に行ってみようと思い立った。

 インターネットで「太平洋戦争 フィリピン サマール島 小山内」等をキーワードに検索をかけてみたところ,「続 独混第二六連隊比島の苦斗」というサイトが見つかった。なんと元小山内隊の生存者が他の部隊の方々の随想をまとめ公開している。これより先に,サマール島における小山内中隊の行動を主とした「小山内隊の戦線回顧」を昭和五十四年の夏に発表し、生還者と中隊のご遺族等に送ったとされている。これに目を通せば祖父が所属したとされる小山内隊の足取りがわかるのではと更に検索すると,国立国会図書館に保存されていることがわかった。この際だから調べてみようと国立国会図書館へ足を運ぶ。利用者カード申請を事前に郵送で行い,図書館到着から30分ほどで目的の冊子を手にすることができた。少々ドキドキしながらざっと目を通し,許されるコピーページ数でどこを持ち帰るか決める。日本の図書館システムの素晴らしさを感じた。

〈「小山内隊の戦線回顧」からわかった主な事項〉

・この冊子は元小山内隊の生存者が昭和52年4月に天童温泉にて初の慰霊祭を行ったことがきっかけで作成された。

・小山内隊長の戦況の記録から中隊の戦線行動表を作ることができた。

・太平洋戦争の増援部隊として編成され,満州,釜山,門司,ルソン島,サマール島と移動した。

・1945年2月,サマール島に米比軍が上陸,後方山地へ撤退している。

・サマール島西海岸から東海岸方向へ山地を露営して進む。

・祖父が消息を絶った日はシノノガンと記された地の西方を通過している。

  祖父が消息を絶った場所は車の入れない山中で,20キロ以上離れた場所から手を合わせるしかないようだ。逆にいえば,遺骨が眠っているであろう場所から20キロの地点まで接近することができるということである。サマール島唯一の空港があるカルバヨグまで飛行機を乗り継ぎ,カルバヨグを拠点に車で移動するのが良いようだ。ここまでを整理し旅行業者へ相談し,成田発→マニラ1泊→サマール島のカルバヨグ2泊→マニラ1泊→成田着 4泊5日の旅とすることを決める。父と私の他に叔父が同行してくれることになり心強い。祖父の出征時,父4歳,叔父2歳,叔母はまだ祖母のおなかの中にいた。

2 フィリピンへ出発

 平成25年7月29日(月)山形新幹線で赤湯駅を10時半に出発し,成田から飛び立つ。22時頃,マニラ空港へ到着,現地旅行会社のスタッフとガイドさんに出迎えてもらってホテルで打合せる。あいさつの後,ガイドさんはサマール島北部内陸の地図を取り出した。海軍の知り合いを通して手に入れたと言う5万分の1の地図2枚,祖父が消息を絶ったとされるシノノガンに蛍光ペンで印が付けられていた。実在する地名であることを確認し,旅行会社の方に示したメモがきちんと現地のスタッフへ伝えられ,事前準備をして下さっていることに心強い思いを抱いた。5日分のチップと地図代をガイドさんに渡し部屋に入る。

3 サマール島西海岸の戦跡

 フィリピン旅行2日目,7月30日(火)早朝,マニラ空港からフィリピン航空国内線にて約1時間移動する。6時半頃,父,叔父,ガイドさんと供にサマール島のカルバヨグ空港へ到着した。日本時間だと7:30頃になる。小さな飛行場の周りに田舎の田園風景が広がり,あちこちに立ち並ぶヤシの木に南国を感じる。ホテルの若い女性スタッフとドライバーが迎えてくれた。

 カルバヨグ市郊外,海辺のホテルにチェックイン。休憩後,北サマール西海岸沿いの戦跡巡りに出発する。自転車にサイドカーを付けたペディキャブとオートバイにサイドカーを付けたトライシクルで渋滞するカルバヨグ市内を抜け,ヤシとバナナの木と水田を眺めながらワゴン車で北進する。ドライバーは飛ばし気味だが,道路の凹凸や穴に合わせて上手くスピードを落とす。オートバイも多く見かけるが誰一人ヘルメットを付けていない。道路沿いに学校が多く,どこも日本のものと似た制服を着た子供たちであふれていた。

  

〈サマール島の1日目2つの目的〉

・祖父の部隊がサマール島に最初に上陸(1944年11月)した港町「アレン」訪問

・祖父の部隊が約3ヵ月間駐屯した地「マオー」を探す。

 アレンには10時頃到着,ルソン島と結ぶフェリーが並んでいる。海の向こうのカブール島,最近リゾート開発が進んでいるというサンアントニオ島が美しい。背後の山の上には岩場らしき平らな地形が見られ,ガイドさんのお話では日本軍部隊の陣地があったらしい。港を見学後,この海で眠る多くの兵士に祈りを捧げた。目的地までたどり着く前に沈められてしまった部隊も少なくなかったという。祖父はこの美しい島にどんな思いを持って上陸したのであろうか。

 海辺のレストランで早めの昼食を取る。海上のテラスでゆっくり飲食し,5人分支払って1300ペソ,日本円にして3千円弱の計算。次の目的地へ向かう。

 手元の資料に記されているマオーという地名はインターネットを検索しても見つけることができなかった。どうやら呼び方が変わっているらしい。フィリピンで戦跡巡りをしておられる方のサイトには現在のサンイシドロがそれではないかと書かれている。出発間際になって,手元の資料の段落末に「マオーは最近Victoriaという」と記されていることに気がついたが,地図での確認まではできていなかった。ガイドさんの地図にVictoriaと記された町があるので行ってみようということになった。

  

 アレンから午前に来た道を戻り,南へ約10キロの町ビクトリアに入る。船着き場に車を止め周辺の山地を眺めながら,このあたりで陣地構築を行っていたのだろうかと話す。アレンからさらに南のサンイシドロへ向けて出発してすぐ,ガイドさんが「MAWO BRIDGE」の表示を見つけて下さり,この町が私達の探しているマオーであることが確認できた。1944年10月に,ここから地続きである南のレイテ湾にマッカーサーが上陸し,次第に米軍が迫ってくる1944年11月から終戦の年1945年の3月まで,祖父の部隊はゲリラから迫撃砲弾を撃ち込まれながらこのマオー周辺の山地に陣地構築をしていたらしい。ルソン島へ撤退の命が出ても船が足りず,石油をかけて処分した米を再び洗って生活していたという。2月末にはアレンに米比軍が上陸,マオーでも戦闘があり,3月2日に後方山地にやむなく撤退したとの記録がある。

 私達はサンイシドロに移動し,日本軍の司令部として使われていたという小学校を探すが建て替えられたらしく見つからない。先程見つけた「MAWO BRIDGE」の表示を撮影しておこうとビクトリアに戻る。時間に余裕があったので,ガイドさんの勧めでビクトリアの小学校を見学させてもらうことにした。授業の邪魔はしたくないので外から眺めるつもりでいたが,ガイドさんについて敷地内に入る。小学校の先生方も授業を中断して話し相手になってくれる。日本の学校なら不審者騒ぎになるかもしれない。フィリピンでは日本の事情と逆で,子供の数が増え,どこの学校も教室の数が足りず,午前と午後の2部制で授業を行っているとのことであった。先生方も制服を着用していた。

  

 ここで小学校のマネージャーの方からサプライズ情報を得る。「この学校の敷地も日本兵が使っていた。海辺に日本兵が掘ったトンネルが今も残っている。この町の人はみんな知っている。」道を聞きながらその場所に向かう。車を止めて歩いていくと,近所の方が海岸にあるその場所まで案内してくれた。満潮の海水に浸かりながらドライバーと私と近所の方の3人で進むこと約10分,自然の海食洞に手を加えたように見えるトンネルにたどりついた。横穴の中に入ると,その奥からさらに人一人登れるぐらいの縦穴が続いていた。ここに銃座を構え港に入ってくるアメリカ軍のボートを狙ったが速くて当たらなかったと伝え聞いているとのこと。付近の方がトンネル上方の丘に日本軍の陣地跡があるというので汗をにじませながら登ってみる。マオーの港が見渡せる場所に石垣が築かれており,数名が入れるような穴が残っていた。現地の方は今でもこの町をマオーと呼んでいるそうだ。山に芋掘りに出かけたお婆ちゃんが日本軍のヘルメットを掘り当てリサイクル業者に売ったというエピソードも聞かせてもらう。ポケットに入っていたわずかなペソをお礼に渡し車に戻る。祖父もこの場所で作業にあたっていたことは間違いないだろうなどと話しながらホテルに戻った。

  

  

4 サマール島 祖父の慰霊

 右の画像はサマール島北部の地図,祖父の部隊が移動したコース(赤矢印 祖父はシノノガン付近で消息を絶っている)と私たちが2日間で巡ったコース(黒矢印 1日目は海辺 2日目は山地)を記した。

 祖父の部隊は海岸の町マオーから山地へ撤退し,西海岸から東海岸へ向けて密林を進んで行ったことが国立国会図書館で得た資料に記されていた。山地の移動は困難を極め,特に塩不足が深刻,山中でゲリラや米軍との戦闘があり仲間を失ったが,南方から撤退してきた友軍との合流もあったという。カルバヨグからカタルマンへ内陸を通る道は米軍が掌握しており,この道を横切る際にセルバンテスの米軍に夜襲をかける等の戦闘があり,戦死者も出たと記されている。

 祖父と何名かが食料調達に出されたまま消息を絶ったのは,1945年4月29日,シノノガン西方の地点と考えられる。ここへ最も近く車道が通る町はカトビッグであるが,空港のあるカルバヨグから北海岸のカタルマンへ山を超え,さらに向こう側の山地に回り込む道順になる。インターネットで見た道路事情を考えると,手前のセルバンテスから手を合わせるのが無難ではないかと考えていた。祖父も部隊と供にこの町付近で道を横切っているはずである。サーマル2日目についてガイドさんと打ち合わせたところ,道路が良くなっているのでカトビッグまで行って来られるだろうとのこと。早めの時間に出発した。

 慰霊のための線香や酒等は日本から持ち込んだ。途中のマーケットで花を手に入れたかったが上手く行かず,お供え用に道端でバナナ2房を購入。50ペソ,日本円にして約100円だった。山の中でも平地には水田があり,2期作が営まれている。今年2回目であろう田植え風景が見られた。田起こしには水牛を使っていて,父が高校生ぐらいの時の風景であると懐かしんでいた。

 戦死者も出たというセルバンテスの町手前で車を止め焼香し手を合わせる。こんな山の中までヤシの木だらけ,祖父の部隊は正月にヤシの汁で乾杯したという。海辺のカタルマンからカトビッグに向かう道はコンクリート舗装された直線が多く,覚悟していたよりずっと道が良い。昼過ぎに目的地カトビッグへ到着した。この先さらにシノノガンへ近づくには寝袋持参で山歩きするしかないという。こうして祖父の遺骨が眠っているであろう場所まで20キロ弱の距離まで近づき,手を合わせることが出来た。旅行業者の方,ガイドさん,ドライバーの方,お世話下さった皆さん,応援して下さった皆さんに感謝したい。

 帰り道,カトビッグで古い教会を見学。町の人に聞くと,確かに山の向こうにそういう場所があると言う。シヌヌガンと発音するようだ。途中,カタルマンで遅めの昼食を取り,無事ホテルに戻った時は暗くなっていた。

  

5 マニラ 墓地巡り

 8月1日(木)サマール島を離れ、早朝,国内線でマニラへ移動,各国の戦没者墓地を周る。

 最初に空港近くにあるフィリピン英雄墓地(Libingan ng mga Bayani)を訪れた。中に入るには事前の申請と許可が必要だったので、外から手を合わせようと考えていたが、ガイドさんの手配で入場の準備ができていて驚く。ゲート付近でフィリピン風に色鮮やかな花を買う。慰霊碑付近まで車で入り、軍人と男女の係員に付き添われながら日本方式で碑に手を合わせる。戦没者は全て英雄として扱われるということ、名前の通り美しく整備された広く立派な墓地であった。

 次にモンテルンパ日本人墓地へ向かう。刑務所の敷地内にあり、戦後裁かれ極刑に処された日本兵が眠る墓地であるが、太平洋戦争により異国で亡くなった全ての日本人を追悼するつもりで訪れた。刑務所の敷地は広大で、一般の人も敷地内で生活しているように見え不思議な感じがした。日本人墓地の近くはゴミが散乱するなどやや荒れた風景でスラムもあった。刑が執行された13階段が近くにあったそうだが、遺族の要望で取り払われたそうである。山下将軍と本間中将は,さらに南方のロス・バニョスで刑に処せられている。遺骨は全て日本に帰っているそうだ。墓地内は刑務所の囚人が管理しているそうで、それらしい服装の人が古ぼけた扉を開けてくれた。墓地はきちんと整備されている。元々は墓石が置かれただけの場所だったが、日本の方々の尽力でここまで整備されたそうである。平和観音像,平和祈念塔などが建てられている。平和の鐘は盗まれたそうで無くなってしまっていた。設置した方々のご苦労を思うと残念である。参拝後に記帳を行う。前日に訪れた日本人のものもあった。以前は旧日本兵や遺族会の方々が多く訪れたが、高齢になったせいか最近は少なくなっているそうである。本間中将が戦犯とされた「バターン死の行軍」が日本軍の残虐行為とされていることは知っていたが,「渡辺はま子が歌ったああモンテルンパの夜は更けてのエピソード」は今回の調べで初めて知った。刑務所の外には旧日本軍の高射砲が展示してあった。

  

 さらに,アメリカ記念墓地を訪れた。お墓にはお国柄もあるが、勝った国と負けた国の違いとして印象強いものを感じた。広大な芝生の敷地に白い十字架が整然と並び美しい。戦死した兵士一人一人に敬意が払われていることを感じた。大きな円形の記念塔にはアルファベット順に名前が刻まれ、太平洋戦争の全ての戦闘の経緯が図示されている。サマール島のアレンに米軍が上陸したのは1945年2月19日と記されていた。手元の資料では2月23日となっており,数日のズレがあることに後で気づいた。美しく静かな場所で、ガイドさんは学生時代ここに来て試験勉強をしたという。

  

6 追記

 本旅行記を公開した2年後に祖父と同部隊に所属していた方(故人)の息子さんからメールが届いた。本サイトを見つけご連絡下さったことを知り,終戦記念日間近,何かに導かれるかに感じた。お父様は第三中隊の小隊長を務め生還なさったとのこと,克明な日記を持ち帰っておられ,息子さんが戦後70周年に合わせて本にまとめる作業を進めておられるとのことであった。その後情報交換をさせていただく中で,部隊の犠牲者等を記録したメモの中に祖父らしき名前を見つけ写真を送って下さった。「シノノガン 4/29 今」と記されており,祖父の戦友の話と合致していて胸が熱くなる。2016年1月天皇・皇后両陛下がフィリピンを訪問され慰霊して下さったこともうれしい話題となった。そして,2016年8月「市原謙太郎 比島・戦場日誌」出版,我が家にも届けて下さった。

 

 平成29年(2017年)11月,一緒にサマール島を旅した叔父が突然亡くなってしまう。

 平成31年(2019年)3月,父の歌集「芹の一茎」が出版された。これまでの短歌作品をまとめたもので,亡き父への思いやサマール島への旅を歌った作品も掲載している。


 令和2年(2020年)3月,驚くこと,本サイトをご覧くださった,小山内隊長のご家族の方からご連絡を頂いた。小山内隊長は生前,多くの仲間を失いながら生還したことを語り心を痛めておられたとのこと,父も感激していた。小山内隊長さんの遺品である「防人の詩レイテ編」をきっかけに検索し本サイトを見つけてくださったとのご連絡から,「防人の詩レイテ編」の古本を探し手に入れることができた。この書籍の最後の方に,マオーから後退してきた祖父所属の小山内隊と,海岸線を目指していた今野大隊が密林の中で出会い,千名に近い部隊となる様子が記されている。

 

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