九州巡りはこれからが本番だ。今度は西の海岸線に沿って北上し、下関を目指すことになる。とはいえ内陸にも見てみたい場所は多いし、天草も気になるところだ。一の宮巡りをする以上、壱岐と対馬も外せない。盛りだくさんの旅になりそうだ。
起きると外は土砂降りだった。雨合羽を取り出し、カメラだの手袋だの、濡れると面倒な品を念入りにザックにしまいこむ。ジャケットをザックにかぶせ、さらにザックカバーをかけておく。早めに出発するつもりだったが、準備や何やらで、結局宿を出たのは八時半過ぎだった。まずは本日第一の目的地、栗野町(現湧水町)を目指して走り出した。
隼人町まではすでに知っている道である。屋根付きの墓石、黒酢の甕にも見覚えがある。先日お参りした鹿児島神宮は素通りして、国道223号線で霧島方面に向かう。渓流に沿ってうねうねとした道が続いた。このあたりは温泉地帯のようで、沿線の至る所に小さな温泉宿がある。ちょっと走っただけでも、温泉がこれでもかと現れた。荒井の地元東北地方も温泉が多い。九州と東北はどことなく似ていると思った。
途中「熊襲(くまそ)の穴」に立ち寄った。なんでも、日本神話の英雄日本武尊(やまとたけるのみこと)に征伐された熊會建(くまそたける)がねぐらにした洞穴で、その一族が討ち果たされた場所だという。
大君に熊襲征伐を命じられた小碓尊(おうすのみこと)は、踊り子に変装して熊會建の宴に潜入し、隙を見て斬りかかった。熊會建は自分を倒しに来た小碓尊の武勇を称え、いまわの際に自分の名「タケル」を与えた。以後、小碓尊は自らを「日本武尊」と名乗るようになったと「古事記」には書かれてある。
熊襲の穴は国道を挟んで温泉宿の向かい、林がちな斜面にあった。そこまでは急な石段を登っていくことになる。洞窟は二つあるのだが、安全上の問題などで、入れるのは一つだけだった。入り口にある照明の電源を入れてから狭い入り口をくぐると、いきなり広い石室になる。秘密基地にはもってこいだ。壁面には前衛芸術家が描いたという壁画がある。古代人もこんなふうに部屋を飾っていたのだろうかと思う一方、史跡にこんなことをしていいんかいという気もする。
ところでその後、熊襲の穴についてちょっと調べてみたのだが、この穴がある山一帯は、件の温泉宿所有の土地だった。その創業者さんがこの穴を名所に仕立てた仕掛け人で、経歴を見るとかなり変わった方だった。だから果たしてここが本当に熊襲のねぐらだったかどうかは、いささか眉唾モノである。ちなみに「古事記」によれば、熊會建が討たれたのは洞穴ではなく、新築した館の中である。
その後牧園町(現霧島市)を経由して、霧島温泉郷の手前まで来たところで農道に乗り換え、目的地栗野町に向かった。
栗野町に来たのは、町内の勝栗神社に参拝するためなのだが、町はまず湧水の里として有名らしい。そこで手水がわり、町内の丸池湧水を見に行った。
丸池湧水はこの雨で増水していたが、水はよく澄んでおり、池の底から水がこんこんと湧き出ているのがよく見えた。かたわらの水飲み場で水を飲む。雨が降ると雨水が混じり、湧水本来の味が味わえなくなるので、こういうときは地下から直接水をくみ出している水飲み場を利用するのがいいということは、秋田の六郷町で仕入れた知識だ。
池の水は霧島山系の地下水が湧き出たものだ。霧島周辺にはこうした湧き水が多いそうで、最近はそれを利用した鰻養殖が盛んである。荒井が前職に就いていた頃、土用の丑の日になると競合店では霧島産の鰻を売っていた。鹿児島の養殖鰻は浜名湖の静岡を抜き、今や全国有数の規模にまで成長している。ついでに茶の生産量でも鹿児島は静岡とためを張っており、鹿児島は静岡の仇敵となりつつある。そういや江戸幕府の祖徳川家康は静岡と縁が深かったが、討幕運動の中心になった西郷隆盛は言うまでもなく鹿児島の人間だ。歴史の因縁である。危うし静岡県。
肝心の勝栗神社は、町の公民館のすぐそばにあった。この神社、特に変わった歴史があるでもなく、至って目立たない村のお社である。そうした神社になぜお参りしようと思ったのかというと、奉納されている龍の像を見るためだ。荒井が旅の計画を練っていた頃、たまたま町の有志の方が神社に木彫りの龍の像を奉納したというニュースを耳にして、どういうわけかそれが気になって見に来たというわけだ。
件の木彫りの龍は長さ2メートルほどの木の枝を彫り込んで作ったもので、拝殿の中、ご神体を護るようにして安置されてあった。思っていたよりも小さく細い龍だったが、この龍がいなければ、荒井はこの町に来なかっのだと思うと感慨も深い。こうして少しずつあこがれが現実のものとなり、日本一周は進んでいく。
県道55号線で鹿児島市に出る。「リバイバル白くま」が気になって、また「むじゃきっこ」に寄った。この日は6月30日だったのだが、6月いっぱいの限定商品だったので、この日を逃すと食べられなかったのだ。
一緒に頼んだ担々麺を食べ終わると、リバイバル白くまが運ばれてきた。アンゼリカと干しぶどう、さくらんぼで氷の上に熊の顔が描かれてある。果物は氷の中に埋まっているので、表からは見えない。これが発売当初の白くまなのだそうだ。「むじゃきっこ」の説明によれば、上にあしらった干しぶどうやアンゼリカが熊の顔に見えるから、「白くま」と呼ばれるようになったという。
雨降りはあいかわらずだった。この日も屋根の下に泊まることにした。照國神社前から携帯電話で指宿市(いぶすきし)の「湯の里ユースホステル」に予約を入れる。雨の中どこかに寄ろうという気も起きず、指宿まではおとなしく走るだけだった。
指宿は砂蒸し風呂の温泉で有名だ。市内には温泉宿やホテルがいくつも建っている。しかし昨今の不況か、店をたたんだところも多いようだ。駅前は人気も少なく、「ようこそ指宿へ」の看板もくすんで見える。表に「ユースホステル」と書かれた空き家もあった。かつては多くの旅人で賑わっていたのだろうか。
かろうじて雨が止んでいたので、駅前で地図を取り出し、ユースの場所を確かめていると、カブに乗ったおっちゃんに話しかけられた。おっちゃんも年に一月ずつ長旅に出る旅人だそうだ。こちらはあいさつ程度で話を切り上げて、とっとと場所を確かめてユースにすっこみたかったのだが、おっちゃんはなかなか話を止めてくれなかった。先方に悪意がない分、余計に困ってしまう。毎度の事ながら、人が出発しようとしている時に、長話をするのだけは勘弁していただきたい。
目当ての湯の里ユースは、温泉街から離れた住宅街の中にあった。宿に着くとペアレントさんが気さくな様子で出迎えてくれた。ここのユースは到着すると、内風呂に入るかどうかを訊ねられる。それというのも近くに温泉があるからだ。
そういうわけで、ご主人に教えていただいた温泉街の砂蒸し風呂「砂楽(さらく)」に出かけた。ユースからは単車で5分ほどで、摺ヶ浜(すりがはま)と呼ばれる砂浜のすぐそばにある。立ち寄り湯と指宿名物砂蒸し風呂が一つになっていて、気軽に砂蒸し風呂が楽しめる。
浴衣に着替えて建物裏の砂浜に行くと、砂蒸し風呂の四阿がある。そこで係の方がスコップを持って待ちかまえているので、指示に従って砂の上に横になると、スコップであたりの砂を掘って身体の上にかけてくれる。この砂浜の下は温泉だ。少し掘ると80度のお湯が湧き出てくるそうで、砂はすっかり暖まっている。高温の砂で上と下から蒸されるから、じきに体中から汗が噴き出てくる。
砂は意外に重い。のしかかられるように、全身にずっしりと重みがかかる。温泉熱で温まっているところにさらに圧力がかかるので、全身の血行がよくなるらしい。
かくて黙って砂に埋もれること約10分。ゆだってきたので砂を出た。その後は併設の立ち寄り湯で砂を落として汗を流すことになる。浴衣は汗でずいぶん重くなっていた。
夕食は「砂楽」向かいの喫茶店で、紅芋スパゲティを食べた。紫芋を練り込んだ紫色のスパゲティをざるそば風にして食べるところが変わっていた。
ユースのペアレントさんに礼を述べて出発する。いつもどおり、近場のコンビニでたまごハムサンドとオレンジジュースの朝食の後、本格的に走り出した。
海に近い道を選び、開聞岳のそばに出てきた。富士山を小さくしたような山容が有名で「薩摩富士」の異名をとっているが、くもりがちな天気のせいで、裾野しか見えなかった。
日本最南端の駅、西大山駅はその開聞岳のすぐそば、畑の中のようなところにある。日本最東端東根室駅同様ホームだけの無人駅で、駅舎や待合所はない。駅の一角にある標柱と、他の最果ての駅を示した看板が、最南端だということを主張していた。隣接した広場には、自転車が何台も並んでいた。利用客の大半は周辺に住む電車通学の中高生なのだろう。
ところでこの直後、沖縄のゆいレールが開業したため、西大山駅は日本最南端の駅の座を、ゆいレールの赤嶺駅に譲ることになった。だが本土最南端およびJR最南端の駅という事実は変わらず、今でも鉄道ファンや端っこマニアを惹きつけている。荒井もその一人というわけだ。
このあたりの道は集落や畑の間を縫っているので、どれがお目当ての道か分かりづらい。特に開聞岳周回道路に通じる道は分かりづらかった。地図に従って走っていると、ゴルフ場や入場有料の公園のゲートが近づいてくる。いったいどこから入っていくんだと不思議に思いつつ、それらしい道を探ってみると、目の前に古ぼけた小さなトンネルが現れた。トンネルと言うよりは隧道(すいどう)と言った方がいいかもしれない。高さは3メートルあるかないか、幅は乗用車1.5台分。ところどころ天井に明かり取りの窓が開いているので真っ暗ではない。窓の上には茂った木が覆い被さっているのが見える。寂れた植物園にでも来たようだ。隧道は意外に長く、数百メートルほど続いた。
隧道を抜け開聞岳を回り込み、国道226号線に合流したところで、薩摩国一の宮、枚聞神社(ひらききじんじゃ)に行った。本土再上陸後初の一の宮だ。
薩摩国一の宮ではあるものの、神社は鹿児島市ではなく、薩摩国でもはずれの方、もはや薩摩半島の隅っこに近いところにある。とはいえさすが一の宮。神社は崇敬篤いようで、どこかの会社とおぼしき一団が参拝に来ていた。
ここに限らず、国のはずれにある一の宮は多い。そうした場合、神社は近くの山を祀っていることが多い。ここ枚聞神社も、開聞岳を祀る神社として始まったのだろう。「枚聞」の読みは「開聞」に通じている。
次いで県道27号線で知覧町に行った。目的は特攻平和会館だ。
太平洋戦争時、知覧町には飛行学校がおかれ、操縦士候補の若者たちが集まっていた。やがて戦況は悪化し、日本は窮地に立たされた。絶望的な戦況の中、沖縄に連合軍が上陸するに至り、日本軍は爆装した航空機で操縦者もろとも標的の敵艦に激突するという自殺的攻撃作戦、いわゆる「特別攻撃」をすることになる。本土最南端に近い立地ゆえ、飛行学校のある知覧町は特攻隊の基地となった。そして操縦士候補の多くの若者がここから沖縄に向かって飛び立ち、散っていった。平和会館は、その特攻隊の記念館である。
飛行学校があったという一帯は公園として整備されていた。記念館はその一角にある。中には特攻機の実物や複製の他、特攻隊員の遺影や遺品、絶筆などがひたすら展示されてあった。余計な説明はない。それだけに胸に迫るものがある。
絶筆には「必殺」だの「皇国のために」だの「笑って死のう」だのしたためられてあった。不思議と悲壮さはなく、意外にあっけらかんとした印象を受けた。あたかも、受験や体育祭の壮行会か決意表明と同じように。隊員たちの生活を写した写真の数々を見ると、彼らは現代の若者同様、屈託なく笑っていた。
それだけに解せなかった。なぜ、彼らは若い命を散らさなければならなかったのか。もっと別の未来があったのではないのか? 人の死には理不尽さがともなう。ましてそれが非業の死であるならば。
国のため人のためとはいうものの、本当に彼らはそう思って死地に赴いたのだろうか?
遺されたものにうかがう彼らの姿は、「お国のために」「人のために」という常套句が陳腐に見えるほど、あまりに純粋だった。そうしたすばらしい若者たちに悲壮な運命を押しつけることになった過去に、ただただ無念さを覚えた。
隣接する特攻平和観音に手を合わせると昼になっていた。公園内にある農協の食堂「ちらん亭」で昼食にした。豚の角煮定食を注文する。黒豚に次いで鹿児島が売り出し中のブランド豚、茶美豚(ちゃーみーとん)を使っており、一日二十食限定だ。とろとろに煮込まれた角煮はもちろん、箸休めにさりげなくオクラの煮物や茶そばが添えられているのが心憎い。
再び国道226号線に出る。枕崎市にさしかかると、燻した鰹の匂いが漂ってきた。名物の鰹節だ。随所の鰹節工場からは燻煙が立ち上り、町中が煙っていた。
枕崎の郵便局でお金をおろすと、後はひたすら海沿いに走った。漁村や岬を縫う寂しい道が続いた。途中秋目というところで映画「007」の記念碑を見つけ、思わずDJEBELを停めた。かつてここで「007は二度死ぬ」の一場面が撮影されたことを記念するもので、ジェームズ・ボンドを演じたショーン・コネリーと映画のプロデューサーのほか、競演した丹波哲郎のサインまで刻まれていた。
ちなみに秋目は唐招提寺を開いた鑑真和尚が漂着した地でもあり、007記念碑の向かいには、鑑真上陸記念碑が建っている。まさか和尚もボンドや丹波さんと隣組になるとは思いもしなかっただろう。
給油のため金峰町(現南さつま市)のガソリンスタンドに立ち寄る。給油に出てきたおじさんが「こういう旅は若いうちにしかできないだろうね。いい思い出がたくさんできただろう?」と声をかけてくれた。旅に出て以来、永らく荒井は目的地を聞かれたら「これがら沖縄に行くんですよ!」と答えていたが、今では「あれこれ立ち寄りながら、山形に戻る途中なんですよ。」と答えていることに気が付いた。
海沿いに北上し、川内川にさしかかったところで内陸に入っていく。河口には原子力発電所があって、原子炉の入った建物が道路からも見えた。こんなに近いと少々心配になる。
薩摩国もう一つの一の宮、新田神社は川内市(現薩摩川内市)にある。拝殿までは立派な鳥居をくぐり、長く急な石段を登っていかなければならない。だいぶ陽も傾いていたため、境内には荒井以外に誰もいなかった。由緒記をもらおうにも社務所も閉まっていたので、翌日また来ることにした。
市内の「めしや丼」でチキン南蛮丼の夕食を済ませる。今日の寝場所として目星を付けていた祁答院町(けどういんちょう・現薩摩川内市)の藺牟田池(いむたいけ)のキャンプ場に着くと、すっかり暗くなっていた。営業期間外なのでキャンプ場には誰もいない。人気がなく目立たない場所を見定め、ザックからヘッドライトを取り出し、明かりを頼りに黙々とテントを張る。八重山を出て以来久々の野宿だ。いかな梅雨とはいえ、隙を見てテントを張らなければ勘を忘れてしまう。