ラジオを聞きながらテントを畳んでいると、荒井の地元、山形の方が電話で出演して、山形夏の風物詩、西瓜と夏祭りの話題を紹介していた。そういや山形は、もう夏祭りの季節だった。
六時に出発した。ガスはすっかり晴れている。まず目に飛び込んできたのは、四国カルストの絶景だった。カルストとは石灰岩が多い土地によく見られる地形だ。高原の草原の至るところ、地面から生えてきたように、白い岩が散らばっている。ところどころでは放牧された牛が草を食んでいた。脇では風力発電の大きな風車がくるくる回っている。道を下っていくと、今度は眼下に見事な雲海が広がった。朝早いので、車も人もほとんどいない。絶景を独り占めしたようで気分がよかった。
麓に下り、国道を乗り継ぎながら四万十川沿いに中村に向かった。川は清流を謳うだけあって、道路からでも河底の石が見えるほどだった。道の途中のところどころでは、「ライダースイン」も見かけた。ライダースインは高知県が設けた旅人向けの安宿で、県内各地に建っている。残念ながら荒井は利用する機会がなかったが、単車乗りの間では名を知られており、阿蘇ライダーハウスのじゃけんさんも「高知に行ったらおすすめ!」と太鼓判を押していた。
中村に着いたのは十時過ぎだった。駅前の「スリーエフ」で、ハムタマサンドと牛乳の遅い朝食にする。ここの駅前の「スリーエフ」は、二日前、国道439号線を走りに行く前に寄ったところだ。あれから国道も剣山のスーパー林道もすっかり走ってきた。四国一周再開である。
高知市に向かう前に、中村市で一つ見ておきたいものがあったので、市内の大規模公園に行った。公園は四万十川河口、太平洋に突き出した岬にあり、温泉や高知一のオートキャンプ場などがある。荒井がここで見たかったのは、もちろんそういうものではない。
公園の入口に近づくと、太平洋を望む一角にひときわ大きな鉄の日時計が見えてきた。これが荒井が見たかったもの、「ゲージツ家」篠原勝之氏が手がけた日時計型の鉄の建造物、「うつろう」だ。
荒井がまだ学生だった頃。ある休みの日、徒然にテレビをつけてみると、ドキュメンタリー番組をやっていた。「うつろう」を作る過程を追いながら、篠原氏を紹介するものだった。詳しい内容はすっかり忘れてしまったが、「うつろう」のことは深く印象に残っていたようで、日本一周を決意した際、「うつろう」の事を思い出し、近くに行ったらぜひ現物を見ようと決めたのだ。
「うつろう」は全長20メートルの鉄柱こと「とんがったモノ」と、いくつもの色ガラスをはめこんだ鉄の弧からできている。陽が巡りとんがったモノの影が動けば、陰になった色ガラスの影が消えたり現れたりする。
いつものことながら、行こうと思っていた場所に実際にたどりつくと、本当にやってきたのだという思いが胸に去来する。この「うつろう」も、テレビで見ていたときは、画面の向こうの存在でしかなかった。ところが今や、自分は画面の向こうに着いたのだ。
ひとしきり眺め、写真に収め、あたりに腰掛けて日記を付けると、30分が経っていた。日はまだ高いようでいて確実に30分分移動し、影の位置も変わっていた。見る者の人生を5分奪う装置。それが「うつろう」だ、と件の番組で篠原氏は言っていた。
実際に見ていたのは30分だが、たどり着くまで、それ以上の時を費やした。その時が荒井をここに運んできた。「うつろう」が奪ったのは、時間だけだったのだろうか?
中村を出て、高知市に向かう。その間の距離は90キロほどある。途中、窪川町(現四万十町)の道の駅に立ち寄って、姫かつおと生姜アイスを食べた。姫かつおとは、食べきりサイズの生節で、真空パックに入って売られていた。封を切ってそのままかじると、燻した風味が口に広がって、おつまみなんかにちょうど良い。アイスの売店では、店番のおばちゃんに八十八ヶ所巡礼のお遍路さんと間違われたが、気をつけてねと送り出してもらった。
昼食に須崎市の「鍋焼きラーメン」を喰おうと、「どんと」という地元のファミレスに入った。
鍋焼きラーメンは根室のエスカロップや富士宮の焼そば同様、須崎限定のご当地料理である。鍋焼きうどんのように、鍋焼き仕立てにしたラーメンなのだが、スープは鶏ガラ醤油に限るとか、使う麺の太さや茹で具合、入れる具の種類、使う容器、つけ合わせの漬物に至るまで、作り方にはさまざまな決まりがある。須崎では戦後から作られ食べられてきたのだが、近年、町興しの一環で注目され、ご当地ラーメンとして大々的に売り出されるようになった。食べ歩き地図を作って配布したり、PR看板を建てるのはもちろん、同じ高知出身のやなせ先生に「なべラーマン」こと、鍋焼きラーメンのマスコットキャラクターまで作ってもらうという力の入れようだ。宣伝のため、「アンパンマン」になべラーマンの出演を打診したこともあったそうだが、版権問題が出てくるからと、実現には至らなかったようだ。
ついでに出身地という縁で、県内にある土佐くろしお鉄道も、やなせ先生にマスコットキャラクターを作ってもらっている。ごめん・なはり線区間の20の駅それぞれに、その駅にちなんだキャラクターが一つずついるのだ。さすがアンパンマンで、とてつもない数の登場人物を生み出したやなせ先生ならではの業である。
さておき、運ばれてきた鍋焼きラーメンは、鍋入りのラーメンの上に、ネギと輪切りにしたちくわを散らし、さらに生卵を一つ落としてあるというものだった。麺が若干堅めなのは、鍋焼きゆえ食べるうちに余熱で火が通るからという配慮らしい。なかなか旨かったが、真夏の夜に鍋パーティならぬ、昼から鍋焼きラーメンを啜ったもんだから、食べ終わる頃には汗だくになってしまった。
市内の道の駅で、四万十川産の川海苔の佃煮を仕入れてから、また走り出す。夕方が近づいた頃、ようやく高知市に到着した。県庁は翌日行くことにして、当日中に廻れるところを廻ってくることにした。
まずは高知市随一の名所、桂浜に向かった。浦戸湾に着き出した岬にある景勝地で、高知がやなせ先生と並んで全国に誇る有名人、坂本龍馬の銅像があることでも有名だ。観光客を当て込んだのか、岬に向かう県道には、「アイスクリン」の幟を掲げた屋台がいくつも並んでいる。アイスクリンが高知名物だということは、この旅で初めて知った。
桂浜の周辺は公園になっている。浜の隣には大きなみやげ屋がいくつかと、広い駐車場があって、観光地らしい雑多な雰囲気が漂っているが、浜そのものは全くきれいなところだった。なるほど、「維新の嵐」にも出てくるわけである(注1)。坂本龍馬はここから太平洋の向こうに想いを馳せ、「心はいつも太平洋ぜよ!」と言っていたわけだ。
件の龍馬の銅像は、みやげ屋がある一帯を抜け、桂浜に向かう松林の中にあった。予想外に大きいので驚く。
次に見たのは、四国を代表する戦国武将、長宗我部元親(ちょうそかべもとちか)初陣の銅像だった。桂浜から市内に向かう途中、たまたま発見したものだ。「信長の野望」をやっていたおかげで、長宗我部家が四国の有力大名ということは覚えている。甲冑で身を固めた若武者元親公が、右手に背の丈以上の大槍を構え、左手を前に突き出し、見得を切るかのように仁王立ちする姿が実にカッコいい。
翌日に備えて県庁を下見してから、土佐国一の宮、土佐神社に行った。神社は高知市の近郊にある。神社がある界隈は土佐一宮(とさいっく)といって、JRの駅や交差点の名前にもなっている。交差点は相当に交通量が多かったが、神社は交差点から若干離れたところにあるためか、至って静かなものである。
土佐神社は一の宮としては小さい方だが、鳥居から境内、社殿に至るまで、どれもが落ち着いていて作りがいい。特に社殿は元親公が建てたもので、四国の覇者らしい質実剛健さを漂わせていた。夕方間近で社務所も閉まっているかと思ったが、さいわいまだ開いていたので、なんとか由緒記ももらうことができた。
だいぶ陽が傾いた頃、高知市の隣にある伊野町(現いの町)の、加田キャンプ場に転がり込んだ。厠と水場があるだけという簡素なところだが、町を流れる仁淀川の河原という絶好の立地と、一泊100円という利用料のためか、なかなか繁盛していた。風呂は近所にかんぽの宿があるので、入浴料を払えば、そこの大浴場が利用できる。
風呂に行った帰り、近場の「スリーエフ」で海苔弁を買って夕食にした。キャンプ場に戻ってからは、ついでに買ってきたグレープフルーツ水の1リットル紙パックを呷りつつ、久々に焚き火などして過ごした。
キャンプ場は若い人の利用が多い。そのせいか、夜遅くになっても大声で歌ったり話している連中がいたのには参ってしまった。いいキャンプ場だけに、周りの迷惑になるようなことは、つくづく謹んでもらいたい。
朝五時に起き、六時に出発した。途中朝食のためコンビニに寄ったりしたが、伊野町と高知市はそう離れていないので、七時には県庁に着いてしまった。こんなに早いともちろん開いていないので、昼まで近所で時間をつぶしてくることにした。
高知城は県庁のすぐ裏手にあって、歩いてすぐである。天守閣を見物しようと思ったが、やっぱり時間が早くてまだ開いていなかった。かわりに城内をぶらぶらと歩き回る。南国に降り注ぐ8月の日差しは朝から強烈で、しかも大型ザックを背負っているものだから、少し歩くだけで汗だくになった。おかげでゆっくり見物するところではなく、城内のベンチに腰掛けて休むだけだった。
県庁そばの通りには、紅白に彩られた観覧席や提灯などが据え付けてあった。間もなくよさこい祭りが開かれるので、街ではその準備が進められているのだ。よさこいといえば、北海道の「YOSAKOIソーラン祭」が有名だが、もとはYOSAKOIも、よさこい祭りに影響を受けて始まったもので、高知こそが本家本元なのだ。
そのよさこい節に謳われる名所「はりまや橋」は、高知市の真ん中にある。ところがこのはりまや橋は、日本三大ガッカリ名所西の雄として非常に有名だ。それというのも、はりまや橋がただの交差点だからだ。
橋と言うからには、多々羅大橋や錦帯橋のような名橋を期待する方が多いのだろう。ところが来てみて唖然、はりまや橋は橋も何もない、車の多い交差点だったというので、その情緒のなさにガッカリする向きが多いらしい。
もちろん荒井ははりまや橋がガッカリ名所だということは知っている。そのガッカリぶりをかえって楽しみにしていたほどなので、件の交差点を目の前に、「本当に交差点だげだ!」と、やたら興奮してしまった。
高知市もこれではいけないと思ったのか、はりまや橋交差点にはあれこれ手が加えられてある。道端にはやけに立派な石造りの欄干が設けてあって、よさこい節にちなんだかんざし模様の飾りがはめ込んであった。そればかりではない。傍らの細い掘り割りには、近年作られたらしい真っ赤な太鼓橋が、申し訳程度に架けられてあった。
もともとはりまや橋とは、この地で暖簾をあげていた豪商播磨屋と櫃屋(ひつや)が、内々の往来のため、両家の間の掘り割りに作った小さな橋で、元からそう大きなものではなかったらしい。かつての掘り割りは昭和の高度経済成長期に埋め立てられ、橋という地名だけが残っていたが、それが近年になって整備され、再び掘り割りも作られ、現在の姿になったらしい。
幾多の観光客をガッカリさせ続けているはりまや交差点、実は道路マニアには堪らない場所である。交差点の間近に国道32号線の終点と同33号線の起点が控えているばかりか(注2)、すぐ北には高知駅がある。路線バスや路面電車の駅もある高知屈指の交差点であり、交通の要衝としての重要性は計り知れない。こんなに人通りがあるのだから、坊さんがかんざしを買っても、すぐにばれるわけである。
高知市にはもうひとつ、「地球33番地」という、極点マニア好みの場所がある。東経133度33分33秒の子午線と、北緯33度33分33秒の緯線(日本測地系)が交わる地点で、3が12個並ぶゆえ、この名が付けられている。
極点大好き荒井、はりまや橋の次はこちらに向かったが、これがなかなか見つからなかった。東経133度33分33秒と北緯33度33分33秒の交点と、地球規模で正確な座標こそ指定できても、子午線が見えない荒井にはどこだか判るわけがない。地図で見当を付けてあたりを捜してみるものの、それらしい場所は見つからず、そのまま隣の南国市まで行ってしまった。一旦高知に引き返し、調べなおした結果、詳しい場所が判明したので、ようやくたどり着くことができた。
地球33番地は、江ノ口川という幅20メートルほどのドブ川にあった。川の両岸には住宅が建ち並ぶ、非常に地味な場所である。そんなところに変わった形の記念塔が建っているので、近くに行くとそれとわかった。件の経緯線の交点が指し示す地点は、江ノ口川の真ん中にあるのだが、桟橋が設けられており、そこまで歩いていけるようになっている。その地点には「33」の数字をあしらった球形の記念碑が設置されてあり、ここが紛う方なき地球33番地であることを示している。
経緯度の交点がぞろ目になる地点は地球上に43ヶ所ほどあるのだが、陸にあるのは9つだけで、しかもその中で人が簡単に行ける場所となると、ごく数が限られてくる。立地こそ地味だが、地球33番地は、実はそうした全地球的にも珍しい場所の一つなのだ。
しかし、極点マニアでもない一般人の間ではやっぱり知名度が低いのか、この時荒井以外の見物人は一人もいなかった。
昼が近くなっていたので、いよいよ高知県庁に向かった。
高知県庁はあまり特徴のない庁舎だが、入口には県のマスコットキャラクター、くろしおくんの人形が置いてあったりする。食堂は食券式なのだが、一風変わっていた。自販機で食券を買うと、誰が何を注文したのかが自動で厨房に伝わるようになっているので、客は食券をカウンターに持っていく必要がない。これまで40近い都道府県庁食堂を廻ってきた荒井でも、こんな方式の県庁食堂は見たことがなかったので、少々とまどってしまった。
高知らしく鰹のたたきでもあればよかったのだが、残念ながら献立になかったので、豚カツ定食を食べることにした。もち豚の肉を使い、しかも注文を受けてから揚げているという、なかなか力の入った一品だった。
売店を覗いてみると、ぼうしパンという変わった物があった。文字通り、帽子の形をした菓子パンだ。全国ではあまり知られていないが高知ではお馴染みのパンで、これにもやなせ先生作のマスコットキャラクターがいたりする。つばと帽子では使っている生地が違っていて、食べると素朴な甘い味がした。
高知の一の宮も県庁も廻った。四国一周次の行き先は徳島だ。国道55号線を東に走る。海が見えてくると、街中の暑さもだいぶやわらぎ、涼しい風が吹いてきた。一気に室戸岬まで走ってしまうつもりだったが、途中で眠くなったので、安芸市の名所、野良時計に立ち寄って、そこの四阿で30分ばかり寝た。
野良時計は明治の中頃、地元の地主さんによって作られたものだ。その地主さんがあるときアメリカから時計を買い、そのからくりに興味を持った。そこでばらしては組み直し、またばらしては組み直しを繰り返しては時計の仕組みを勉強し、そしてついに自分で作ってしまった自信作が、この野良時計なのだ。歯車一つに至るまで、全部地主さんが自作したという逸品で、確かに文字盤の数字など、手書きっぽい。以来時計は100年以上に渡って、時を刻み続けている(注3)。
時計は古民家の屋根に据え付けてある。まわりには田んぼが広がっている。時計は地元の農家の人々に、時刻を伝える役目をしてきた。どこかモダンな時計は、あたりの農村風景に溶け込んでいた。
昼寝の後、そこから室戸岬までは真面目に走った。室戸岬も四国一周では欠かせない、四国東南端の岬である。岬の手前には八十八ヶ所巡礼の寺院があって、途中白装束のお遍路さんも何人か見かけた。
岬は岩床が広がっていた。南国ならではの植物、あこうの林もある。沖は茫々たる太平洋で、背の低い灯台が、特大のフレネルレンズでその向こうを見つめている。
足摺岬と並ぶ台風上陸地として有名な室戸岬も、最近は海洋深層水で有名になっている。どこか飲めそうな場所を探してみたが、海洋深層水コーヒーを出している喫茶店こそあったが、さすがにただの深層水を飲ませる場所はなかった。
室戸岬を回り込み、四国の東岸を走る。四国も半分を廻ったというところだろうか。海を右手に、左手に沿線に鄙びた漁村、海水浴場、リゾートホテルなどをいくつか眺めた末、夕方になってから徳島県の日和佐町(現美波町)に着いた。
この日は町内の恵比須浜キャンプ場に転がり込んだ。浜辺の小さな緑地に作られたキャンプ場だ。すぐ隣は海水浴場で、時折波の崩れる音が聞こえてくる。片隅にテントを張り、久々に米を炊き、買い置きのレトルトカレーと川海苔の佃煮で夕食にする。佃煮は一食分が給食のジャムのように小分けになっているもので、持ち歩くのに非常に重宝した。
注1・「『維新の嵐』にも出てくる」:ゲーム「維新の嵐」には、訪れるだけで精神力を回復させる名勝として、桂浜が出てくる。
注2・「間近に控えて」:国道32号線・33号線の終点・起点は、はりまや交差点西1キロほどにある県庁前交差点。交差点には標柱が立っているほか、県庁前にも高知市道路元標が建っている。
注3・「時を刻み続けている」:荒井が当地を訪れた翌年、2004年の11月に時計を管理されていた方が亡くなったため、現在は止まっている模様。
自動車旅ならまだしも、徒歩や単車、自転車旅では、まず冷蔵庫は持ち歩けません。ですから食料を持ち歩く場合、その貯蔵方法にも頭を使うことになります。基本的には日持ちのするもののみを持ち歩き、生ものは必要な分だけを買って早々に食べきることになります。
持ち歩く場合、調味料は小分けになっているものが便利です。荒井の場合、砂糖はスティックシュガーや、フィルムケースに自分で詰めたものを利用してました。塩と醤油は小瓶を一本持ち歩き、味噌は小袋入りのインスタント味噌汁で代用しています。