FAXによるご意見もここに掲載できるようにする予定です。
以下は、「私達の考え方」の歴史的背景を書いた部分の校正を依頼した方から寄せられたご意見です。
がんばれ上山事務局
上山合併に思う
どの町にも歴史がある。どの町にも脈々と積み重ねられてきた過去がある。上山とて例外ではない。上山には上山の アイデンティティ−とも言うべき歴史がある。確かに、そこには歴史がある。それは動かしようもない事実である。
しかし、そうは言っても、我々は上山の歴史をどれほど知っているというのだろうか。歴史々々と声高に叫んでみたとこ ろで、我々は教科書に載っている事柄のみが「歴史」であるという錯覚に陥っているということを否定できるだろうか。
受験戦争などという愚かな妄想にとりつかれた者は往々にして、「教科書に載っているコト=有名なコト=覚えなければ ならないコト」の表裏一体として「載っていないコト=無名なコト=取るに足らないコト」という観念を持っているのでは ないだろうか。
上山について考えてみれば、この町が教科書に登場することは皆無に近い。いやいや、江戸時代、幕府によって流罪とされ た沢庵和尚がやってきたじゃないかと言ってはみても、それは「流刑地としての上山」であると切り返され、我々も 「沢庵和尚=たくあん漬け」くらいの知識しかなくては、「教科書党」から上山は日本の歴史を語る上で受動的な役割しか 果たさなかったと揶揄されても反論出来ない。
だが教科書だけが歴史ではない。断じてそうである。しかし、我々が最も親しみやすい小説や時代劇でも上山を取り上げられることが 滅多にないとあっては、周囲に忘れ去られてしまうのも無理からぬこと。
いくら昭和の名城・上山城などという鉄筋コンクリ−トのケンゾウブツを造ったところで、斎藤茂吉のPRに全精力を傾けたところで、 我々上山市民がこの町について何も知っていなくては「歴史と伝統ある上山」 というお決まりの謳い文句も中身がカッラポだろう。
では、この町に語るべき歴史があるのだろうか。この問いはひょっとしたら東北地方の多くの自治体にも同じことがあては まるかもしれない。
東北の歴史、それは一体何か。奈良平安の都華やかなりし頃から、いやそれよりずっと前から、所謂「中央政府」から 蝦夷(エミシ)」と蔑まされ、藤原三代の栄華も幻の如く、兵どもが夢のあと、如何に伊達政宗が「奥州王」となろうと も、秀吉・家康の前では臣下の礼をとらざるを得ず、あれほど愚直なまでに天皇に忠誠を誓った会津藩は、薩摩長州の私怨と 革命の論理のため「賊軍」の名の下に蹂躙され、最後に残ったものは「白河以北一山百文」という東北蔑視の風潮、 岩手出身の首相・原敬が維新の無念を晴らすため奮闘しようとも蔑視風潮は残り続け、いつの間にか今日に至っている。
世間一般的に「田舎」と言えば東北である。決して山口や鹿児島というような「西」や「南」の地方ではない。テレビなどに 登場するステレオタイプの「田舎者」も必ず東北人である(標準語は別として、関西弁や最近では九州弁が市民権を得つつ ある昨今、東北弁は以前として「訛り」である)。
東京や、それに類すべき大都市に対して、その他を「田舎」というならば、「田舎」は全国至る所にあるのにである。 「田舎」が悪いというのではない。寧ろ、その逆であると思う。問題は「田舎」を「都市」に比べて一段低く見るという 風潮であり、その蔑視すべき「田舎」を東北に投影してきたという歴史的事実である。
更に厄介なことに、この国には、人口が多い町が「都市」しかも「格式高い都市」であるという幻想が存在する。そして、 その「都市」になるために血眼になって周囲を合併しようとする自治体があり、また、その誘いに応じ、大なるものに 阿諛追従しイチの子分のように尻尾を振る不逞な輩もいる。そんなことをしても「都市」にはなれないのにである。
何故、「都市」になろうとするのか。何故自分の「田舎」に誇りが持てないのか。 我々は無理やり仙台に合併された町の哀れな末路を見てきたはずではないのか。いずれ捨てられて、ますます寂れてしまう ことが分からないのか。
話がやや混乱した感もあるが、言いたいのは、我々の町にも教科書や小説に載らなくても語るべき歴史があるということで ある。
以下にある一つの話を簡単に示そうと思うが、それは「東北=田舎=中央に劣る」というイメ−ジを決定した明治維新 に関係することである。
或いは、劣等感の裏返しである中央・大都市思考の出発点とも言えるかもしれない。なぜなら、維新の結果、東北諸藩は 中央政界に踊りでて自ら主体的に行動するというチャンスを葬り去られ、上山松平三万石も「中央政府」の名を語る明治新政府によって 「賊軍」の烙印を押され、他の東北諸藩とともに不当な差別を受けることになるからである。
慶應三年(1867)、江戸幕府はもはや死に体となっていた。そして天皇を「玉」として頂き、討幕の構えを見せる薩摩長州の 動きも活発となっている。
このような状況の下、将軍・徳川慶喜は起死回生の秘策を練った。二百数十年もの永きにわたり徳川家が担ってきた政権を 朝廷に返上する、即ち「大政奉還」である。慶喜は、先手をうって政権を返上することで、武力倒幕を狙う薩摩長州の大義名分を奪おうとした。
しかし、慶喜は何も慈善事業でむざむざ政権を政敵に渡したわけではない。自分が身を引くことで、内乱の危機を回避しよう などというような奇麗事を考えたわけではなかった。
朝廷は政権を返されても、全国を統治するだけの機構も経済的基盤も何もない。慶喜には、「名」があっても「実」が伴わ ないのであれば、朝廷はすぐに政権を徳川家に再び与えるだろうという読みがあった。そして、その上で徳川家を中心に 全国諸大名・諸藩士を結集して会議を開き、諸大名連合の新政権を樹立しようという統一国家構想があったのである。
だが、薩摩長州はこれを見抜いていた。時を経ずして、薩長は王政復古のク−デタ−を決行。徳川家に旧幕府直轄地を朝廷に 差し出すことを要求し、名実ともに徳川家を骨抜きにしようと画策する。
これに対し、会津藩を中心とする徳川恩顧の諸大名や旧幕府兵などが激昂。薩長討つべしの声は日増しに高くなる。慶喜は これを抑えきれなかった。そして、ついに旧幕府軍は薩長と京都・鳥羽伏見で激突、ここに戊辰戦争の火蓋が切って落とされ たのである。
と、ここまで書いてみても上山の「カ」の字も出てこない。「薩長」だの「鳥羽伏見」だのと、歴史に興味がある人に お馴染みの文句文言が並べてあるだけで、一体どこに、上山のような小藩が入り込む隙間があるのかと疑問に思ったとしても、 それは至極当然のことである。
だが、確かに上の事柄に上山が関わっていた。それは、旧幕府軍と薩長が激突する鳥羽伏見の戦いに至る過程に於いてである。
旧幕府軍と薩長が大坂と京都で対峙し、一触即発の危機にあった慶應三年の末、江戸では薩摩藩が不穏な気配をみせていた。 薩摩は不逞の浪人や無頼の徒を煽動し、江戸の市中で強奪や放火などの破壊活動を行わせていたのである。
これを直接指揮したのは薩摩藩士・益満休之助という人物であるが、勿論これは薩摩藩首脳の指示によるものであった。 薩摩藩首脳、即ち西郷隆盛である。
西郷は江戸のみならず関東一円の騒擾も画策していた。
この西郷の謀略の目的は何か。まず、京坂に注目している旧幕府の目をそらそうとしたため、つまり旧幕府方の兵力の集結を 防ぎ、討幕派が包囲され京都に孤立するというような事態を避けようとしたためである。
そして、それに関連して、旧幕府軍に開戦を決意させ、早期に武力で決着させるためである。また、或説によれば、旧幕府の方を先に挙兵させ、 大義名分を手に入れるという狙いもあった。
果たして、旧幕府は薩摩の挑発に乗った。
江戸の旧幕閣は、江戸在府の諸藩に薩摩藩邸の焼き討ちを命じた。
命令を受けたのは庄内藩、越前鯖江藩。
そして、上山藩である。
戦闘は払暁に始まり、亥の刻まで続いた。
その時の上山藩の様子を伝える『藤井御伝記』に云う。
「……大小の砲声百雷ただならず。邸内火起こり
火勢甚だ盛んにして烟焔天を焦がすが如く、
弾丸雨降し、或いは狙撃し、或いは格闘し、三藩力戦、周囲挟撃しければ、
浪士等事の倉卒に発り、防戦の術なく、進退これ窮まりて
我が手の方へ潰走し来りければ、
藩兵力を合わせ、逃ぐるを逐ふて尾撃せり…」
この戦いで、上山藩の藩政の中心人物であった金子与三郎清邦が戦死する。享年四十五才である。金子与三郎は藩政改革を 断行し、諸藩の名士とも交わった逸材である(長州の桂小五郎のちの木戸孝允もその一人)。
また、余談ながら、あの新撰組の生みの親である出羽出身の志士・清河八郎とも親交が深く、清河が幕府の刺客に暗殺されたのは、 彼が金子を訪問した帰り道においてであった。
つまりは、金子与三郎という人物は、当時、かなり名の通った知識人であり、政権周辺の幕臣や薩摩長州など の西南諸藩に生まれていたならば、なんらかの形で名を残したであろう人物であったと思われる
詳しくは『上山市史』上山図書館所蔵『幕末の名士金子与三郎』参照のこと]。上山藩は有為な人材を失った。
激戦の末、三藩は勝利を収める。
しかし、上山藩兵を初めとした薩摩藩邸襲撃の一団の放った銃弾の一発一発が、確実に歴史の歯車を動かしてしまうことに なる。
この一件を知った大坂城の旧幕府軍は大混乱となった。
会津・桑名を中心とする主戦派は声高に叫んだ。「薩長を討伐し、速やかに君側の奸を除くべし」と。
年が明け慶應四年正月二日、旧幕府軍の主力は「討薩の表」を掲げて北上、一路京都へと向かった。もはや戦いは避けられ なかった。
全ては薩長のシナリオ通りに進んでいた。旧幕府軍と薩長が武力衝突に及んだのが翌三日、戦線に「錦の御旗」が翻り、 旧幕府を「賊軍」、自らを「官軍」と称することに成功したのが四日、徳川慶喜が大坂城を密かに脱出し、江戸へ遁走するの が六日、そして、江戸城の無血開城に成功するのが四月の十一日である。
その後、上山藩は、薩長新政府に対抗して結成された奥羽越列藩同盟に参加することになる。同盟は、薩長新政府による 会津・庄内「追討」の非を訴え、新政府に成り代わり、自らが主体となり「真の王政復古」を為し遂げるという旗の下、 数多くの問題・異分子を孕みながらも、東北・越後諸藩の大連合へと発展していった。
同盟軍は東北・越後の各地で新政府軍と激戦を展開、上山藩も越後口・秋田口などに出兵していった。
東北は、日本の「歴史劇」の中では「脇役」であり続けた。そして、時には舞台にさえ登場せぬ「裏方」であった。それは 上山にも当てはまることである。
観客は「裏方」の苦労など微塵も考えず、繰り広げられる作品のスト−リ−を追うだけだ。そして、月日がたてば、 脇役」の顔を忘れ名前を忘れ、記憶の断片に残るのは「主役」の演じたクライマックスシ−ンや名台詞のみとなる。そして、 終には、そんな舞台があったことすら忘れてしまうのだが……。
しかし、いずれにせよ「裏方」や「脇役」のいない舞台があるだろうか。それで舞台が成り立つのか。否、それ以前として、 「主役」「脇役」「裏方」の別など一体誰が決めるというのだ。我々自身ではないのか。我々は、過去に出来上がった舞台を そのまま受け入れるのではなく、それを「劇中劇」として再構成していくべきではないのか。
今、台本の中の「上山」という名前が消されようとしている。縦令どのような役回りにせよ、必ず台本の中に書き込まれて いたはずの、そして今もいるはずの「上山」という名前を永遠に消されてしまう。今現在「上山」を演じ、創りあげている 我々に何の断りもないままにである。
市町村など、所詮は人間の生み出した行政区画にすぎないという意見もあるだろう。確かに金科玉条の如きものではない。 だが、無味乾燥な区画と切って捨てるには忍びない愛着が既に出来上がっているのも、また事実である。
どうしても「上山」を抹殺したいならば、市民の愛着を否定出来るだけの材料を提示すべきだ。今まで散々「歴史」と「伝統」を ダシに独自性をアピ−ルして観光客集めを目論んだ、その二枚舌を謝罪すべきだ。
そして、現実問題として行政サ−ビスの低下に納得出来る答えを出すべきだ。俺はまだ、そんなものを聞いた覚えはない。
ヨ−ロッパ・ネ−デルラント地方では、「合併」ではなく、自治体の「目的連合(租税連合)」という形をとって、地域の 独自性・独立性を重視している。
都市の行政機能の整備を為し遂げるためには、「合併」という安直な形態発想しか出来ない人間には分からないのであろう。
中国の有名な故事にある。
「鶏口と為るとも牛後と為る無かれ」
[『史記』「蘇秦伝」より]