元「慰安婦」宋 神道さんに聞く(98.11.22:山形市集会)
私は、
12歳の時父を亡くし、母が他の男性と一緒になったせいもあり、母から「結婚しなさい」と言われた。
しかし、私はまだ若いので、結婚とはどんなものなのか分からなかった。紹介された男は、28歳で顔も
良くないし、しかも長男、妹なども下にいたし・・・。親達が全部準備をしているのでそれに従うしかなかった。
かごのようなものに乗せられてえらい山の中につれていかれた。6月18日のこと。まだ、子供なので、お手玉などをして
いたら、「これは、おかしくなったんじゃないか」といわれた。男は、夜になり、体を触ったりするし、いやになり
逃げ帰った。母にそのことを話すと「女はそういうことを聞かないとだめだ」と言われ、棒で殴られた。妹は
チョゴリを着せてかばってくれた。
母は、食事も与えてくれなかった。
そんな時、ある男が、「お国のために働いて、めしを食わせるところがあるからいかないか」といってくれた。
心配ではあったが、
北朝鮮のソッゲソというところ(実は、女を売ったりするところ)にいくことになる。
20人〜30人くらいの女がいると。「何をするのか」と聞くと「いずれわかる」とのこと。船で行くのだが
船もなかなかでないし、洗濯などをして待っていた。「着物を買え」とのことで着物とはどんなものか分か
らなかったがともかくも買った。借金だった。天津を通り漢口ー
武昌にいくことになる。漢口から行く時はボート
のような小さな舟にのった。
現地につくと死体などもあり汚い所だった。私が穴を掘り埋めてやったりもした。
初め「女の検査する」というし、兵隊がきて「やらせろ」などというし、その時は年も若いし意味もわからず逃げま
わった。検査は後にするということになり、後に皆とおなじく台にあがった。あまりさわぐのでしりをたたかれ
「よし」ということになった。<
性病の検査のこと:注>検査を終えると「通過部隊」が「やらせろ」などと
さわぐし、おこられるし、殺されるかもと思い、死ぬよりやった方がいいと思い、
死ぬ思いでいうなりに
ならざるを得なかった。いろいろな兵隊がいた。背中に刀で切られた傷(7?センチほどの:2?)が今もある。
名前がわからないと困るということで「おれが名前をつけてくれる」と言われ、左の腕に「金子」という刺青をされた。
言葉が通じないのでよけい叩かれるしほんとに死ぬのかと・・・・。
当時19歳。武昌。
間もなく
妊娠する(漢口で)。「働け」なくなり
「不要」な扱いになる。50年にもなるが、忘れることなどでき
ない苦労だった。
学校にはいかないので読み書きは全くできないし、いろいろ言われても言葉は通じないし、本当に
たいへんでした。
逃げたら殺されるという頭でいっぱいだし。
子供を産むが自分で育てることはできなかった。「こんなところにいると兵隊の相手をしなければ
ならないから」ともいわれるし・・・・。やがて朝鮮の女がきて「
わたしがもらっていく」というので、くれる
ことにした。2日目に「あまり泣くし育てられない」などと返しにきたが、「一度育てるともらって
いったのだからなんとか育ててほしい」とまた、引き取ってもらった。
兵隊は、また、「やらせろ」とかくるし・・・・。多くの朝鮮の女性はそうして軍隊の相手をさせられ
ました。長安とか、
軍の作戦にともない車に乗せられ、各地を転々とさせられた。
慰安婦は交替交替だった。通過部隊がきた時はとても「混雑」した。
弾のとんでくる中で「やらせろ」といわれるのは本当に死ぬほどつらかった。行為が「終わらない」と
やめるわけでもないし。兵隊は日本の国のために死んでもしかたなかったかもしれないが、
われわれ
なぜ、日本のためにこんなことをしなければならないのか、と思うと、これが一番つらかった。
クレゾール液(消毒液)を飲んで死んだ”慰安婦”もいた。
兵隊の骨は日本に「帰る」が、朝鮮の慰安婦の骨は家には届かない。差別がここにもあった。
日本語を話せないこと、話せないと困ることが多いし、覚えることがつらかった。
兵隊には恩給などがあるが、
われわれには今もって謝罪もない。戦争のためだ。
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