私の知る奥羽本線の姿


 このページでは、私が見てきた奥羽本線の姿を紹介します。
(年齢層がバレバレなのがちょっと恐い。)

 なお特に小さい頃の話は記憶が頼りなので、時期が前後している場合があるかも知れませんが
ご了承の程を。また奥羽本線に関する話のみではなく、私と鉄道とのかかわり上、他線区の話も
入っています。


1.1970年台前半(昭和45年〜)

 私は小学校の低学年から中学年の頃で、まだ山形交通「高畠電鉄」が走っていた頃である。
 学校への通学路は、高畠電鉄「竹の森」(たけのもり)駅前を通っていくコースだった。
 毎日電車や貨車(とはいっても、混合列車が多かった)を見ながらの通学だった。
 また「竹の森」付近は格好の?遊び場だったように思う。

 そんなある日、今は亡き祖母に連れられ、米沢の親戚まで出かけることになる。
 高畠電鉄「竹の森」駅から乗車し、「糠ノ目」駅(ぬかのめ 現在の高畠・・・たかはた・・・駅)で
奥羽本線に乗り換え、「米沢」駅で下車。
 当然乗った車両は旧客だが、この時の機関車が何だったかまではさすがに記憶がない。
 ただ、「ダタン ダタン」というジョイント音のリズムと、乗車した客車が緩急車だったのか、
デッキ付近にあった大きなハンドルの存在だけがなんとなく記憶に残っている。
 米沢からの帰り、米沢構内にSLが止まっていたような気がするが、事実はどうだったのか。


2.1974年(昭和49年)

 私が小学校5年の秋頃だったと思う。いままで毎日見ていた「高畠電鉄」がついに廃止に
なった。
 学校の関係で「竹の森」駅でおわかれ会に出席。合奏で見送る。(これで出身校もバレバレ。)
 この時は正直言ってこのインパクトがよくわからなかった。

 そしてこの年の冬休み、これも祖母に連れられ東京の親戚をたずねる旅に出ることになった。
 「赤湯」駅から乗車し、ボンネット型の485系特急「やまばと」に揺られ「上野」に出て、
山手線,都営6号線(現在の都営三田線)を乗り継ぎ親戚宅へ。

 赤湯駅で「やまばと」を待つ際、下り線には キハ80系(おそらく)「つばさ」が通過
していった。(「はつかり」との共通運用でボンネットタイプも走っていた。)


注)若い世代の人は、特急「やまばと」と言ってもピンと来ないのではないでしょうか。一応
 説明します。
 ・特急「やまばと」・・・奥羽本線及び東北本線経由で、山形−上野を結んでいた電車特急。
  (以前はディーゼル特急だったらしいが、その頃は私自身は見ていない。資料を調べた所
  「やまばと」電車化は昭和43年10月の時刻改正・・・よんさんとう改正・・・時らしい。)
  その後東北新幹線の上野乗り入れの際に「つばさ」に吸収され事実上の運用廃止。

 ・特急「つばさ」・・・今では山形−東京間を結ぶ山形新幹線の愛称となってしまったが、
  当時は奥羽本線及び東北本線経由で、秋田−上野を結んでいたディーゼル特急であった。
  その後電車特急になるが、東北新幹線の大宮までの開業で運用を縮小し、さらに東北新幹線の
  上野乗り入れに伴い、上野への乗り入れが1往復のみとなり、大半が福島−秋田間のみの運用と
  なる。
  山形新幹線関連の工事で奥羽本線の全面運行中止になった時期には、仙山線経由で仙台−秋田と
  いう運用もあったが、山形新幹線の開業によりその名を山形新幹線に譲る。
  山形−秋田間は、特急「こまくさ」として再出発。そして今春、秋田新幹線「こまち」開業で
  「こまくさ」の運用は縮小され、秋田まで行く「こまくさ」はわずか2往復に・・・
  


 上野ではボンネットをバックに祖母と一緒,それから私だけ,車両だけと3枚程写真を
撮った(撮ってもらった)と思う。

 この時にはすでに、現在の私の仕事にもなってしまった電気関係に興味を持ち初めており、
秋葉原にも2度ほど出かけ、もらったばかりのお年玉で部品を買ったりした。
(この話は置いておくが、「電気」系に興味を持った事から電気で動くという理由で
鉄道が好きになったかどうかは定かでない。しかしあとあと鉄道を利用する事とのつながりも
十分にある。)

 初めて乗った「特急」、それに山手線の103系と都営線の電車の音の違いや、そのスピード,
(今となっては遅いとまで思うのだが。)大量の電車等の存在といった衝撃で、「鉄道」に興味を持ち始めた
ようだ。(小・中学校の頃の自分が描いた絵や工作等を見ると103系や485系が題材に使用されて
いたりするのだ。)

 また本になった「時刻表」の存在もこの時に知った。

 この旅は次の年の同じ時期にも出かけた。


 そしていままでは毎日見ていた「高畠電鉄」がなくなった為もあり、毎朝同じ時間に学校近くから
遠くに見えた奥羽本線を走る列車を見ては、「鉄道」に対し一種のあこがれを抱いていたものと思う。
(この時に見ていた列車は、多層併結・分割列車として一部?で有名だった「もがみ・千秋」号
だった。この時は3年後の修学旅行でこの列車を利用するとは知らずに。)

 残念なのが、現在建設が進められている道路の関係で、私が見ていた場所からは奥羽本線を
走る列車が見えなくなってしまった事。「高畠電鉄」もなくなり「奥羽本線」も見えず、
鉄道の存在は雑誌や絵本やTVの世界だけという事になり、この地域から鉄道ファンが生まれる
事は99%ないのではないだろうか。


3.1970年台後半(昭和50年台前半)

 中学に入った頃、奥羽本線全線電化が完成し、秋田行きの特急「つばさ」がディーゼル特急から
電車特急になるというニュースを聞く。
 その時のニュースで、当初車両のやりくりがつかず、60Hz用電車(481系?)が走るとの
事で、速度が出せないという話をしていた記憶がある(最近になってわかったのだか、九州特急の
「かもめ」「みどり」に投入予定だった481系200番台を先頭車に使用した485系電車だった
ようで、速度の問題の話は今となっては疑問があるのだが。)が、それを解決した(製造が遅れた為
なのかどうかはわからないが。)のが今は「こまくさ」「いなほ」「白鳥」等で活躍している485系
1000番台(耐寒耐雪仕様で、北海道仕様として製作された1500番台より後に登場)電車
だったのだと思う。


 そして修学旅行では、赤湯からキハ28/58系「もがみ・千秋」号で奥羽本線を北上し
青森まで行き、連絡船で函館に渡り、道内はバス。そして帰りはまた青函連絡船で青森に戻り、
485系「はつかり」で仙台へ、そして急行「仙山」(急行「あさひ」だったかも知れない)で
山形へ、その後赤湯に戻るというコースだったと思う。
 この時で私自身が奥羽本線全区間を乗車した事になった。

 急行「仙山」(今は快速になってしまったが。)については、仙台まで無線の試験を受けに
いった時にも利用した。この時帰りは仙台−山形間が急行「仙山」,山形−赤湯間が急行「あさひ」
だったと思う。
(当時の急行「あさひ」は現在の快速「べにばな」に相当する列車。ただし当時は仙台−新潟間を
直通していた。「あさひ」の名前はみなさんもご存じの通り、現在は上越新幹線の速達特急列車の
名前になっている。)


 またこの頃、初めて「鉄道ファン」誌を購入。('78年10月号)
485系特急の特集で、見開きの部分に485系200番台(俗に言う「電気釜」タイプで貫通型)
の構造を示した模型図がついていた。この雑誌で485系を深く知る。

 丁度電車特急に絵のついたトレインマークが登場しはじめた頃でもあり、各列車のマークの一覧が
掲載されていた。

 「つばさ」のヘッドマークは、赤地に白抜きで大きな鳥の羽をデザインし、青色で「つばさ」の
文字が配されていた。
 「やまばと」のヘッドマークは、青地に白抜きで「やまばと」をデザインし、黄色で「やまばと」の
文字が配されていた。

 この頃、兄が一眼レフのカメラ(今はなき「YASHICA」ブランド)を購入し、
それを借りては鉄道関係の写真を撮り始める。
 この頃〜高校時代に撮った糠ノ目駅(現高畠駅)の様子や米沢駅の様子、沿線の様子、走行している車両等
の記録が、今となってはこんなに貴重な資料になるとは思ってもいなかった。

 ヘッドマークが文字だけの「つばさ」の写真があったり、貫通型の先頭車を使用していた
「やまばと」を撮影した写真(これが残念ながら失敗作で、先頭の中央部に電柱が入ってしまい、
貫通型である事がかろうじてわかる写真。)の写真等もあるので、機会をみて紹介していきたい。
(実際にはスキャナを購入した時点か。)


4.1980年前後(昭和50年台中頃)

 米沢市内の高校に進学し、「糠ノ目」−「米沢」間を毎日のように通学。
 当初は茶色か青の旧型客車に揺られての通学だった。
 ニス塗り木造の独特の車内、車内照明も新し目の車両(それでも昭和30年代後半位では
なかったか。)は蛍光燈だが、古い車両ではグローブのついた白熱電球だった。
 またJNR(国鉄ロゴ)マークのついた扇風機がついていた。
 大抵の車両の形式は「オハ」だったが、まれに「スハ」とか「ナハ」という型式の車両が
混じっており、内装が若干違っていた。
 緩急車の存在と、小さい時に見たデッキにある大きなハンドルがブレーキだったという事が
なんとなくわかってきた。

 電機はEF−71かED−78で、ED−75も一部あったのではなかったろうか。
 重連で来ると駅のホームに入線する際
「ダダン ダダン ダダン ダタン ダタン ダダン ダタン  ダタンダダン  ダダンダダン・・」と
けっこう激しいジョイント音が聞こえていた。(EF−71はもちろん、ED−78も6軸あるので
こんな音がする。)

 この頃、帰宅時は平日は16時台か17時台,土曜日は15時台の列車でこれらは客車運行だが、
遅くなって19時台になるとディーゼルカーだった。
 これも、キハ22等といった古い車両が多かったが、まれに元グリーン車だったらしく転換シート
がついた車両がまれにあり(車番は忘れてしまったが、1両だけ。)これが来ると少々得した感じ
だった。


 17時の列車で帰宅する場合、米沢で485系(「つばさ」だったと思う。)との交換で発車
だった。
 当時の「やまばと」,「つばさ」編成を以下に示すが、この頃が485系特急の最盛期で、
12両で食堂車もついたフル編成の電車が各3往復、合計6往復運行されていた。
 
 クハ−モハ−モハ−モハ−モハ−サシ−サロ−モハ−モハ−モハ−モハ−クハ

 ちなみに高校での修学旅行はこの485系1000番台で上野まで行き、東京から0系新幹線で
阪神方面といったルートで往復した。(まだ100系新幹線は無かった。)


 高校在学中には、今後の時代にそぐわくなるとは予想もしていなかった、40/48系
ディーゼルカーや50系客車が、新型車両としてこの奥羽本線にも登場した。
 40系ディーゼルカーのデビュー時には、これに乗る為にわざわざ19時台という時間の
遅い列車(この頃としては)まで待ってみたり、50系デビュー時には学校の帰り普段は
米沢乗車で糠ノ目(現高畠)下車すべき所を山形まで乗り越してみたり(しかもカメラ持参)
などという事もやった。


 また、電気関係の部品を入手する為、糠ノ目乗車で米沢までとか、赤湯乗車で山形までを
高校卒業までの間幾度となく出かける。今は亡き祖父から携帯型のカセットテープレコーダ
(「ウォークマン」が出始めた時代であるが、そんな物は持っていなかった。現在の
ヘッドホンステレオと比べると4倍位の体積がある物だったが、それでも小さいと思った。)
を借りて、車内の音を録音した事があった。
 60分テープ1本だけであるが、キハ22や旧客の走行音のみならず、上ノ山(現かみのやま
おんせん)駅や山形駅の構内放送(昔ながらの駅名連呼型の放送)やジリリリーンといった
ベルの音、秋田行きの急行「おが」との列車交換、ロングレール化により今では一部でしか
聞こえなくなってしまったジョイント音等、当時はいたずら半分に録ったような感じだったが
今になれば貴重な記録になった。(この記録テープの一部を別途公開したいと思います。)


5.1980年台〜(昭和50年台の終わり頃)

 社会人になる。配属された部所柄年に何度かではあるが出張する機会があり、それにより奥羽本線が
狭軌から標準軌へ、そして走行する列車の変化等、大きく変わる様子の概要を見続ける事が出来た
ように思う。


 社会人になって間も無い頃、485系「つばさ」で奥羽本線から東北本線経由での出張が2度程あった
だろうか。
 出張の帰り、たまたま取った指定席。隣が若い(もちろんその頃なので年上だっただろう。)女性
だった。きっかけに缶ジュースをあげ、彼女が米沢で下車するまでしばらく話のお相手をして
いただいた。(自分から見知らぬ女性に自分から声をかけたのは最初で最後か?何を話したのか、
もう覚えもない。今となってはこのような事はできそうもないな。)


 その年(資料によると昭和57年6月)東北新幹線の大宮−盛岡間が開業した。当時何往復
かは上野まで行く「つばさ」「やまばと」が設定されていたと思うが、私のほうは485系特急で
東北本線を利用する事は無くなり、赤湯−福島間だけの利用となった。
 その変わり、福島−大宮間は200系「やまびこ」,大宮−上野間の「新幹線リレー号」に
よく乗車した。


6.1985年(昭和60年)

 出向で1年間東京住まいになる。

 この年に東北新幹線の上野乗り入れが始まり、「やまばと」が廃止され「つばさ」に組み入れ
られると共に、「つばさ」の上野乗り入れが1往復だけになってしまったと思う。
 この年は、初めの3ヶ月は列車利用で帰省(逆出張)という状態だったが、出向直前に
車を買い替えた(自動車のページで紹介した86トレノです。)事が頭にあり、うまい具合に
駐車場が見つかった事もあって後の9ヶ月は車での往復となってしまった。(でも2月に1回
位だったかな。)
 しかし、車を取りに帰った(出張)時には、急行「津軽」で一晩寝ずに(大宮乗車で
座れなかったというのが本当の所)赤湯まで乗車してきたのだった。これが夜行列車の
初体験。

 奥羽本線からはかけ離れるが、通勤は南武線101系/103系,休日には秋葉原等に出かける為に
京王線−中央本線−総武または山ノ手といった具合で列車を利用していた。
 南武線では毎朝列を乱して無理矢理割り込んでくる男がいて、何度いやな思いをしたか・・・
 京王線乗車時は大抵は先頭車で、かぶりつき乗車していた。また中央線乗車時は201系の
チョッパサウンドが聞こえる車両を選んで乗っていた。
(そういえば京王線の電車内で男の人が倒れ、駅に止まった際に駅の改札員まで連絡に走った
事もあった。)

 列車の写真撮影で上野・東京等に幾度か出かけた。丁度山ノ手線に205系が登場した頃だった。
 残念だったのが、最後の「やまばと」の姿を撮影できなかった事。事前に時刻を調べた上で、
この日はカメラ持参で出社し定時で会社を出たものの、「やまばと」の発車時刻まで上野に到着
する事は無理だった。
 
 会社から出かける際、東急東横線や田園都市線等もよく利用したが、東急サウンドにはまって
しまったのもこの頃。とどめは9000系。妙なVVVFサウンドに完全に参ってしまう。

 同時多発ゲリラの巻き添えも食った。普段は南武線1本で会社に出社できるのに、京王線から
東急線へ乗り継ぎ、10時過ぎにやっと出社したと思う。


7.1986年〜(昭和61年〜)

 山形に戻りしばらくは、出張以外では鉄道との関わりが減っていた。

 その次の年だったか、米沢駅にも50系客車を改装した「アメリカントレイン」がやってきた。
 見にいったが、ビデオ展示の存在を知らず、ガラ空きの車内を素通りして終わってしまった
ように思う。残念。

 また、国鉄の分割民営化によりJRに生まれ変わったのもこの頃である。


8.1988年〜(昭和63年〜)

 山形市内への転勤が決定。
 最初の1年は車で通ったが、結婚に伴い通勤距離が伸び、鉄道利用に変更。(実際には
自宅から最寄り駅までは自動車利用。)

 朝は50系客レによる快速「あずま」で山形まで行き、乗り換えて北山形まで。
 帰りは28/58/40系DCによる普通列車 または50系客レにより快速で、糠ノ目まで
利用し、車で帰宅という生活が続く。


 ちなみに新婚旅行も鉄道利用による4泊5日の国内旅行とした。(移動時間ばかり長い
という経路ではあったが。)
 初日は奥羽本線から東北新幹線経由で東京泊。
 2日目東海道新幹線で岡山に出て瀬戸大橋線経由で四国入りし、四国は瀬戸大橋付近を見て泊る。
 3日目岡山に戻り、東海道新幹線で小郡に出て秋吉台を見て泊る。
 4日目小郡からSL「やまぐち」号に乗車し、津和野からDC特急「おき」で小郡に戻り、
    東海道新幹線で戻り、神戸泊。
 5日目東海道新幹線から東北新幹線,奥羽本線経由で帰宅。
    丁度ダイヤ改正の時期で、計画がやりにくかった。時刻表が発売され即時刻を確定し
   JTBに切符と宿を依頼した。
    ちなみに「グリーン周遊」を利用。とはいえ、特に乗車時間の長い、行きの東海道新幹線
   「東京→岡山」 間と、帰りの東海道新幹線の「新神戸→東京」間のみグリーン車を利用した。
    残念ながら100系の2階席が取れなかった。
    また瀬戸大橋線は「マリンライナー」の展望車を利用。

 この頃に「ミニ新幹線」関連工事が始まっていた。
 旅行の頃は板谷峠の工事が始まっており、上り線のみ利用した単線運行となっていた。

 資料によると、88年8月に山形新幹線工事の起工式が行われ、板谷峠の下り線は
89年3月に狭軌での使用が中止され、赤岩のスイッチバックが廃止されているとのこと。
 ちなみに「長井線」が第三セクター化したのが88年10月。


 そして奥羽本線福島−山形間の標準軌化工事が進む90年8月末には板谷,峠,大沢の
スイッチバックが廃止され、また9月のダイヤ改正により夜行列車( 寝台特急「あけぼの」,
急行「津軽」)が山形以南より姿を消した。

 そして、11月には400系試作車両が山形駅で公開された。400系は狭軌台車に
履き替えた上で、EF−71の重連で甲種回送扱いで板谷峠を越えて搬送された。
 車両公開は当日はもちろん、前日より車両の状態を撮影したりしていた。
 また甲種回送により山形から引き上げていく400系を糠ノ目駅(現高畠駅)で
見送った。


 そして年が明け(91年)3月には400系が上越新幹線区間での試験走行で
336.1km/h,9月には345km/hと当時の国内最高速度を記録する快挙を成し遂げた。

 この年は山形新幹線関連工事の山場である。
 8月には福島−米沢間の下り線の標準軌化が完成し、719系5000番台電車が
運行開始する他、米沢−上ノ山(現かみのやまおんせん)間がバス代行となる。
 そして485系特急「つばさ」が板谷峠から姿を消し、仙台発となる。
 また「べにばな」も米沢−新潟間と運行区間が短くなる。

 10月には関根−米沢間がバス代行となり、11月の初めには福島−山形間全線が
バス代行となったが、11月5日、福島−山形間の標準軌化が完成し全区間で
719系5000番台電車の運転が開始された。

 400系量産車も姿を現しはじめた。また山形−酒田間を走行する急行「月山」
(現 快速「月山」)の車両(58系DC)がリニューアルしたのもこの頃のようで
ある。(カミンズ製エンジンへの変更,転換シート化他)

 そして12月山形新幹線の愛称が「つばさ」に決定される。


9.1992年(平成2年)

 明けてすぐ400系の量産車両による耐寒耐雪試験が行われる。
 私も休日には、カメラを持って試験走行している車両の姿を追っていた。

 400系試作車両として登場したS4編成も量産化車両に準じた工事が
行われ、L1編成として再出発。

 5月21日より400系は営業に向け130km/hでの訓練運転に入る。

 そして待ちに待った7月1日 「山形新幹線」が開業する。
 また山形以北の特急が「こまくさ」と生まれ変わり、また急行「月山」は
快速化される。

 開業当日のエピソードはこちらを見ていただくとして、
開業2日目には自動車の踏切直前横断による緊急停止といった事件があったり、
客室内の温度が上昇し特急料金を払い戻した等という事件もあった。
 後者についてはクーラーの放熱上の問題で、車両屋根上に取り付けていた
踏み板が原因だったとかで、取り外されたそうである。
 他にも福島での「やまびこ」との連結が出来ないというトラブルも幾度かあった。
 また開業当初はポイントが手動であった為に、操作の失念によるトラブルも
あったが、9月には自動進路制御装置PRCが稼動し、ポイントによるトラブルは
激減した。 


 そして年が明け(93年)2月14日 最大のトラブルが待っていた。
 下りのつばさが米沢(置賜)−高畠間を走行中パンタグラフを破損し、
置賜−高畠間(キロ程で48km付近とのこと)で動けなくなってしまった。
 予備のパンタは上がるが、破損したパンタを畳めず架線を損傷する危険が
ありそのまま走行できないということで、検修員の到着を待ち、車両の屋根に上り
ロープでパンタを縛って走行再開したそうである。しかし危険がある為速度を
上げられないということで、次の高畠で乗客は別の車両に乗り換えてもらった
そうである。
 原因は公表されていない為、強風によるものなのか、つららに当たったものなのか
定かではない。

 ちなみにその次の年の2月14日は大雪で除雪が間に合わず、奥羽線全線で
ダイヤが大幅に乱れるというトラブルも起っている。これだけは自然が相手なので
どうしようもないだろう。


 なお93年には奥羽線山形以北に701系交流電車が登場し、50系客車が
消えていった。701系はオールロングシートで登場した為に、東北地区には
合わない等といった意見が多く出された車両である。
 そんな701系も仙台地区への進出のみならず、現在では田沢湖線用の標準軌仕様
5000番台も生まれ、5000番台については一部セミクロスシートを取り入れた。


10.そして現在

 「つばさ」の慢性的な混雑を防ぐ為、95年末には「つばさ」が7両化された。

 また山形新幹線の新庄延伸も決定し工事が着手されたというニュースがある反面、
「秋田新幹線」というライバルが登場したせいなのか、その年のゴールデンウイークは
開業後初めて乗客が減少したといった情報もある。

 また寝台特急「あけぼの」がついに山形県内の奥羽本線から姿を消してしまった。


 今後山形新幹線の新庄延伸について注目していくことになるが、車両の追加も
あるだろう。どんな車両が登場するのか非常に気になる今日このごろである。
 新製される「つばさ」が400系ではなくE3系ベースで登場するとか、
ローカル列車も719系ではなく701系ベースにならないとも限らない。
(400系も719系もサイリスタ位相制御による直流電動機駆動なので、
将来のメンテナンスを考えてVVVF搭載車両になる可能性が高いのでは?
・・・私個人の希望もあるが・・・そして不評だったロングシート701系が
山形地区より退散するとか?)


11.おまけ

 どうせ年齢層がバレているのだからバラしてしまいますが、私が生まれた年は
「東海道新幹線」が開業するという日本の鉄道界の大イベントがあった年である。

 余談になってしまうが、身近な所に「高畠電鉄」が存在していた等、私自身が
鉄道に縁があったように思う。


12.参考資料

 基本的には私の記憶を頼っているが、必要により鉄道各誌を参考にしている。
 特に最後の10年分は「鉄道ファン誌’97年5月号」の特集記事を参考にした。


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