岩手の偉人

 県庁以外にも、岩手では行っておかなければならない場所があった。水沢市(現奥州市)にある陸中国一の宮駒形神社だ。岩木山神社同様、こちらも「新一の宮」である。かつて岩手は蝦夷(えみし)の土地で、朝廷支配が及ばなかった。征夷大将軍坂上田村麻呂も一目置いた蝦夷の英雄アテルイは、地方分権が叫ばれる昨今、岩手で再評価が進んでいる。
 新一の宮は全国に五つ、いずれも朝廷支配の及ばなかった地域にある。蝦夷(えぞ)の北海道神宮、津軽の岩木山神社、岩代の伊佐須美神社、琉球の波上宮(なみのうえぐう)、そしてここ陸中の駒形神社。ちなみに駒形神社のある水沢市にはアテルイの本拠地があったとされており、歴史のいたずらを感じる。

 撤収後、水沢目指して走り出した。途中花巻市を経由することになったので「イギリス海岸」を見学する。海岸といいながら、単なる北上川の岸辺である。命名者は岩手が石川啄木と並んで世界に誇る人物、童話作家の宮沢賢治だ。
 賢治は鉱物学にも詳しかった。花巻農学校で教鞭を執っていた頃、近所の北上川河床の泥岩が露出した様がイギリスのドーバー海峡のそれによく似ているというので、こんな名前を付けたものらしい。おそらく賢治はドーバーの現物は一度も見たことがないに違いない。しかも海でもないのにこういう名称を躊躇なく付けてしまうあたりが、宮沢賢治らしいのかもしれない。周辺は散策路も整備されているが、肝心の河床は水量が多く水の底だった。
 賢治ついでに、市内の羅須地人協会(らすちじんきょうかい)も見学する。羅須地人協会とは宮沢賢治が創設した、農民生活の改善を目指した団体だ。昼は農作業に従事し、夜には皆で集まって農業技術の勉強をしたり、詩作や音楽を楽しんだという。その拠点となった賢治の住まいは、もともと北上川を見下ろす高台にあったのだが、現在は賢治とゆかりの深い花巻農学校の後身、花巻農業高校敷地内にあり(注1)、誰でも気軽に見学できる。ちょうど同じく見学に来たおばさんと一緒になり、中も見学することになった。

羅須地人協会
羅須地人協会。入り口の伝言板には有名な「下ノ畑ニ居リマス 賢治」の一文が。

 賢治の住まいは草庵といった方がふさわしい小さなもので、もともと賢治の祖父の隠居住まいとして建てられたのを、譲り受けて住んでいたらしい。二階建てで居室は三つほど。そのうち一つは協会の集会に使われていた板の間で、何脚かの木製スツールと古ぼけたオルガンが一つ置いてある。賢治がオルガンを弾き、皆で歌うこともあったようだ。
 玄関には訪問者名簿が置かれてあり、全国津々浦々から来た方々の名前が書き連ねてあった。おばさんは鎌倉から来たそうで、「ここに賢治が住んでいたのね!」としきりに感激していた。建物はよく手入れされており、今なお賢治を慕う学校の方々の思い入れが感じられる。世の賢治愛好家にとってここは聖地なのだ。

 余談だが、岩手内陸では「銀河」とか「イーハトーヴォ」(注2)の名を冠する物をやたら見かける。もちろん宮沢賢治にあやかっていることは言うまでもないが、この有様を草葉の陰で賢治は苦笑しているのではなかろうか。

 鎌倉のおばさんに「賢治記念館も一緒に見に行かない?」と誘っていただいたが、DJEBELに乗っている都合もあり断念し、一人水沢に向かうことにした。国道4号線をそのまま南下するのも面白くないので、あえて東に迂回する。
 花巻の隣、東和町(現花巻市)で「ミステリー坂」なる案内看板を見つけ、気になったので立ち寄った。「ミステリー坂」とは、下り坂なのに玉などを転がしてみるとなぜか上に転がっていくという不思議な坂だ。荒井のDJEBELも、坂の下でクラッチを切るとゆるゆると登りだす。「本当だ、何もすねなさ登ってだよ!」と面白がって何度か試した。
 その種明かしは単純で、周囲の風景のせいか、下り坂を上り坂に錯覚してしまうというだけの話だ。しかし傍目には坂を上っているようにしか見えず、その感覚は不思議なものだった。このミステリー坂、東和町の珍名所としてけっこう知られているらしい。

ミステリー坂
東和町のミステリー坂。下っているのに登っている不思議な感覚が味わえる。

 さらに隣の宮守村(現遠野市)にさしかかったところで昼になったので、村内の道の駅にあるレストラン「銀河亭」で昼食にした。食べたのは村の名物わさびを使った「わさびラーメン」だ。具にわさびの茎の漬け物が載っている他、麺にもわさび粉末が練り込まれているらしい。しかも根わさびを好きなだけラーメンにすり下ろして食べる。変わった料理だが、意外に味は調っている。料理を頼めばサラダバーも利用でき、満足の昼食だった。遠回りすると、こういう面白いものに出くわしたりする。

駒形神社 高野長英記念館
陸中一の宮駒形神社と高野長英記念館。どちらも市中央の水沢公園と隣接している。記念館の写真は小冊子から

 江刺市役所(現奥州市江差総合支所)で一息入れてから水沢に入り、本日一番の目的、陸中一の宮駒形神社参拝を果たす。神社は明治初期の水沢県の庁舎跡に、近郊の山にある奥宮の遙拝所として作られたという変わった由緒がある。
 神社の近くに高野長英記念館があったので見学した。高野長英は幕末に江戸幕府を非難し弾圧を受けた蘭学者だが、水沢の出身だったらしい。水沢の有名人は吉田戦車(注3)だけではなかったのだ。展示物は長英が遺した書物や墨跡、書簡などが中心で、その膨大な量に相当な勉強家だったことが伺えた。

世田米発電所
遠野へ向かう途中見つけた世田米(せたまい)水力発電所。汲み上げた大股川の水が落ちる様は自然の滝のよう。

 駒形神社参拝で岩手内陸探訪も終わった。ひとまず盛岡に戻るため、国道397号線と340号線を乗り継ぎ遠野市に向かう。遠野までは渓流に沿ったカーブの多い道が延々と続いた。途中には源義経主従が平泉から逃れ、北海道経由で大陸に渡りチンギス・ハーンになったという「義経北行伝説」を伝える赤羽根峠がある。峠の旧道はトンネル開通により落ち葉に埋もれつつあった。
 遠野市はまるきり鄙びた片田舎の都市だが、民俗学者柳田国男の「遠野物語」により、民話の里としてその名を売っている。駅舎はきれいな木造で、訪れる人々に民話の里であることを喧伝していた。
 「遠野物語」は明治時代末期、柳田国男が遠野出身の知人佐々木鏡石から伝え聞いた遠野地方の民話を整理した書物で、日本民俗学史上の金字塔となっている。現在、民話に現れる場所の数々は観光名所となり、市内には昔語りを聴かせる場所まであるのだが、一方でこんな疑問も湧いてくる。民話は地元の暮らしに根ざしているからこそ価値がある。遠野市民は果たして、今でも家庭で民話を語り聴かせているのだろうか。こぎれいな駅舎を見ながらふとそんなことを思った。

 遠野市役所で休憩してから再び盛岡を目指す。旅人の間では隠れガッカリ名所として知られるカッパ淵は素通りし、国道340号線を北に走った。あたりは暗くなりだし、小雨もぱらついてきた。こんな時にうらさびしい道を走るのはまことに心細い。国道106号線に合流して西に向かい区界峠を越えたあたりで、ようやく盛岡の明かりが見えてきたのでほっとした。
 夕食はちょっと張り込んで、盛岡市内の洋食屋「みずの」で上定食を食べた。この「みずの」、荒井が住んでいた下宿の目と鼻の先にあり、学生時代から気になっていた店だった。ちなみに荒井がいた下宿はとうになくなり、見知らぬ建物に変わっていた。
 上定食はハンバーグ、トンカツ、エビフライという洋食人気メニューが一度に味わえる欲張りメニューだ。付け合わせは冬瓜の煮物、根わかめの酢の物、なめこのみそ汁。食べながら荒井が「惣菜部門さいだ頃は、毎日揚げ物で苦心してだよなぁ。」と思ったかどうかは定かでない。

三陸海岸へ

 この時も岩山キャンプ場に泊まったのだが。傾斜のせいでひどくうなされたばかりか、朝から雨がちだったので起床も遅かった。小雨に手こずりながら撤収していると、いつのまにやら傍らにご老人が来て話しかけてきた。岩山の展望台は夜景の名所として、深夜まで多くの若者の姿が絶えないのだが、朝になるとうってかわって、散歩を楽しむご老人の方々が多くなる。こうしたご老人方による岩山清掃隊まであるそうだ。
 このご老人もそうした朝の散歩を楽しむ一人で、御歳なんと80歳。会社を経営する一方、暇を見ては全国各地を旅しているとのこと。先日は富士山にまで登ってきたという。全くかくしゃくとしておられ「人生今が一番面白い!」と胸を張るその姿には憧れるものがあった。
 旅をしていると時折こうした元気なご老人と出会うことがある。なぜかどこに行っても元気なのはご老人やおばさんたちで、肝心の働き盛りの若者や中年の方々はどこかくたびれているような印象を受ける。若い人や中年の方々は不必要に忙しがってるだけのような気がすると荒井が言うと「『静視』といってね。一度立ち止まってあたりを静かに見渡してみることも必要だよ。」とご老公は仰るのだった。

福田パン本店
盛岡市民おなじみの福田パン本店。あんバターとチキンミートパンなんかもお勧め。盛岡にお越しの際は是非お試しを。

 「岩手に来たなら龍泉洞は見といた方がいいよ!」と、教えてもらいご老公と別れた。市内に降り盛岡八幡宮に参拝してから、「福田パン」でポテトサラダパンを買って朝食にする。「福田パン」は盛岡市民ならば知らない人はいないという製パン屋で、主に調理パンを扱っている。ただの具を挟んだコッペパンなのだが、市内どこでも手に入る上、これが安くて量があって旨いので、貧乏学生や腹を空かせた高校生に絶大な人気があるのだ。荒井の大学に近い本店では、目の前でコッペパンに具を挟んで売ってくれるのだが、これまた人気がある。「大学さいだ頃、よぐ食ったよなぁ」と、思い出の味を堪能した。

 5年ぶりの福田パンに満足したところで、国道455号線を龍泉洞がある岩泉町向けて走り出した。国道455号線は気持ちよく走れる道だ。いくつかのカーブで高度を上げ、南に街を見下ろしつつ盛岡を脱出すると、広々とした道が高原やダム湖を縫うように続いている。早坂峠で一息ついた以外は岩泉まで一気に走った。
 この間約70キロ。この数字は学生時代から知っていたが、当時の荒井にとって70キロとは天文学的な距離で、自ら赴くなんてことはなかった。岩手の他の場所も同様で、帰省を除けば、在学中住んでいた盛岡から大きく出たのは花巻と北上にそれぞれ一回ずつ、電車で行ってきたことがあるだけにすぎなかった。今回の岩手内陸探訪は、元盛岡市民荒井が、あの頃の鬱憤を晴らすかのように方々を廻るものとなった。「今やこの70キロも、自分で走って来られるようになったんだなぁ。」と感慨深かった。

龍泉洞第一地底湖
展望台から見る龍泉洞第一地底湖。湖に気をとられて気付きにくいが実はこの展望台こそ三原峠。写真は小冊子から。

 その総仕上げとなる龍泉洞は日本でも有数の規模を誇る鍾乳洞で、鍾乳洞ならではの奇景と青く澄んだ深い地底湖で知られている。入場料は1000円と高めだが、龍泉洞とその向かいにある龍泉新洞の二つが見学できる。二つの洞窟の間には、龍泉洞から流れ出る清水川という渓流があり、その名に違わず澄んだ水が流れている。洞窟入り口前には「一杯飲めば三年寿命が延びる」というふれこみの水場があり、観光客の人気を集めている。あたりを見渡したところで、荒井もいざ洞窟見物に出発だ。
 鍾乳洞は通路の幅は狭いが天井が高い。時には天井目指して延々と急な階段を上るような場所もある。観光客向けに整備されていることはわかっているのだが、ちょっとした探検気分が味わえる。ついでに洞窟の中には三原峠なる峠もある。
 地底湖の様子は「龍泉洞の深く青い地底湖」てなかんじで、地元テレビ局で紹介されているのを見たことがある。ところが現物は映像ほど劇的に青くもなければ広くもない。照明器具や構図のせいなのだろう。「やめてください」の但し書きがあるにもかかわらず、湖や水路の底には硬貨が何枚も投げ込まれていた。トレビの泉(注4)のつもりなのだろうか。きっとこの地底湖も、水深100メートルほどの湖底には、10円玉が何枚も沈んでいるに違いない。
 鍾乳洞の造型は実に面白かった。鍾乳洞は水により石灰岩が数千万年単位で浸食された結果できあがったもので、人間など及ばない時間の単位でいまだ変化を続けている。石灰質を含んだ水は、流れ方によって様々な形を作り上げる。鍾乳石や石筍といったものから、カーテンや棚のようなどうやってできたのかが不思議な形のものまで様々だ。
 向かいの龍泉新洞は博物館風になっており、実物を目にしながら鍾乳洞の成り立ちや生態系、鍾乳石のでき方などがわかるようになっている。石器時代にここに人が住んでいたことを示す痕跡もある。新洞には地底湖のような派手さはないのだが、その分、鍾乳洞の不思議に答える内容で、けっこう見応えがあった。

 県道7号線を北に走り、太平洋に面する久慈市に向かう。延々と山がちな風景が続いたが、久慈市に近い滝ダム周辺で、深い渓谷を見下ろす風景に変わった。併走する長内川は趣を増す。層雲峡のごとく切り立った断崖に沿い、曲がりくねった川の流れには、松の茂る中州が転々と浮かんでいる。思いがけず目にした絶景にDJEBELを停め、しばし見入った。
 久慈に着いた頃には日も大分傾いていた。駅前の「竹美食堂」できのこラーメンの遅い昼食にし、駅構内で名産の琥珀を見物した後、国道395号線と県道11号線を乗り継ぎ、種市町に向かった。実は久慈から種市までは海沿いに北上した方が早い。内陸を通るのは遠回りになるのだが、前回の続きから海岸線沿い一周を再開したかったので、こんな変則的な道を選んだのだ。
 軽米町で県道20号線に合流し、再びノノウケ峠を超える。先日は何も見えなかった峠だが、今日はしっかりと海が見える。そして前回の中断地点だった交差点へとやってきた。「これがら三陸海岸ば下るぞ!」と気合いを入れ、海岸線沿い一周の再開である。

 できるだけ海沿いの道を選んで南に下っていく。再び久慈市に入ったところで、買い出しのため「ジョイス」に寄ると、DJEBELのナンバーを見て地元のおばさんが話しかけてきた。「学校の先生とか、近くに山形県出身の方がけっこういてね。いろいろお世話になってるのよ。」と、山形の方はいい人が多いとほめてくれた。荒井もそうであるかは疑わしいが、一山形県民としてちょっと喜んだ。
 北限の海女で知られる小袖海岸を通り抜け、野田村に着いた頃には辺りはすっかり暗くなっていた。海にほど近い玉川野営場に転がり込み、四阿を借りてテントを張った。すっかり秋だったせいか、利用客は荒井の他にいなかった。

 ところでこの日は二回ほど立ちゴケした。一回は久慈から軽米町に向かう途中。もう一回は玉川野営場に入る際。しかしこれはまだ序の口。荒井はこの後間もなく、さらにひどい転倒を味わうことになる。


脚註

注1・「花巻農業高校敷地内」:厳密には羅須地人協会の方が先に移転している。賢治の死後、建物は他の人の手に渡り移転したのだが、その後花巻農業新築移転のため用地を取得したところ、たまたま用地内に羅須地人協会の建物が含まれていたという、賢治との不思議な縁を感じさせる逸話がある。

注2・「イーハトーヴォ」:宮沢賢治の作品に登場する理想郷。その名前は故郷「岩手」を意味するエスペラント語に由来するという。岩手では賢治作品のイメージに託して、岩手の好感度上昇をはかるべく、よくこの名称が使われる。

注3・「吉田戦車」:よしだせんしゃ。漫画家。代表作「伝染るんです」「火星ルンバ」「ゴッドボンボン」他。不条理でどこかずれたセンスの作風が特徴で、日本語の使い方が特に秀逸。そのセンスは漫画のみならず文章でも遺憾なく発揮されている。

注4・「トレビの泉」:イタリアのローマにある人工池。ローマ教皇クレメンティウス12世の命で建設が始まり1762年に完成した。デザインはニコラ・サルヴィ。由緒よりも後ろ向きに泉に硬貨を投げ込むと、再びローマに来られるという言い伝えの方で有名な名所。

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