廃線当時の駅は以下の5つでした。また駅間の距離は以下の通りです。(距離は資料より抜粋) 糠ノ目(ぬかのめ)・・・現JR奥羽本線高畠駅 ↓ 2.1km 一本柳(いっぽんやなぎ) ↓ 1.4km 竹ノ森(たけのもり) ↓ 1.3km 高畠(たかはた) なお高畠−二井宿間(5.3km)は、昭和41年の羽越水害の際に、屋代川(やしろがわ)にかかる 橋梁の沈下によりバス代行となっていましたが、昭和43年10月に廃止となりました。 高畠−二井宿間にあった駅(一部は停留所)は以下の通りです。 東高畠 安久津(あくつ)・・・後に八幡宮前(はちまんぐうまえ)に改称 駄子町(だごまち)・・・後に蛭沢(びるざわ)に改称 上駄子町 二井宿(にいじゅく)
1)大正11年3月 糠ノ目−高畠間開通 2)大正13年8月 糠ノ目−二井宿間開通 3)昭和 4年8月 全線電化 4)昭和41年 羽越水害で高畠−二井宿がバス代行運転となる 5)昭和43年10月 高畠−二井宿間廃止 6)昭和49年11月 全線廃止 廃止後、高畠電鉄糠ノ目−高畠間と高畠−二井宿間の一部の跡地は「まほろばの緑道」という サイクリング道路に整備される。また高畠−二井宿間の跡地の上を現在は国道113号線が 走っている。 旧高畠駅周辺は公園として整備される一方、「高畠石」で作られた駅舎と変電所, そして当時走っていた車両が静態保存されている。(様子は後述)
高畠線が運行されていた時の写真は私は持っていないのですが、沿線の様子を私の記憶の範囲で 説明します。 実は私が通った小学校は高畠電鉄線の沿線であった。(地図を調べると特定されてしまいますが。) 学校への通学路は、高畠電鉄「竹ノ森」(たけのもり)駅前を通っていくコースで、 毎日電車や貨車(とはいっても、混合列車・・・電気機関車+貨車+電車・・・が多かった)を 見ながらの通学だった。沿線を歩いていると貨車が「チーン チーン」と音と火花を飛ばしながら 走っているのを良く見かけた。 また学校の窓からも電車が走っているのが見えた。 「竹ノ森」駅付近は格好の?遊び場だったように思う。 駅には貨物用の引込線があり(確か?)、ポイントの所に大きなレバーがあって、それを 動かして貨車の入換えが行われていた。 「竹ノ森」駅では貨車の荷扱い(近くに農協があった関係か、肥料や米が主だったと思う。)や それに伴う機関車での入換えがなされており、その光景をよく見かけた。 また駅の近く(現在食品会社が建っている前の道路。当時この道路の橋の方向は農道だったんです けどね。)には踏切があった。 閉塞はタブレット方式で、ホームでタブレットの受け渡し光景が見られた。 また駅舎内にタブレット標を取り扱うメーターのついた機械やハンドルのついた電話機が置いて あったが、当時それが何の為の機械かはよくわからなかった。 ある日、米沢市内の親戚に行く為に、今は亡き祖母に連れられて竹ノ森で「高畠電鉄」に乗車し 奥羽本線に乗り継いで米沢まで乗車したのだが・・・その時の事は良く覚えていません。 唯一覚えているのが、高畠電鉄の電車がロングシートで、乗り換えた国鉄の客車がクロスシート (もちろんその頃はそのような用語は知りませんでしたが。)だった事位かな? 今考えて見れば、「電車」での運行は国鉄より進んでいたということに・・・ (なにせ、糠ノ目−米沢間の普通列車が電車になったのは、山形新幹線が開通する数年程前に 719系の臨時が運行されるまであるまでは無かったのではと思われます。特急や急行は電車も ディーゼルカーもありましたけど。) そして私が小学校5年の秋頃だったと思う。(これで年齢もバレバレですね。) いままで毎日見ていた「高畠電鉄」の廃止が決まり、学校の関係で「竹ノ森」駅での おわかれ会に出席。合奏で見送る。 この時は正直言ってこのインパクトがよくわからなかったのだが・・・ その後線路がだんだん外されていきましたが、今まで走っていた物が急に無くなってしまった 事に物足りない気がしました。 その後祖母に連れられて東京の親戚まで特急「やまばと」(赤湯8時12分発だったと思う。) に揺られて行きましたが、この頃に私がこの道にどっぷり踏み入れたように思います。 その頃から学校の通学路から遠くに見える奥羽本線を走る列車が気になり出したと思います。 (残念ながら、今は米沢南陽道路が盛土方式で建設され あの地点から奥羽本線を走行する列車を見る事は不可能になってしまいました。) 私が通った小学校の図書室に高畠電鉄に関して記述した本が置いてあり、何度も何度も見ていた 覚えがあります。その中には車両の仕様等も書かれていたのですが内容を転記しておらず、今と なってはその内容も忘れていました。 しかし、このページをまとめるに当たり内容が気になりだし、町の図書館(高畠町立図書館)に 行きましたら、その本と再会する事が出来ました。後程紹介する当時運行されていた車両の仕様は この本からの抜粋です。
形式 | 定員 (人) | 長さ (m) | 幅 (m) | 高さ (m) | 自重 (t) | モータ出力 (kW)×個数 | 製造 | メーカ | 備考 |
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モハ1 | 75 | 13.004 | 2.730 | 4.077 | 18.5 | 37.3×2 | S4 | 日車 | |
モハ2 | 75 | 13.004 | 2.730 | 4.077 | 18.5 | 37.3×2 | S8 | 日車 | |
モハ3 | 70 | 12.200 | 2.640 | 4.000 | 17.8 | 56.3×2 | T13 | 東洋 | (前)西武モハ104 |
モハ4 | 112 | 17.160 | 2.734 | 4.226 | 31.5 | 55.1×2 | S2 | 川造 | (前)西武クハ1156 |
クハ1 | 102 | 14.440 | 2.740 | 3.815 | 20.0 | −−−− | S22 | 日鉄自 | (前)近江ハニ22 |
ハフ3 | 80 | 12.220 | 2.640 | 3.600 | 15.0 | −−−− | S31 | 西武 | (前)西武クハ1114 |
ED1 | −− | 8.078 | 2.743 | 4.120 | 23.0 | 55.0×4 | S4 | 川車 | |
ED2 | −− | 8.928 | 2.438 | 4.124 | 25.4 | 56.0×4 | T14 | 英国 | (前)近江ED281 |
注)モハ4は3ドア,他は2ドア
ED2:英国イングリッシュ・エレクトリック製(愛称:ガニ)
本ページにつきましては、資料からの転記部を除き、当時小学生だった私の記憶による所が あり、事実とは異なる所があるかも知れませんが、ご了承下さい。 ・参考資料 久保田久雄著「写真集 消えゆく山形の私鉄電車」昭和50年12月31日初版発行 なお、高畠電鉄に関しては、以下のサイトもご参照下さい。・まほろばWEB(高畠町公式ページ)
・まほろばの里 たかはた
[WEB MUSEUM vol.1「激動の時代を走り抜けた高畠線」]のページ参照。