|| 戻る ||
第18回長井トライアスロン大会 1

  第18回長井トライアスロン大会は、6月30日に開催された。今からさかのぼる事20年 前、鶴 岡市でトライアスロン大会が開催されたが、そのときは、水泳・自転車・マラソン とも全員が 終了するまで待っていて、1競技ずつこなして行くやり方だった。トライアス ロンという呼び名が ようやく出て来たころである。

  トライアスロンの情報誌である「トライアスロン」も、山形市まで行って買ってこないといけ
 ない時代であった。18年前の4月、宮古島でトライアスロン大会がひらかれ、テレビが終日
 その模様を放送した。それを見た私は、鳥肌が立つ感動を覚えたのを昨日の出来事のように
 覚えている。こんな過激な競技があるのだろうか?という、未知の世界への憧れかなにかは
 わからないが、しかし、確かに自分を引き付けてやまない感動を忘れる事が出来ない。

  長井の大会は、トライアスロンの草分けである深沢則仁君が、トライアスロンをしたくて
 始めた大会である。彼は、湘南ハーフの大会で4位に入る快挙を果たし、長井の地にこの競技
 の根をはわせた。宮古島で全国の国民に鮮烈な印象を与え、その都市の7月に琵琶湖で
 フル規格の大会が開かれ、その年の9月16日に長井市内を中心に水泳1キロ、自転車60キロ、
 マラソン16キロの計77キロで争われ、予定通り深沢選手が優勝した。

 
 今から17年前、大会が終わっての記念写真である

  《最初のころはすべてが手作りの大会であったし、すべて探りの中から大会運営がなされた。
 ああでもない、こうでもないといいながら、仲間が楽しく時間が過ぎ去っていく事を忘れながらも
 準備をした事が思い出される》

  道路使用許可も、国道を通る内容のものも最初は許可が出た。しかし、次の年からはそうは
 行かなくなったが、なんとも穏やかなころであったと思う。水泳でもちろんきちんとしたウエット
 スーツなどというものは無かったから、今思うとマンガのような話だった。
  
 
 

 1988年6月26日開催のスイムスタート前写真

 
  最初のころのトライアスロン用バイクは、パナソニック製の「クレージーボーイ」というもので
 バイオペースギアといって、楕円形のフロントギアが装着されていた。一番重いギアで、ただ
 ひたすらこぎにこぐという事でレースに望んだものだった。

  夢中でランも走った。運動オンチの私でさえ、三種目通すとなんとかなった。これが良かった。
 まだ38歳のころで、しかしそのときは体力の衰えを感じ始めた頃である。終わって記念写真。
 

  長井市市民プール入り口で記念写真であった・・・。


  長井トライアスロン大会が開催された翌年、八月始めには温海町で、翌週には酒田市で
 第一回のおしんレースが開催され
おしんレースの水泳は後になって北港に移されるが、 浜中海水浴場 で開始、このとき総合6位でフィニッシュ。
 

  総合6位でフィニッシュし、お礼の挨拶をした・・・

 
  トライアスロンのブームは、宮古島大会から始まったが、バブルで踊ったこの頃は
 中年の鉄人が各地大会に終結した。トライアスロンは、地域おこしの切り札としても
 重宝がられた。しかし、経済の失速とともに、トライアスロンは本来のスポーツとしての
 位置づけとともに、その存在そのものを問い直す動きとなり、生涯スポーツとして広く
 普及する動きとなってきている。
  


|| 次へ ||