対馬の入り口、厳原町(いづはらまち・現対馬市)に着いたのは、まだほの暗い朝の五時少し前だった。空が少し明るくなるのを待って、島内一周に出た。
対馬は壱岐のさらに北西にある縦長の島で、下島と上島に別れている。南にあるのがが下島で、北が上島。島の間は橋一本で往来できるようになっている。まずは南の下島から廻ることにした。
「対馬は道が細いよ!」と、昨日勝見さんから教えていただいたとおり、対馬の道は細かった。そしてぐねぐね曲がっている。島自体がでかいこともあり、距離は稼げなかった。しかもやたら山深い。海の近くを走っているにもかかわらず、さっぱり海が見えないのだ。
島の西、椎根の集落で石屋根の貯蔵庫を見かけた。瓦のかわり石版で屋根を葺いた、対馬独特のものだ。その昔、農民が瓦を使った建物を造るのを禁じられた時代、雨漏りしにくい蔵を造ろうと、知恵を凝らして作られたものと説明されてある。使われている石はどれも均一な厚さで切り出され、きれいに積まれてあった。
石屋根の倉庫以外にも、掘り割りの石積みや建物の石垣、渓流の護岸など、対馬では石積みをよく見かけた。そのどれもがきちんと積まれたきれいなもので、しかも年季が入っている。この島にはそうした石積み文化があったのだろう。
天気は霧がちで、展望は開けない。下島で他に見たものといえば、安徳天皇陵と美女塚ぐらいのものだった。
安徳陵は、安徳天皇の陵(みささぎ)と伝えられる場所である。安徳天皇は平家が擁した幼帝で、平家滅亡の際、壇ノ浦で入水したと伝えられているのだが、対馬には、実は生きてこの島にたどり着き、この地で74年の生涯を全うしたという伝説が残っている。陵はその伝説に従っているのだが、本当に安徳天皇が眠っているかは判らず、飽くまで比定地とされている。しかし佐渡の真野御陵同様、比定地は宮内庁の管轄になっており、みだりに立ち入りできないようになっていた。
入り口からわずかにのぞく墓石は小さなもので、同じ陵でも、堺の仁徳天皇陵とはえらい違いである。だが、わずか12歳で入水したというのに比べれば、対馬でひっそり暮らしたという結末の方が幸せだったのかもしれない。
美女塚は島の南西、豆酘(つつ)にある。案内看板によれば、その昔、美貌と器量ゆえ殿様に召し抱えられることになった娘が、年老いた母を残したまま故郷を去るのは忍びないと自害して、その亡骸をとむらったという伝説がある場所だ。
話自体はよくありそうなものだが、その美女が他と違っていたのは、こんな悲劇が繰り返されないよう、この地から美人が生まれないようにと願いつつ果てたことだった。後世の人間にしてみれば、まったくはた迷惑な話ではある。
かれこれ4時間をかけて下島を一周し、再び厳原の街中に戻ってきた。対馬は島の規模こそ大きいが、壱岐と違って賑やかな印象はない。コンビニこそあるが、厳原で一軒見かけただけで、もちろん24時間営業はしていない。翌年には他の町と合併して、対馬市になるということだったが、果たして大丈夫なのだろうかと心配になってしまうほどだった。ちなみに壱岐も対馬も、佐賀や福岡の方とつながりが強いのだが、行政区分上は長崎県に属している。
その厳原に一軒だけのコンビニでツナタマサンドとオレンジジュースの朝食にして、翌年にはなくなってしまう厳原の町役場に行ってきた。そこで大きな封筒に入った観光案内小冊子をいただいた。案内冊子には韓国語版もある。観光課の方に突っ込んで訊いてみると、韓国と対馬を結ぶ定期便があって、交流があるんですよということだった。
再び待合所に行ってみると、ずいぶん静かになっていた。深夜便が着いたときは、下船客がすっかりどこかに行ってしまうと、次の出航時刻まで閉められるらしい。
引き続き、上島一周に出発した。話によれば上島は「ハイウェイ並みに」県道の整備が進んでいるので、比較的早く廻れるという。上島には荒井が対馬に来た一番の目的、対馬国一の宮の海神神社(かいじんじんじゃ)と、対馬ではぜひ訪れたかった韓国展望所があるのだ。
万関瀬戸を渡り、上島に入る。もともと上島と下島は一つの島だったのだが、明治末、軍艦が通れるようにと万関瀬戸が掘られ、一つだった島は二つに分けられた。瀬戸には橋が架かっているので、陸路で一またぎにできる。
確かに上島の道は下島よりも整備は進んでいたが、特別すばらしいというわけでもなく、やはり道中手こずった。山がちなところを走るのはあいかわらずで、あまり変化がない。しかも道のりがやたら長かった。厳原から島最北の港町、比田勝(ひたかつ)までは90キロ。海神神社はその真ん中あたりにあるのだが、あとどれだけ走れば着くんだろうと思うほど走ることになった。
かくて海神神社に着いた。神社は島の西部、名前通り海のそばにあった。一の宮にふさわしい広い境内と鎮守の森を備えていたが、どういうわけか、人気は少ない。普段は訪れるものも少ないのか、社務所には「用があったら電話で呼んでください」と、連絡先が張り出されてあった。お札やお守りは天手長男神社同様セルフ式。なぜか由緒書きは置いていなかった。
拝殿までは、長い石段を登っていくことになる。周りは林で、ヤブ蚊が多数生息してそうな気配である。対馬の一の宮は旅の大きな目標の一つだったので、ひいこら言いながら石段を登っていった。目の前に現れた社殿はさすが一の宮らしい、風格のある堂々としたものだった。
神社から上対馬町(現対馬市)にある韓国展望所までは、またしばらく走ることになる。沿線では「ツシマヤマネコ出没注意!」の看板をたびたび見かけた。西表島のイリオモテヤマネコ同様、対馬にはツシマヤマネコという天然記念物の山猫が生息していて、イリオモテヤマネコ同様、数々の危機に直面している。やっぱりここでも交通事故に遭う個体が多いようで、道路に飛び出してこないか気をつけながら走っていたのだが、やっぱり一匹も出てこなかった。荒井はイリオモテヤマネコにもツシマヤマネコにもモテないらしい。
延々と山の中を走った末、韓国展望所に着いた。展望台は反り上がった屋根を戴いた、韓国風の八角形の建物になっていて、そこから対岸に韓国の釜山(プサン)の街並みが見えるという。この日はくもり空で見えなかったが、展望台に飾られてある釜山の夜景の写真には、街灯りが手に届きそうなほどくっきりと写っていた。
その距離49.5キロ。対馬と韓国は、与那国島と台湾の比ではないほど近い。だから対馬との間に定期便が就航しているわけだ。展望台からは、レーダー設備を備えた自衛隊の基地も見える。
対馬の名の由来は、釜山から見た島影が、二頭の馬の背のように見えたからとも言われている。古来、大陸からの文化は、対馬、壱岐を経由して日本にやってきた。対馬は日本の入り口の一つで、それは今も変わりない。海の先の見えない異国を見やる。ここにもまた、国境があるのである。
比田勝に着いたのは午後一時頃だった。最果て感漂う港町だが、韓国からの船が寄港するだけあって、フェリー待合所はそれなりに立派な建物になっていて、街角の案内標識には韓国語も見受けられた。
町中の「八重食堂」でドミカツ丼の昼食をしたためてから、厳原に戻る。件の県道は「ハイウェイ並み」というだけあって、場所によっては国道よりも道が広く、舗装も行き届いていた。この道が整備された理由というのが国境の島対馬らしいもので、有事の際、戦車や緊急車両が走れるようにしたからということだった。
それでもまだ整備されていないところもだいぶん残っていて、そこでは十和田湖の奥入瀬のような、苔むした渓流を眺める道が楽しめた。
地図で見て気になって、途中「オメガ塔」に寄った。何でも高さ455メートルの、東洋一高い電波塔が建っている場所だという。さぞ高い塔が立っているのかと思いきや、そこにあったのは、基部を残して解体された塔と、記念として残された塔の部品だけだった。かたわらには一枚の写真パネルがあった。リアス式の海を目の前に、高い塔が一本、天に向かって伸びている。往時の勇姿を留めたものらしい。
その後調べてみたが、塔はかつて航海する船のため、世界中に向けて10キロワットのオメガ電波を送信していたのだそうな。電波は船の位置確認のため利用されていたのだが、GPSの普及にともないその役目を終え、1990年代に解体されていた。その後塔が立っていた場所は公園となり、憩いの場所として生まれ変わったとのことである。
海沿いの道は霧がちで展望がない。おまけに早朝から走り詰めだったので眠くなっていた。途中バス停で昼寝して、厳原に戻ってきたのは四時過ぎだった。
この日の宿はあらかじめ予約を入れていた「山中旅館」だ。厳原の町の真ん中、路地の間にある、民家を改築したような旧い宿だった。中に入るとおかみさんとおぼしきおばあさんが出迎えてくれて、部屋まで案内してくれた。「今年の梅雨は長くてねぇ。対馬もここしばらくは雨降りだったんですよ。」 いったい梅雨明けはいつになるのだろう。
宿で一休みした後、夕食のため町に出た。厳原の目抜き通りは真ん中に小川が流れていて、その両岸に商店が建っている。両岸は平行に並んだいくつもの橋で往来できるようになっていて、よく整った城下町の風情を残している。川の流れ着く先は厳原港だ。辺境の島だからか、夜の通りはえらく静かだった。観光客御用達の店というものもない。
あれこれ探した末、「ぎおん寿司」という店で、お造り定食を食べた。刺身の盛り合わせと、生姜を効かせた魚の内臓の煮物の小鉢。アオサの吸物の薬味は茗荷で、水物はオレンジ一切れだった。島に来ると、島らしく魚が食いたくなる。
近所のスーパー「対馬丸栄」では、ところてんが四角いまま売られていた。突き棒も一緒にあって、これで突いてからレジに持って行けということらしい。荒井が勤めていたスーパーではさすがにこんな売り方はしていない。こうした売り方は長崎の離島では一般的で、五島や壱岐でも同じようにして売っているのを目にしている。いいテングサが採れるのだろうか。面白そうだったので、一本突いて買ってきた。
宿で荷物を整理してみると、カメラのフィルムがなくなっているのに気が付いた。今日の道中、立ち止まって振り分けバッグから小冊子を取り出したとき、何かのはずみで落っことしてしまったらしい。ほとんどは空のフィルムだったが、一本だけ撮影済みのフィルムが混じっていたのが痛かった。デジカメで一緒に記録しているので困らないと言えば困らないのだが、それでも記録は取り返せないので少々落ち込む。ここしばらくの豪雨といい、男に迫られたことといい、ついてないものである。
気を取り直し、ところてんをすすりつつ日記を書く。酢は宿から借りられた。ラジオをつけるとラジオ韓国こと、KBSの国際放送が強力に入感していた。韓国に一番近い島で聴く韓国の放送は、対馬が大陸への出入り口であることをつくづく感じさせるものだった。
朝早くから走っていたおかげで、よほどくたびれたらしく、朝八時まで寝ていた。空はどんよりと暗い。帰りのフェリーは12時30分の出発だからゆっくりできるなとのんきに構えていたが、念のため時刻表を見てみると、荒井の見間違いで九時出航だった。下手すると間に合わない。大慌てで荷造りし、別れのあいさつもそこそこに山中旅館を出る。荒井が出るのを待ちかまえていたように雨が降ってきた。急いで厳原港に行ってみると、搭乗手続きの真っ最中だった。すぐに搭乗手続きを済ませ、かろうじて船に滑り込む。これまたいそいそと対馬を後にすることになった。
対馬は一日で回るにはあまりにも広かった。それもそうだ。佐渡、奄美に次ぎ、日本で三番目に広い離島なのだ。まだまだ見足りないし、知りたいことや食べたいものも山ほどある。今は先に九州を一周してしまいたいので、ひとまず島を後にするだけだ。またいつか来ることを夢見て、対馬を離れた。そのときには釜山の街も見えるだろうか。
帰りの船便も壱岐で乗り換えることになる。船が芦辺港に着いたところで下船した。港を逃げるように出発し、そのまま寄り道もせず、呼子港への船が出る印通寺港に行く。当初は壱岐をもう一周するつもりでいたが、日本一周最大の危機に遭ったばかりなので、その気もすっかり萎えていた。
帰り船の待ち時間を利用して、印通寺の弁当屋で唐揚げ弁当を買って昼食にした。本当に唐揚げだけといった弁当で、つけ合わせはたくあん二切れと申し訳程度のスパゲティに千切りキャベツだけだった。
呼子に戻ってきたのは午後二時過ぎだった。そこから海沿いに福岡市目指して走った。距離にして50キロ程度。意外に近い。福岡まではよく整備された広いバイパスが通じている。福岡には福岡県庁と筑前国一の宮、筥崎宮(はこざきぐう)と住吉神社がある。ここさえ廻れば、九州巡りもほぼおしまいである。
いつの間にか雨は止み、日差しが覗いてきた。岬を回り込むと、海岸線の向こうに福岡ドームが見えてきた。九州巡りの山場、福岡市に着いたのだ。
元寇石塁跡は福岡市の近郊にある。元寇の石塁も学校で学んでいる。元軍の上陸を阻止するため、海岸沿いに石を積み上げて防壁を作ったというものだ。
石塁周辺は記念公園になっていた。一部は網で覆われ保護されているが、石塁の大部分は七百年の時を経て砂に埋もれ、あらかた丘と化していた。
それでも元軍を防いだ石塁の現物は迫力があった。対馬では土地の武士と戦いになったという。壱岐では天手長男神社を破壊した。そして本土に迫り、この地を脅かしていた。玄界灘を舞台に、元の大軍と日本の武士達が、射かけあい、駆け回り、斬り合った。元寇は本当にあったことなのだ。遺跡を目の前にすると、そのようなことが急に身近に思えてくる。
福岡市は九州最大の都市だけあって車が多く、通り抜けるのに難渋した。都市部は道が狭くなっているのでさらに遅れた。もう夕方だったので、県庁も一の宮も廻るには少々遅い。場所だけ確かめて、適当なところで野宿することにした。
野宿地を求めて一旦福岡市を離れる。飯塚市に向かう道路はこないだの豪雨で法面が崩れ、復旧工事のため片側交互通行になっていたおかげで渋滞していた。単車の特権、すり抜けで先へ進むと、2キロ近くも車が連なっていた。列の先端ではおっちゃんが交通整理をしていて、「何キロぐらい渋滞してた?」と訊かれた。
テントを張るつもりだった飯塚市のキャンプ場が思わしくなかったので、別の場所を探してまた走り出す。しばらく走っていると、国道200号線沿いに潰れたカラオケボックスがあった。その裏の駐車場が、ちょうどいいあんばいに目立たず人目を忍べそうだったので、そこにテントを張って寝た。ここだったら、男に迫られることもないだろう。つくづく、野宿場所は吟味しなければならない。
疲労時の運転は事故につながりやすいということは免許を取る際に学びます。その通り、移動中に眠くなった時は、適当な場所を探して寝てました。急ぐ旅でないならばなおさらで、常にゆとりを保っておくことが、安全な旅につながります。
日記や写真、思い出の品など、旅の記録は旅人にとって金銭以上に大事な荷物です。なくしたら困るので、どの旅人も紛失対策に様々な対策を練っていました。荒井は量がたまるたび、実家に送り返して保管してもらっていました。カメラを二台使うようにしたのもそのためです。デジカメの画像データは一瞬で消える恐れがあるので、折を見てCD−Rにバックアップを取ってました。
ついでに言うとフィルムは撮りきるごとに現像しておいた方がよいです。当時は現像せずに長期間撮りっぱなしにしておくと画質が落ちることを知らなかったので、帰ってから泣きを見ました。