みちのく最果て紀行

欠けたマサカリ

本州最北端の碑
大間崎の本州最北端の碑。沖にあるのは石川啄木が「蟹とたはむる」の句を詠んだ弁天島。

 朝七時頃起きた。本州最北端大間崎に行くつもりだったが天気はよくない。とりあえずかたわらの自炊棟で雨宿りがてら、集まってきた利用客の方々とおしゃべりをする。この雨で滞留を決め込む人もいれば、思い切って出発する人もいる。
 そのうち管理人のおばさんが、お友達と一緒にやってきて、重箱一杯の海苔巻きを差し入れしてくれた。また間もなく別の利用客の方が、港で仕入れてきましたと、新鮮なイカ刺しと手製の塩辛を勧めてくれた。焼きイカの鰺ヶ沢町同様、津軽海峡に近い大畑町ではイカがよく獲れる。雨には参ったが、おかげで朝からごちそうにありつけた。どちらもありがたくいただきました。

 やがて天気は若干持ち直したが、降ったり止んだりがはっきりしない。じっとしているのにも飽きてきたので、思い切って下北半島を廻ってくることにした。テントを張りっぱなしにして、まず大間崎に寄って、そこから西岸を海沿いに南下し、南岸を伝ってむつ市経由で薬研に戻ってくるという寸法だ。
 ただしその頃、西岸を走る国道338号線で大崩落があり、通り抜けができなくなっていた。下北半島はマサカリのような形をしており、ちょうどその刃の部分が欠けてしまったわけだ。迂回路もあるのだがとりあえず、行けるところまで行ってみるつもりで出発した。

 大畑町の中心部に出て、そこから海沿いに本州最北端・大間崎を目指す。海を隔てた津軽半島と比べ、下北半島は思いのほか開けている。海沿いとはいえ住宅も車の数も多い。下北の方が北海道に近いこともあり、青函トンネルの予定地には、下北も含まれていたのだそうだ。世が世なら下北は青函トンネルの出入り口になっていた。対岸の北海道・汐首岬に、本州との最短地点を示す標識と「連絡橋を作ろう!」なんて看板があったことを思い出す。
 やがて着いた本州最北端・大間崎はにぎやかな岬だった。大間崎のある大間町自体が、本土最北端稚内市を十分の一にしたようなところで、岬は公園のように整備され、あたりには最北端を売りにした食堂やみやげもの屋が立ち並んでいる。近くには温泉やキャンプ場もあり、北に渡るフェリー乗り場まであるのだ。
 宗谷岬には間宮林蔵の銅像がある。そのかわり、大間崎にあるのがマグロ一本釣りの石像だ。大間崎はマグロ漁が盛んで、「魚影の群れ」や連続ドラマ「私の青空」などの物語の題材にもなっている。マグロはさておき、ご丁寧に腕まであるのは何なのか。
 マグロ像の近く、本州最北端の碑を見ていると、岩手から来たという中年の単車乗りさんに記念撮影を頼まれた。朝の三時に出発して、下北半島東の果て尻屋崎を見てからここに来たという。
 「尻屋崎には寒立馬(かんだちめ・注1)が放牧されてるから、岬の入り口に電動のゲートがあるんですよ。ゲートのところには電流の通った鉄板があって、馬が外に出られないようになってるんだけど、代わりに鉄馬(注2)が黒こげになったらどうするんでしょうね?」と笑っていた。

マグロ一本釣りの像
大間崎マグロ一本釣りの像。物好きの間ではこのマグロにまたがって写真を撮るのが流行っているそうな。

 昼まで時間があったので、本州最北端の温泉、大間温泉へ行った。大間温泉は昭和30年代か40年代、高度成長期日本の雰囲気漂うところだった。やたら広い宴会場にゲームコーナー、浴室はタイル張りで、奥にはコンクリート製のすべり台やクマちゃんなどの動物像。よく言えば昭和レトロ、悪く言えば悪趣味。どれもくたびれて色が少し剥げていた。湯は熱めで、この天気を抜けてきた身にはありがたい。
 昼食は大間崎の本州最北端の食堂の一つ「海峡荘」の三色マグロ丼だ。大間崎名物マグロの赤身と、ウニ・イクラが乗っている。大間崎のマグロ漁は8月に始まるとのこと。季節の名物にすっかり満足した。

 旅人の間では知られた大間のフェリーターミナルを見物した後、下北半島の西岸を南に走る。佐井村にある物産館を出てしばらくすると、噂の崩落現場が現れた。
 道は崖沿いの切りたったところ、30メートルにわたって谷側の車線がそっくり陥没しており、工事用のブルーシートが掛けられていた。現在工事中で、歩行者以外は通行止め。工事に来ていた地元のおばちゃんに話を伺うと、南に行くためには大幅な迂回を強いられるため、困っているとのことだった。
 これは単車で通れそうにない。とはいえマサカリの刃が欠けたままなのもすっきりしない。改めて南からまたここに来てみることにした。そのためには大きく山あいに入る迂回路で再び国道338号線に出た後、北に30キロほど走ってこなければならない。なるほど、確かに大幅な迂回である。
 迂回路の県道はまるきりの峠道だった。この天気のせいか、高度が上がるにつれガスが濃くなり、ちっとも展望が開けない。たまに高度が下がってガスが切れたかと思うと、再び登りになってガスに突っ込む。何も見えない中をひたすら走る。こんなことを何度も何度も繰り返し、うんざりしきったところでようやく迂回路を抜け、再び国道338号線が見えてきた。
 ここから北30キロほどの道「海峡ライン」は、いつもならそれは見事に海が見えるものらしい。仏ヶ浦をはじめとする景勝地にも恵まれているのだが、灰色の空模様とガスのせいで、あまりよく見えなかった。道は通りも少なく、忘れた頃に車とすれ違う程度。時折入り江沿いに集落が姿を見せたが、静かなものだった。
 かくしてようやく南側からさっきの崩落現場にたどり着いた。こんなことをやっているのは、欠けたマサカリの刃を継ぐためでしかない。「これで下北半島西岸も完走だ!」と自己満足に浸るが、さっきのおばちゃんは「南側からまた来たのかえ?」と呆れていた。
 実際に走ってみて、この崩落のおかげで地元の人々がいかに大変な足労を強いられているかがよく判った。崩落現場のすぐ南側には大きな集落がある。ここから町の中心部まで、北に10キロと離れていないのだが、たった30メートルほどの陥没のおかげで、50キロ近い迂回を強いられるのだ。

 来た道を引き返し、迂回路との合流点を過ぎさらに南下したが、ガスはさらにひどくなり、何も見えなくなった。5メートル先さえ見えず、何が飛び出してくるかわからない。用心して走っていたが、目の前に野生の猿が現れたときはさすがに驚いた。
 視界の効かないガスの中、苦行のような道中の末、ようやく高度も下がり、本格的にガスが晴れてきた。気が付けば身体はガチガチ、冷たくて走っていられるかと、近場にあった脇野沢温泉に入ることにした。温泉付きの集会所のようなところで、こぢんまりとした温泉だ。温泉につかりながら「これでもう、あんたどごば走らねくて済むな!」と一安心した。
 その後の道中は気楽なもので、下北半島の南岸に出たら、基部のむつ市までは快適な海沿いの道路が続いた。むつ市のスーパー「マエダストア」で夕食の買い出しをしたが、惣菜コーナーにサンマの塩焼きがあったので買ってしまう。いつの間にか、サンマが出回る季節になっていたのだ。
 あとは幹線道路でとっとと薬研に戻った。ずいぶん長いこと走っていたような気がするが、キャンプ場に戻ったときはまだ日が残っていた。談話室で他の利用客の方々に混じっておしゃべりしていると、管理人のおばさんが現れて、今度はふかしたジャガイモを差し入れしてくれたので、これまたありがたくいただいた。
 薬研温泉唯一の酒屋「菊地酒店」(注3)で飲み物を仕入れ、談話室に戻る。旅人が集まると、勢いでそのまま宴会だ。日本縦断のため北海道から徒歩で渡ってきた旅人、雨のおかげで連泊を決め込む自転車の旅人などなど、みなめいめいに酒や肴など持ち寄って、旅の話は飽くこともなく続くのである。

原子力の村

 下北半島はむつ市に来たら、ぜひとも見ておきたいものがあった。原子力船「むつ」原子炉の実物だ。「むつ」そのものは90年代に退役しているのだが、その原子炉が下北の科学博物館に展示されているのだ。止まってるとはいえ、原子炉の実物なんて滅多に見る機会がない。
 ところが、その科学博物館がどこにあるかがわからなかった。「下北半島で原子力といったら六ヶ所村だべ。」と適当に見当を付け、尻屋崎経由で海沿いに六ヶ所村に向かうことにした。

尻屋崎
尻屋崎。灯台の麓には寒立馬と「最涯ての地」碑。

 大間崎とはうってかわって、尻屋崎までは人気のない道が続いた。尻屋崎はみちのくこと東北地方のみならず、本州「最涯ての地」の一つ。そこまでの道のりからしてもう辺境だ。
 岬の入り口には、昨日の中年単車乗り氏が教えてくれたとおり、電動ゲートがあった。床には高圧電流が流れる鉄板が仕込んであり、生身の馬が超えられない仕掛けだが、鉄馬は黒こげにならずに通れる寸法だ。ボタンを押してゲートを開ければ、目指す尻屋崎は目の前だ。
 岬周辺は草原で、白くて背の高い灯台が海に向かってぽつんと建っている。向かう東は海より他には何もないというありさまで、延々と太平洋だけが続いている。灯台の足下では数頭の寒立馬が草を食べていたが、食欲旺盛なようで、あたりは馬の糞だらけだった。

 尻屋崎から六ヶ所村までの道も、整備こそされているが人気のない道だった。沿線にはプレハブ作りの簡易宿泊所がいくつか建っている。尻屋崎のある東通村(ひがしどおりむら)では、原子力発電所の建設が進んでいるようで、その建設作業員の受け入れ先として、急ごしらえのこんな施設が作られたらしい。
 途中道を確認しようと、路肩にDJEBELを停めて地図を広げていると、赤いカブ(注4)に乗った郵便屋さんに声をかけられた。彼も単車が好きで、休みの時はよくツーリングに行くんだよと話してくれ、別れ際にはピースサインの挨拶までしてくれた。おしなべて赤カブ乗りの郵便屋さんは単車乗りのベテランとして勝手に憧れる荒井、ちょっとうれしかった。

 六ヶ所村は原子力の村として知られている。村内の関連施設を巡って住人が裁判を起こしたとかいう話は、ニュースで度々耳にしている。村の中心部にほど近い工業団地のような場所には、核燃料リサイクル施設が軒を連ねており、至るところで丸から三つ三角が飛び出たような、放射性物質注意マークを見かける。村役場には計測装置と連動した大きな電気掲示板があり、近郊の放射線量を常時表示していたが、それとは裏腹に、村を紹介する小冊子には「魚が旨い」「沼が多く自然が豊か」といったことこそ大きく書かれていたが、原子力についてはそう大きく書かれていなかった。

原燃PRセンター
六ヶ所村原燃PRセンター。建物は伸びゆく若葉と原子燃料「サイクル」をイメージしている。写真は小冊子から。

 まずは原子炉を探し求めて、村の原燃PRセンターを見学した。村内にある核燃料リサイクル施設を紹介するための展示館だ。模型や大型のパネルなど備え付けられ、再処理の行程が子供にもわかりやすく理解できるよう工夫されている。それによれば六ヶ所村にあるリサイクル施設とは、原子力発電所から回収した使用済みのウラン燃料を加工して、また使えるようにするためのものだ。ちなみにPRセンターは入場無料、建物はピカピカに新しい。展示ではひときわ安全性を強調していた。
 おかげで核燃料の再利用や核廃棄物の処分については詳しくなったものの、肝心の原子炉は展示されていなかった。ひとまずむつ市に戻り、どこにあるか調べなおしてみると、六ヶ所村ではなく、市内の「むつ科学技術館」にあることがわかった。「んだがったら最初がら調べどぐべぎだったな。」と反省する。

 「むつ科学技術館」は横から見ると船の形をした建物で、入り口前には「むつ」の巨大なスクリューや錨(いかり)が展示されている。閉館1時間前、館内に滑り込み、ようやく原子炉の現物と対面とあいなった。
 「むつ」は推進用に原子炉を搭載した日本初の原子力船で、1969年に進水した。ところが1974年、実験航海中に放射線漏れ事故が起きた。その頃荒井はまだ生まれていなかったが、その後何かと厄介者のように扱われていたのは、ニュースなどで知っている。船は90年代に入ってから原子炉を取り外され、海洋調査船「みらい」に改修されている。
 展示されているのは、まさにその取り外された原子炉だ。動かないとはいえ、他の展示を圧倒していた。一部切り欠かれ、ガラス越しに内部も見られるようになっている。はめ込まれているのは頑丈で分厚い鉛ガラスだ(注5)。もちろん核燃料は取り除かれているが、それでもこれだけ厳重にしなければならないほどの代物なのだ。その他、「むつ」で使われていた操作卓や巨大な制御装置なども展示され、「むつ」が普通の船ではないことを黙して語っている。
 この「科学技術館」、「むつ」以外にも、体験型のおもしろ展示が目白押しなのだが、時間がなくて十分見られなかったのが残念だった。

原子力船「むつ」原子炉展示中
「むつ」原子炉。停止した今なお見る者を圧倒する。写真は小冊子から。

 その後早々に薬研に戻り、名物「かっぱの湯」巡りをした。薬研温泉には、大畑川沿いに三つの露天湯がある。一つは名無し。残り二つには「かっぱの湯」「夫婦がっぱ」の名前が付いている。この名は開湯伝説に現れる河童にちなんだものらしい。いずれも無料で利用でき、野営場を利用する旅人たちの強い味方であり、大きな楽しみとなっている。
 名無しの露天風呂は道ばたすぐのところにある。渓流わきに石とコンクリートでしつらえられた小さな湯船で、三つのうち野営場から一番近い。野営場の面々が先に来ており、皆で野趣あふれる温泉を満喫するのだった。
 次に寄ったのは「かっぱの湯」だ。渓流に臨む風流な作りで湯船も広い。三つの露天湯では一番人気だ。荒井が行ったときはあまり人もおらず、悠々と露天湯を楽しんだ。
 最後に寄ったのが「夫婦がっぱ」。こちらは立派な作りの良く整備された露天風呂だ。風呂場には名前の通り、つがいの河童の像が建っている。立て続けに三つの露天湯を巡ったせいかのぼせてしまい、「夫婦がっぱ」入り口売店でアイスモナカを買って食べた。

 夕食は野営場そばの食堂「あすなろ」で豚生姜焼定食を食べた。味はもちろんボリュームがあるだけでなく、店のおばちゃんはところてんまでおまけしてくれた。
 昨日の菊地酒店では、鮭とば一切れをおまけしてくれた。露天風呂だって、無料で開放するには相当の努力が必要に違いない。野営場の管理にあたるおばさん、「あすなろ」のおばちゃんなどなど、旅人を暖かく迎えてくれる薬研の人々にしきりに感激した。


脚註

注1・「寒立馬」:馬の種類。尻屋崎周辺で放牧されている在来種。一時絶滅が危惧されるほど頭数を減らしたが、最近は保護の甲斐あって三十頭程度にまで回復した。

注2・「鉄馬」:鋼鉄の馬、単車のこと。鎧を付けた馬とか、風鈴といった意味もあるらしいが。

注3・「菊地酒店」:毎年9月から店頭でおでんを売るそうですが、これが旨いそうで。

注4・「カブ」:ホンダスーパーカブのこと。堅牢さや燃費と使い勝手の良さなどで、実用車としてよく使われている原付車。1958年の初代から、今でもほとんど設計が変わっていないとか。逆に言えばそれだけ完成度が高いということで、単車乗りの間でも名車という認識が強い。

注5・「鉛ガラス」:鉛を含んだガラスのこと。鉛はγ線を吸収するため、放射線の遮蔽材として使われる。

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