三陸で転ぶ

本州最東端

 三陸海岸は日本有数のリアス式海岸である。リアス式海岸とは岬と入り江が複雑に入り組んだ海岸のことで、主に海水の進入と海岸線の隆起によって形作られる。これぐらいのことは、小学校の社会科の授業で知っていた。少なくとも「ギザギザになってる海岸線」だと自分は理解していた。
 しかし、現実は想像を遙かに上回った。

 朝から晴れていた。キャンプ場は砂浜に隣接しているようで、朝から波乗りにやってきた人の姿もちらほらと見かける。波乗り客の邪魔にならないようテントを畳んだところで今日も出発である。
 地図によれば、玉川野営場の近くには西行法師が住んでいた西行屋敷跡があるという。西行は平安時代末期の大歌人だ。ここ奥州の玉川にもやってきて、その砂浜に魅せられ庵を結んで一年ほど暮らしていたのだという。地元の海女を歌でからかおうとしたら、逆に歌でやりこめられて降参したという逸話も残っている。西行といえば松尾芭蕉が憧れたほどの旅の大先達。これは見に行かねばなるまいな、と探してみたがそれらしいものは見つからず、結局しばらくうろうろしてから「今度来た時のお楽しみだな!」と本格的に野営場を離れることにした。
 三陸海岸は国道45号線と併走しているが、海岸線には沿っていない。三陸海岸巡りは国道45号線と、半島の枝道を行ったり来たりすることとなる。

黒崎北緯40度モニュメント
黒崎の地球儀モニュメント。向かいにあるのが伊能忠敬測量記念碑。

 まずやってきたのは北三陸の代表的景勝地黒崎だ。男鹿の入道崎同様北緯40度線上にあり、岬にはセンサーで人気を感知すると地球儀が廻るという建造物まで置いてある。
 朝食代わりのハイチュウ(注1)を口に放り込みつつ、岬への遊歩道を歩いてみる。遊歩道は900メートルほどあり、後半は急な下り階段が続いていた。ところが道を間違えたのか、行き着いた先には漁港が一つあるきりだった。無駄足だった上、今来たきつい階段を登って帰る羽目になった。
 黒崎灯台はその遊歩道入り口から少し離れたところにある。件のモニュメントは灯台の真向かいにあり、さらにそのそばには江戸時代末期の測量家伊能忠敬(いのうただたか)がここを訪れて測量をしたという記念碑も置いてある。碑文によれば忠敬もここをしっかり北緯40度(厳密には北緯40度30分)と測定していた。

黒崎灯台
黒崎灯台。海に臨んだ高台の林にちょこんと座る。

 黒崎を出て田老町(たろうちょう・現宮古市)に入ったところで、何か食べ物は売ってないかと道の駅に寄った。このあたりには朝から開いている商店やコンビニの類はない。さすがに朝食がハイチュウだけでは空しいというものだ。ところがまだ早かったため売店も食堂も開いておらず、表の自販機でアイスを買ってごまかした。
 道の駅を出てから真崎海岸を経由して南に向かう。途中渚に面した道が、大量の小石でふさがっていた。通常の車だったら通れないところだが、オフ車の威力に任せて、小石に埋もれそうになりながら、かろうじて強行突破した。
 この砂利は波が海岸の小石を打ち上げたものらしい。田老町はかつてチリ地震の大津波で大変な被害が出た場所で、津波対策には相当に気を遣っている。道路を分厚く覆い尽くす小石の量に、三陸に打ち寄せる波の威力を垣間見る。
 難渋しただけあって、真崎の浜は実によかった。人気の少ない静かな浜でしばしDJEBELを停め、長いこと寄せる波を見て飽きなかった。

 田老町を出て、三陸有数の都市宮古市に入った。ようやく見つけたコンビニ「ホットスパー」でたまごロールを買い、ガソリンスタンドで給油する。近郊には浄土ヶ浜という三陸屈指の名勝があるのだが、駐車場が有料な上、付近には観光客の姿が目立ったので見物するのはやめておいた。
 宮古名所は浄土ヶ浜だけではない。実は本州最東端の地もあるのだ。本州の最東端が岩手県の地方都市にあること自体あまり知られていないような気もするが、それはさておき、重茂半島(おもえはんとう)のとどヶ崎(注2)は本州最東端の岬として、知る人ぞ知る名所なのだ。もちろん荒井も知らないわけがないし行かない理由がない。
 まずは重茂半島の北、閉伊崎(へいざき)に向かって行けるところまで行き、そこからとどヶ崎への入り口にあたる姉吉向かって南に下った。道は細く曲がっている上、半島であることが信じられないほど山深い。こんな道を伝って姉吉に着いたところで、今度は岬まで片道4キロほどの山道を歩いていかなければならない。さすが最東端、そうやすやすとは行かせてくれないのだ。姉吉キャンプ場の駐車場にDJEBELを停めたところで、本州最東端目指して出発である。

重茂半島とどヶ崎遊歩道
とどヶ崎への遊歩道。全線全く林の中。

 山道とはいえ、岬への道は起伏も少なくよく整備された林間の小径である。途中岩のゴロゴロした沢を横切るような場所もいくつかあるが、障害というほどのものではなく、岬までちょっとしたトレッキング気分が味わえる(実際、半島にはいくつかトレッキングコースが設定されている)。すれ違う人もそう多くない。相変わらず山がちではあるが、林の合間からは海が見えた。陸地はすとんと海に落ち、海岸線間際まで林が広がっている。これが三陸かと妙に納得するのだった。

とどヶ崎
本州最東端とどヶ崎。灯台と岩場の他は、見渡す限りの海ばかり。

 50分ほどかけてようやく着いた本州最東端の岬は、海と灯台があるのみだった。背の高い灯台の東には岩場が広がっている。岩の裂け目を見つけて覗いてみると、ずっと下で波が白く砕けていた。太平洋は見渡す限り何もない。この海がアメリカまで続いていると思うと、地球は広くて、自分はまだまだ知らないことが多すぎると改めて感ぜられる。岬には何もないが、何よりの風景がある。しばらく何も考えず海だけ眺めていた。

 駐車場に戻ると、これから岬に向かおうという方々が何人かいて、岬までの道についてあれこれ尋ねられた。その中には若い女性の単車乗りもいた。この方も旅人で、単車には山ほど荷物がくくりつけてある。「海外を旅して戻ってきたんですけど、そのまま日本国内を旅してるんですよ。」 曰く、現在五ヶ月ほどの旅の空。荒井はまだまだひよっ子だ。

三陸山田温泉
うらの浜荘の三陸山田温泉。小さいながらも温泉があるのがありがたい。写真は小冊子から。

 このまま姉吉キャンプ場に泊まってもよかったが、日はまだまだ高かった。姉吉を出て細く曲がりくねった県道で重茂半島を抜け出し山田町に出る。たまたま見つけた「ホーマック」で白ガスを補充してから、山田湾を回り込む形で重茂半島の南、船越半島の基部に出る。三陸の数少ない温泉の一つ、三陸山田温泉浜の湯「うらの浜荘」の湯につかって出ようとすると、ありがたいことにご主人が休憩室でゆっくり休んではいかがと勧めてくれた。ご厚意に甘えて一息入れてから、さらに南を目指して走りだす。国道45号線で山田町の南、大槌町(おおつちちょう)で、地図を頼りにキャンプ場を探してみたが、営業期間終了だったため、山田町に戻ることにした。
 地図によれば山田町には海浜キャンプ場があるのだが、現地に行ってみると水場もなく、本当にキャンプ場かは疑わしかった。利用客もいない。こちらも営業期間終了らしい。やむなく近場で野宿できそうな場所を物色するうち、キャンプ場近くに人目につかなそうな公園の緑地を見つけた。テントを張っても問題ないかしばらく様子を見ていると、公園に作業に来ていたおっちゃんが現れた。事情を話すと「野宿すっと、変な連中さ絡まれだりしねが?」と、近所の船越家族旅行村に案内してくれた。
 営業中ではあったものの、ここが典型的なオートキャンプ場だった。週末のためサイトは満杯、家族連れキャンパーでごったがえしていた。どこかテントを張れそうな場所はないかと管理人さんに相談してみたが、泊まるなら駐車場で、しかも料金を1500円取るという。正規のサイトでもないのに料金が高すぎるので結局辞退して、再び野宿場所を探すこととなった。おっちゃんの厚意を無駄にして申し訳ない気分で旅行村を後にした。
 あたりはすっかり暗くなっていたが、近辺に野宿できそうな場所はない。結局探し回った末最初の緑地に戻り、片隅に目立たぬようこっそりとテントを張ることとなった。

三陸で転ぶ

 夜が明けてみるとおっちゃんの心配をよそに、変な連中に絡まれることはなかった。雨は降っていなかったが天気はどこかすぐれない。すぐに晴れると天気予報では言っていたものの気分もすぐれない。
 三陸海岸は南の方が入り組んでいる。リアス式海岸独特のギザギザ地形は溺れ谷と呼ばれるもので、もともと山間の谷だったところに海水が入り込んでできたものだ。海岸線沿い一周にこだわる荒井、できるだけ多くの半島を巡るべく、気合いを入れて出発した。

 とりあえず野宿した船越半島を廻る。半島一周道路はないので、半島南にある大釜崎に見当を付け、DJEBELで行けるところまで行ってみた。道がとぎれた場所から岬まではまだ歩かねばならないようで、来た道を引き返した。
 再び大槌町に入り、井上ひさし(注3)の小説「吉里吉里人」で有名になった吉里吉里(きりきり)から、吉里吉里半島に入り込んだところ、意表を突いて泥っぽい砂利道が現れた。「聞いでねぇぞ、そりゃ!」と面食らう。小石と泥にハンドルがとられて走りづらい。やがて立派な舗装路が現れほっとしたのも束の間、大槌湾を回り込んで南の箱崎半島、箱崎白浜の漁村を過ぎると道はいきなり細くなり、やがてまた石がゴロゴロしてところどころ草ぼうぼうのえげつない未舗装路に変わった。地図に未舗装路の表示は出ていない。

 荒井が使っている地図「ツーリングマップル」は、未舗装路は色分けされて一目でわかるようになっているのだが、半島の道はどれも色分けされていない。だから「細くても単車が通れるぐれ、道は続いでんだべ。」と予想したのが甘かった。つまるところの白地図状態、出版元昭文社でも状況を把握していないのか、色分けせずに載っているだけだったのだ。
 道が道だけに慎重に進まざるを得ない。小さなトンネルを二つ抜け、何度もカーブを曲がり、限りなく続くかのように思われたゴロゴロの砂利道を抜けた時は正直ほっとした。オフ車のDJEBELなら林道走行はお手の物なのだが、パンクした時が怖いので、長い林道を走る時は心配になる。
 三陸海岸は小さな半島と入り江が連続している。それをいちいち廻ろうというのだからなかなか先へ進めない。半島巡りとは基部から出発して基部に戻ってくるわけだから、小さな半島と入り江が連続する場所では、走行距離の割に遠くへ行けないのだ。この日の道中はそんなことの繰り返し。「ワカメ育つぜホタテも育つ!」。あぁギザギザのリアス式海岸よ。
 とにかく箱崎半島を出てさらに南下したところで馬田岬のある半島に入った。地図によれば一周可能なはずだったが、間もなく石だらけの曲がりくねった砂利道になり、3キロ強進んだところで道は草に埋もれてしまっていた。周囲は山ばかりで海は全く見えない。三陸の半島は山深い。もともとは溺れ谷の山地にあたるわけだから、山深いのも当然といえば当然だ。

 来た道を引き返し、国道45号線で南に進むうち、緑の谷間から銀色の巨大な煙突が空に向かって突きだしているのが見えてきた。釜石市だ。
 釜石は室蘭同様鉄の街として知られているが、予想以上に緑が深い。製鉄所があったことがにわかには信じられないが、件の煙突は紛れもなく鉄の街であることを主張している。半島巡りで煮詰まっていた気分転換にと、市内の「鉄の歴史館」を見学することにした。

鉄の歴史館
鉄の歴史館。鉄の町釜石の歴史と誇りを伝える。写真は小冊子から

 鉄の街釜石の歴史は幕末にさかのぼる。外国船が日本近海に姿を見せるようになると、国防のため大砲鋳造の必要性が説かれるようになった。それを受けて技術者大島高任(おおしまたかとう)が釜石に洋式高炉を建設し、日本で初めて鉄鉱石の精錬に成功した。以後釜石は鉄の街として栄えるとともに、これをきっかけに日本近代製鉄が発展し、やがて製鉄産業は日本を代表する重工業に成長することになった。釜石は日本近代製鉄発祥の地なのだ。
 当時製鉄には三つの要件が必要不可欠だった。良質の鉄鉱石、動力のための水力、そして高炉の燃料となる木材。釜石に高炉が築かれたのはこの三つが揃っていたからで、荒井が見たあの緑の谷も、製鉄と深い関係があったのだ。
 戦後紆余曲折を経て釜石から高炉の火は消え、今では室蘭同様寂れた地方都市になっている。展示物の数々は往事の盛況を偲ばせるものが多く、一抹の寂しさも感じたが、街にとって製鉄の歴史が大きな誇りであることが伝わってきた。

 次なる尾崎半島に突入し、例によって延々と半島の道を走る。そして尾崎半島の南、物見山半島で「三陸は思った以上にギザギザだ! いづんなったら脱出できんだ?」と思い知りながらあるカーブにさしかかった瞬間、わけもわからずすっ転んだ。

 倒れたまま20メートルほど道路を横滑りしたところでDJEBELは止まった。ひとまずDJEBELを引き起こし、路肩の空き地に退避して何が起こったかを確かめた。
 そのとき出ていた時速は約30キロ。通常なら決して倒れるような速度ではない。カーブもたいしたものではなかったのだが、ただ、出口付近が山水で絶えず湿っており、真っ青な「藻」が生えていた。カーブを曲がろうとDJEBELを傾けたところ、後輪が藻で滑って平衡を失い、そのまま倒れてしまったらしい。

 「あいだだだ...なすてこんたどさ藻が生えでんだ! イデっ...擦りむいだ!」

 自分とDJEBELを点検してみると、大けがは負っていなかったが、左手の甲と左足の膝をしこたますりむいていた。ズボンと手袋にも穴が空いている。ズボンはすれに強い化学繊維製で手袋は革製だから、よっぽど強くこすれたらしい。落ち着いて傷口を水筒の水で洗い、絆創膏をありったけ貼り付けておいた。山道は全く人気のないのをいいことに、道路の片隅で破れたズボンをはきかえる。
 DJEBELは問題なさそうだったのでそのまま走っていたが、5キロほど走ったところでチェーンガードが外れていることに気が付き、あわてて拾いに戻る羽目になった。
 地図で確認したところ、この物見山半島の先端にある岬は「死骨崎(しこつざき)」というらしい。「死して屍拾う者無し!」 ここで転倒したことを妙に納得しつつ、物見山半島を後にした。
 この一件以来、山道では路面を確かめた上で慎重に曲がるようになった。

 日は傾きかけていたが、いつの間にか空は晴れていた。物見山半島の南、越喜来半島(おっきらいはんとう)は一周道路がないので素通りし、県道9号線で赤崎半島方面に入る。
 綾里という入り江の集落で道ばたの石碑に目が留まった。石碑は明治29年の大津波を記念したもので、それによると高さ約38メートルもの大津波が集落を襲い、296戸、1350名が犠牲となったそうだ。集落はほぼ壊滅、あたりには瓦礫とともに犠牲者の死体が散乱し酸鼻の極みだったという。
 綾里に限らず、久慈、田老、宮古、山田、大槌、釜石などなど、三陸海岸は見事に入り江に都市や集落が開けている。そのためか津波が来ると被害を受けやすく、これまで数多くの人命が奪われた。田老町や綾里はその一例だ。三陸随所では頑丈な扉付きの防潮堤や「津波注意」「津波避難場所」の看板を見かけた。
 しかし一方で入り組んだギザギザの海岸は天然の良港で、三陸沖は黒潮と親潮がぶつかり合う絶好の漁場となっている。漁港も数えきれないほど目にした。三陸の人々は自然の脅威と恩恵とともに生きてきたのだ。
 太平洋セメントの大きな工場を脇目に、これまた入り江に開けた大船渡市街地を抜け、末崎半島先端の碁石岬に向かう。岬は景勝地で、松林の先にある小さな灯台と、岩が目立つ荒々しい海を見物した。ギザギザに呪われたかのような、岩手三陸半島巡りの最後で絶景に恵まれてほっとする思いだった。

 末崎半島の隣、広田半島を回り込み、陸前高田市を通過してついに宮城県に入る。人気のない半島ばかり走っていたせいか、気が付けば昼食も摂っていなかった。岩手の三陸巡りを終えたことを記念して、夕食は気仙沼市(けせんぬまし)のフカヒレと張り込んだ。
 気仙沼も三陸の入り江に発達した都市で、東北随一の大漁港を抱えている。宮城県とほぼ同義で使われる仙台市からも離れた場所にあるせいか、宮城でも異質な文化圏という印象がある。フカヒレはそんな気仙沼を代表する海産物で、もとはマグロ漁の外道(注4)として大量に水揚げされていた鮫の付加価値を高めるため作られたものらしい。
 「八珍チャイナ」という中華料理屋に入り、フカヒレラーメンを注文する。壁にあったおすすめメニューの張り紙に惹かれ、棒餃子も追加した。日曜の夕方だったせいか周りの席は家族連れが目立ち、相当に繁盛している様子だった。
 フカヒレラーメンは細麺の醤油風味で、中にはほぐしたフカヒレの旨煮と、これまたほぐした蟹肉とエノキダケが餡として入っている。あしらいは青梗菜。嫌みのない味付けでフカヒレのプチプチ感とエノキのしゃきしゃき感が絶妙に麺と絡まって旨い。棒餃子は具を皮で巻いただけのものだが、一口かじってみると中は熱々汁気たっぷりでこれまた旨いものだった。豪華な夕食を目の前に「ようやぐ岩手脱出だ!」とほっとした。
 店を出る際、レジのお姉さんが荒井のDJEBELに目を留めていたようで、「山形から来たんですか?」と訊かれた。一通りのことを話すと「気を付けて旅を続けてくださいね!」と気持ちよく送り出してくれた。こうした店に一人、旅人の格好で入るのはやや気が引けるのだが、お姉さんの親切な言葉に救われる思いがした。

 この日はやや引き返して、唐桑町の御崎野営場に泊まることにした。多くの漁船が係留された漁港を眺めつつ気仙沼の市街地を抜け、石割峠で唐桑町に入り、唐桑半島の先端御崎に着いたのは夜の七時、あたりはもう暗くなっていた。受付は隣の国民宿舎でする。管理人の方はもう家に帰っていたが、フロントの方がわざわざ呼び出してくれた。やがてやってきた管理人のおじいさんがこれまた人の良さそうな方で、呼び出されたにもかかわらず、いやな顔一つせず、親切に受付や施設の案内をしてくれた。野営場は松林の間にあり、非常に感じがいい。各種設備もきれいで清潔なシャワー室まで備わっている。これで利用料金はなんと350円。安すぎる! 荒井もおすすめだ。
 世間は連休らしく、あたりには家族連れキャンパーが何組かいたが、昨日のオートキャンプ場と違い、ごみごみした印象は微塵もない。「こんたいいキャンプ場があるんだ。高い銭払って団地みでぇなオートキャンプ場あて、利用してられっかい!」と、愉快な気分に浸った。


脚註

注1・「ハイチュウ」:森永製菓のチューイングキャンディ。

注2・「とどヶ崎」:Shift-JISで「とど」の字が使えなかったのでやむなくひらがなで表記。本来「とど」には魚偏に「毛」(魹ヶ崎)という漢字をあてる。

注3・「井上ひさし」:いのうえひさし。作家。山形県川西町出身。代表作「ひょっこりひょうたん島」「四千万歩の男」他。日本語にこだわったユニークな作品が特徴。数々の戯曲も書いている。

注4・「外道」:釣り用語。狙っている魚以外の獲物のこと。


荒井の耳打ち

野営場とオートキャンプ場

 オートキャンプ場は文字通り車によるキャンプのための施設でして、車で乗り付けて利用することが大前提となっています。水場とトイレ完備はもちろんのこと、テントサイトに車を横付けできたり、家庭用100V電源が引いてあったりと設備も整っています。豪華な装備でゆったりとキャンプを楽しむには絶好の場所です。また、基本的に管理が行き届いているので、利用する際安心感があります(もっとも、キャンプ場の雰囲気は管理人の人柄と運営方針に寄るところが大きいのですが)。
 キャンプ場にオートキャンプ場と野宿旅向けの野営場の二種類があることは以前書きました。旅人がよく利用するのはもっぱら後者です。オートキャンプ場は至れり尽くせりな分、利用料金はビジネスホテルのそれに匹敵するほど割高です。また、周りが豪華なキャンプを楽しんでいるさなか、一人つつましく野宿をしていても、その落差に悲しくなること請け合いなので、旅人の場合あまり利用する価値が見いだせません。車中泊の人でさえ、オートキャンプ場を利用することはまれになると思います。
 それとこれは個人的な好みなんですが、よくある区画整備されたオートサイトは集合住宅のようで、「街を離れてテントを張った時まで、団地暮らしはしたくない。」と自分は思います。
 キャンプそのものを楽しむためにテントを張るのか、旅の手段としてテントを張るのか。オートキャンパーがテントを張る理由と、旅人がテントを張る理由は根本的に違っているのかもしれません。

前に戻る文頭に戻る目次に戻るトップページに戻る次を読む