天気はよかったのだが、海のそばだからか、テントがやたら結露していた。茶を淹れながらテントを乾かしていると、利用料を集めに管理人さんがやってきた。管理人さんはDJEBELの山形ナンバーを見て驚いていた。
キャンプ場を出発し、まずは四国最東端の蒲生田岬に向かったが、土砂崩れのため、岬まで行けなくなっていた。DJEBELで行けるところまで行ってみたが、岬のだいぶ手前で通行止めになっていた。復旧工事の方に伺うと、先月の大雨で派手に土砂が崩れ、単車でも通れないほどらしい。長崎でたたられたあの大雨のせいだ。つくづく雨が恨めしい。
国道に出て、沿線のコンビニでサンドイッチとオレンジジュースの朝食を済ませ、徳島市に向かう。いつものことながら、街に近づくにつれ車が増え、渋滞してきた。
田舎の渋滞は、都心の渋滞よりひどいことがある。田舎では車が必需品なので、どこに行くにも車に乗るものだから、県庁所在地のように人が集まるところでは、とたんに流れが滞ってしまう。
先日下見していたため、県庁はすぐに見つかった。徳島県庁は徳島港に臨む運河のほとりにあって、裏手は繋留所になっている。無数に碇泊するヨットを前景にして建つところなど、ちょっと様になっている。庁舎の案内板がやたら凝っていた。県庁内の部署が書かれた操作卓があって、行きたい部署のボタンを押すと、目の前の電光掲示板に見取り図と場所が表示される。こんな案内板は他では見たことがないものだった。「さすがジャストシステムのお膝元、ハイテクだな。」と思ったかどうかは定かでない。
食堂は最上階にあって、十一時から営業している。徳島名物が思い当たらなかったので、人気メニューと評判のラーメン定食を食べる。ラーメンとチャーハンの取り合わせなのだが、このチャーハンが、簡素ながらたまごとネギがたっぷり入っていて、実に旨かった。肝心のラーメンは醤油味で、油っこいものだった。
近所にある近代美術館で中原淳一展をやっているというので見学する。中原淳一が昭和の挿絵画家で、少女画に定評があることは知っていたが、四国は香川県の生まれで徳島育ちということまでは知らなかった。ちょうどこの年は没後20年の記念の年で、ゆかりの地徳島で回顧展が開かれていたのだ。
外に出ると、灰色の夕立雲が近づいていた。手近なコンビニに逃げ込むと、予想通り、間もなく大粒の雨が降り出した。さっきまでの晴天が嘘のような大雨で、道行く車は激しく水しぶきを上げている。しかし1時間ほどするとまた嘘のように雨が止み、再びからりと晴れ上がった。道路もあっという間に乾いたので、コンビニを出た。
阿波国一の宮、大麻比古神社(おおあさひこじんじゃ)は徳島市の少し北、鳴門市にあり、神社の北にそびえる大麻山をご神体としている。真っ赤な橋を渡って境内に入ると、一の宮らしい清々しい社殿が建っているが、参拝客はあまりいなかった。
そのかわり、神社のすぐそばにある霊山寺(りょうぜんじ)は、大型バスが何台も乗り付けるほどの大盛況を見せていた。それというのも霊山寺は四国八十八ヶ所巡礼の一番札所なので、札の打ち始めとして訪れる人々が絶えないのだ。巡礼に必要な品々を扱う売店もあって、こちらも相当に繁盛している。ここに来ればお遍路グッズが一通り揃うので、旅の準備はお任せというわけだ。
四国は真言宗の開祖、弘法大師空海が悟りを開いた地で、ゆかりの霊場が各地に点在している。これが八十八ヶ所の寺院で、後世になるとそれら霊場を廻る巡礼の旅が盛んになった。四国を回っていると各地で「同行二人」と書き付けられた笠と金剛杖を持った白装束の巡礼者を見かける。お遍路さんだ。
昔は難病奇病に冒された人、人には言えない事情や悩みを抱えた人が、切実な想いをかかえて廻ることが多かったそうだが、時代が下ると観光化されてきて、気軽に廻る人も増えてきた。霊山寺で見たとおり、徒歩のかわりに自動車やバスで廻る方も多い。もちろん、単車や自転車で廻る方もいる。旅の最中、日本一周のついで、四国で八十八ヶ所巡礼結願(けちがん)を果たした方も何人か見かけた。巡礼というよりはスタンプラリーのような感覚なのだろう。
旅人は「全部廻る」というのにも非常に弱い。夏の北海道や東北には、道の駅全制覇に燃える旅人が数多く現れる。百名山、百名瀑、百名水、世界遺産の完全制覇はもちろんのこと、鉄道全線乗り潰し、全国道踏破、果ては郵便局貯金の旅に至るまで、日本国内にある何かを全て極めることを目標に旅をする人も多い。荒井の県庁巡りや一の宮巡りも似たようなものだ。
旅をするならば、特に目標を作る必要はない。しかしそれでも多くの旅人が、目標を掲げて旅をする。未知への好奇心、達成感、自己満足。動機は数あれど、自分なりの方法で世界を知ろうと思うからこそ、旅人は何かを極めることを目的にして、旅をするような気がする。極めたその先に何があるかを、己の目と足で確かめたいのだ。ある意味それは、巡礼の旅なのかもしれない。
徳島で廻るべき所は廻った。大鳴門橋をかすめ、海沿いに進むうち、県境を越えて香川県に入った、これで四国四県も全てに足を踏み入れた。日本一周でまだ足を踏み入れていない県は、福井、石川、富山と、北陸に三県を残すのみだ。
午後六時を廻り、あたりは暗くなり始めていた。東かがわ市にちょうどキャンプ場と立ち寄り湯があった。まずは立ち寄り湯「翼山温泉」で汗を流し、近場のスーパーで夕食を仕入れる。それから目星を付けていた田ノ浦キャンプ場に転がり込んだ。瀬戸内海に面したキャンプ場で、立地や施設は申し分ないが、利用料が一泊1250円と高いのが玉に瑕だ。
事務所で受付をすると、管理人のおじちゃんが「そろそろ台風が来るらしいから、野宿も大変だね。」と、事務所備え付けのテレビで天気予報を見せてくれた。どうやら台風は翌日から明後日にかけて四国に接近するようだ。明日は風雨をしのげる場所を捜さねばなるまい。
米を炊き、さっきスーパーで買ってきた水餃子で夕食にした。ご飯には四万十川の川海苔となめたけを奢り、わかめスープもこさえた。貧乏で豪華な夕食だ。
外はすっかり暗くなっている。まだ夏のつもりだったが、8月にもなると、日は確実に短くなっていた。
朝早くから管理人のおじちゃんはもう見回りに来ていた。撤収はやたらはかどり、六時前にはキャンプ場を後にした。天気はよかったが、台風が近づきつつあるからには、油断はできない。空模様が怪しくなる前に、廻れるところをとっとと廻ることにした。
まずは四国最北端、竹居岬を捜して走る。最北端だというのにそれらしい案内標識が見当たらず、結局見つけられずに素通りしてしまった。四国の北には、間近に島と本土が控えている。それゆえ地元でも、最果てという意識が薄いのかもしれない。
出発したのが早いから、香川の県庁所在地、高松市に着いたのも早かった。もちろん県庁は開いていない。先に金刀比羅宮(ことひらぐう)にお参りしてこようと、琴平町に向かった。
琴平町にある金刀比羅宮は、「こんぴらさん」の愛称で知られる四国随一の神社だ。「こんぴらふねふね」の民謡のとおり、航海安全の神様ということで、古くから漁師や商人の崇敬が篤かった。こうした船乗りたちが行く先々でその評判を宣伝したおかげで、庶民の間でも金比羅参りが盛んになり、今でも全国からお参りに来る人が絶えない。
さすが四国有数の神社だけあって、門前街にはみやげ屋に食堂、旅館に至るまで参拝客相手の店が賑やかに軒を連ねている。十時前だというのにもう多くの参拝客が繰り出し、軒先では売り子さんが盛んに呼び込みをしていた。荒井はお参りが目的なので、門前街は素通りし、拝殿目指してひたすら歩いた。
拝殿は765段の長大な石段を登った先にある。さすがに旅道具一式を詰め込んだ大型ザックを担いで登るのは大変で、途中で息が切れかけた。ザックを背負っていなくとも、拝殿まで行くのは一仕事で、石段の途中には参詣者用に屋根付きの休憩所が設けられてある。拝殿に着いたときは、ありがたみよりももう登らずに済むという安心感が先に来た。拝殿の先には奥の院があるのだが、さすがに15キロの荷物を背負ってまた登るのは堪えたので、拝殿でお参りだけして戻ってきた。
次に行ったのは満濃池だ。見た目は木立に囲まれた小さめのダム湖で、このときは自衛隊の一団がゴムボート漕ぎの訓練をしていた。
香川には池が非常に多い。もともと香川は瀬戸内海性気候ゆえ、一年を通じて雨があまり降らず、慢性的な水不足に悩まされる土地柄だった。そこで各地にため池を作り、いざというときの水源にしていた。満濃池はその中でも最大のもので、かの空海もその改修に携わったという歴史あるため池だ。
昼に合わせて高松に戻り、四国県庁巡りのトリとなる香川県庁に行く。香川県庁は鉛筆のように背が高く、やたら現代的な建物だった。食堂はカフェテリア式でこれまた現代的なところだったが、さすが香川、他の県とは違っていた。定食や麺類を出すカウンターとは別に、うどん専門のカウンターがあるのだ。
讃岐うどんが香川名物であることは、もはや説明無用なほど全国に知れ渡っているが、実際そのとおり、石を投げればうどん屋に当たるほど、県内ではうどんを喰わせる店を頻繁に見かける。そしてそれは県庁食堂も例外ではなかったのだ。
全国的にうどんは県庁食堂では目立たない方の献立なのだが、さすがうどん王国香川、うどんは全国一の充実ぶりで、他の都道府県庁食堂の追随を許さない。基本のかけうどんはもちろん、ざる、冷やし、釜揚げ、湯だめとひととおりそろっており、上に載せる天ぷらなどももちろん用意されてある。ここでうどんを喰わなければ、香川県庁に来た意味がない。冷やしうどんを中心に、じゃがいも天と海老かき揚げを取り、さらに青菜と鶏の煮物とひじきおにぎりを付け、豪華な昼食とした。
さすが本場、旨かった。天ぷらも自前で揚げているようで、相当な力の入れようだ。食堂は県庁の職員さんの他、なぜか女子高生も多く利用していた。ここが穴場と知っているのだろう。
ため池に見るとおり、香川は雨の少ない瀬戸内海性気候なのだが、一方では麦の栽培には適していた。それが香川でうどんが盛んに作られ、食べられるようになった背景にあるといわれている。
満濃池を出た頃は晴れていた空が、いつの間にか薄曇りになっていた。いよいよ台風が近づきつつあるらしい。二、三日は身動きがとれなくなるのならば、その間島に籠もろうということで、小豆島に渡ることにした。島にあるユースホステルに連絡を入れると、うまいこと二日分泊まれることになった。
夕方の船で渡る予定なので、それまでにあれこれ用事を済ませた。まずは讃岐国一の宮田村神社にお参りに行く。讃岐国一の宮は金刀比羅宮でもよさそうなものなのだが、そうではない。田村神社は金刀比羅宮と違って、高松市郊外の平地、街中にある。境内は広くない。近年放火で消失したという社殿を再建するため、工事用の足場が組まれていたため、余分に狭くなっていた。そんなところに祠や石像などがごちゃっと据わっているので、神社は賑やかな感じがする。
四国の名前は九州と同じく、島に四つの旧国があることに由来している。九州には七県しかないが、四国は愛媛が伊予、高知が土佐、徳島が阿波、香川が讃岐にあたるので、県と旧国の数は一緒である。
県庁巡りと一の宮巡りが一段落したので、雑事を片づける。近場の電気屋で電池を仕入れ、カメラ屋さんでデジカメの画像データを保存してもらう。撮った画像が多いので、半刻ほど時間がかかる様子だ。その間立ち読みでもしようと本屋に入ると、気になっていたゲームソフトの攻略本が置いてあったので、思わず買ってしまった。古ゲーム愛好家の悪い癖だ。
ついでにデジカメ用のコンパクトフラッシュカードも新調した。データを移行したのだからこれまで使っていたカードをまた使えばいいのだが、バックアップを取ったからといって安心できないことはこれまでの経験で知っている。念には念を入れて、山形に戻るまでカードの内容は残しておくことにしたので、その分、新しいカードが必要になったわけである。
頃合いを見計らってまたカメラ屋さんに行く。撮った画像は800枚ほどで、CD−R6枚分になった。「これだけ多いバックアップはあまりありませんね。」と、店員さんは目を丸くしていた。
ガソリンも満タンにした。いよいよ時刻になった。高松と小豆島の間には、1時間に1本の割合で船が往来しており、気軽に渡れるようになっている。甲板にDJEBELを積み、客席に陣取れば、あとは島に着くのを待つばかりだ。船内のテレビでは、甲子園の試合が流れていた。この日は夏の甲子園の開幕日だった。神戸に向かう途中、脇目に見たことが、ずいぶん昔のことのように思われる。
小豆島に着くと、天気はだいぶ怪しくなっていた。あたりも暗くなりかけていたので、島の南岸に沿って走りつつ、予約を入れていた「小豆島オリーブユース」に転がり込んだ。ユースは夏休みの行事で来たらしい、子供たちの団体でうるさいほど賑やかだった。
旅人の利用者もいる。この日同室になったのは三人で、神奈川から来たという方、イギリスから来たバックパッカー、そして三重から電車で来たという方だった。明日は台風だというので、みんな日程が狂うのを心配していた。
小豆島は本土に近いおかげか、全国区のコンビニも建っている。夕食は島内の「サンクス」で、サンドイッチと1リットルパック入りのグレープフルーツ水を買って済ませた。