嵐の小豆島

岬の分教場へ

小豆島スカイラインから草壁港方面を見る
寒霞渓の近くで。眼下に見えるのは内海町の街並みと岬

 外はやっぱり雨だった。買い置きのあんパンとクリームパンをもそもそと喰って朝食にした。
 今日一日はユースに籠城するつもりでいたが、同室になった三重の旅人の方が、「レンタカーで島を廻るんですけどいかがですか?」と誘ってくれたので、ありがたく乗せてもらうことにした。十時頃、彼がレンタカーを借りてユースに戻ってきたので、便乗して島の名所巡りに出た。

 彼は「百太郎」さんという。普段は三重で小学校の先生をしているそうだ。旅の足はもっぱら電車だが、目的地ではこんな具合にレンタカーを使うことも多い。郵便局で1000円貯金をしながら各地を廻るのが好きで、もちろん小豆島でも郵便局巡りを企んでいる。「小豆島には前に一度来たことがあるんですけど、すっかり気に入って。それでもう一度来たんですよ。」

映画村の分教場セット
映画村の中心、分教場オープンセット。「二十四の瞳」は小豆島を一躍有名にした。

 雨は降ったり止んだりで、風が次第に強くなってきた。岬に向かう道には、風に吹き散らされた木の葉や折れた枝が転がっている。台風は間近だった。そうこうしているうちに、車は「二十四の瞳映画村」に着いた。
 小豆島は島出身の小説家、壺井栄の「二十四の瞳」の舞台として特に知られている。小豆島の分教場に赴任してきた若い女先生と、その教え子である12人の子供たちが時代に翻弄される様を描いた話で、これまで二回ほど映画化されている。映画村はその二回目の映画撮影用に作られたオープンセットで、撮影終了後に取り壊されることになっていたのだが、それを惜しんだ島の人々によって保存されることになり、今では島一番の名所となっている。
 セットはおおがかりなもので、分教場をはじめとする木造の建物が数軒ある。みやげ屋や食堂に改装されているものもあった。同じ敷地内には「二十四の瞳」専門の映画館や、壺井栄の文学記念館も建っていて、ちょっとしたテーマパークになっている。
 分教場のセットには古ぼけた机や椅子、オルガンといった小道具が置かれ、壁には習字や五十音表も張り出されてある。小さな教室と職員室を見ては、百太郎さんは「これぐらいこぢんまりとした学校に勤めたいですねぇ。」としきりに口にした。
 傍らには、来た人が感想などを綴る来訪者ノートがあった。どんなことが書かれているのかと手に取ってみると、感想というより、文章にもなっていない、いたずら書きのような走り書きばかりであふれている。子供の仕業だろうと荒井が言うと、百太郎さんは「いや、たぶん大人でしょう。」と仰った。曰く、先生をやっているといろいろな親に会うが、大人と呼ぶには未熟な親が多いそうで、子供の将来が心配になる、と。子供と向き合う仕事をしているだけに、「二十四の瞳」の物語には、何かと憧れるところがあるのだろう。小学校の先生とは大変な仕事らしい。

内海町立苗場小学校旧田ノ浦分校舎
物語のモデルになった苗場小学校田浦分校舎。明治35年に建てられた町内最古級の木造校舎。

 次いで、物語に出てくる分教場のモデルになったという分校に行った。映画村からは少し離れた場所にある。こちらは映画のセットではなく、昭和40年代中盤まで学校として実際に使われていたものだ。年季の入った木造校舎で、中に入って見学できるようになっているが、受付の方が「台風なので間もなく閉めるんですよ。」というので、いそいそと見学することになった。
 この日は台風のおかげで、島内の観光施設はどこも大幅に営業終了時刻を繰り上げていたので、間に合うよう、いそいそと島を巡ることになった。もっとも、こんな日に出歩く人はそうおらず、どこに行ってもがらがらだった。

マルキン醤油醤油記念館 つくだに屋さん・岡田武市商店
マルキン醤油とつくだに屋さんの岡田武市商店。醤油と佃煮は島の特産品だ。

 分校の次にマルキン醤油に行った。小豆島は醤油造りが盛んで、小さな島に大小様々な醤油屋がある。マルキン醤油はその中でも一番大きなところで、工場の隣に醤油づくりを紹介する記念館が建っている。こちらを見学した後、売店で名物の醤油ソフトを食った。醤油色をした醤油入りのソフトクリームで、ゲテモノのようだが意外に旨かった。
 「前来たときに気になってたんですよ。」と、醤油屋の次は「岡田武市商店」という佃煮屋に連れて行かれた。佃煮屋といっても結構大きなところで、店内にはとりどりの佃煮が並んでいる。そしてここでも、名物として「佃煮ソフト」なんてものを売っていた。どうやら百太郎さんはこれが気になっていたらしい。佃煮と言うからには、海苔なり海老なりの佃煮が丸ごと入ったものを期待したのだが、さすがにそれではキワモノ過ぎるのか、しそ昆布の煮汁を混ぜ込んだという、穏便なソフトクリームだった。わりと旨いが、飾りにハートや星形にくりぬいた昆布の佃煮をあしらっているのは佃煮屋ならではの洒落である。店のおばちゃんに伺うと、どの佃煮の煮汁を使うかはかなり吟味したようだ。「店に40種類ほどある佃煮全部で試作品を作ったんですけど、その中で一番おいしかったしそ昆布を採用したんですよ。」 他のボツになった試作品が、いったいどんな味だったかがやけに気になる。

 昼は内海町(現小豆島町)のフェリー乗り場に近い「三太郎うどん」という店でうどんを喰った。小豆島は香川県に属するので、ここでもうどんはおなじみなのだ。ここで喰ったのはかつおおろしうどんというもので、冷やしたうどんに鰹節と大根おろしとタレをぶっかけて喰うというものだ。薬味に載っけたワケギとおろし生姜と天かすを、うどんごとごたまぜにしてズルズル啜る。

小豆島孔雀園の孔雀
孔雀放し飼い中。こんなのが多数園内をうろついている。

 オリーブ園を見物した後で、百太郎さんは「島の郵便局を廻ってきますから。」と、一人郵便局巡りに行った。その間荒井は孔雀園を見物した。小豆島孔雀園はその名のとおり、たくさんの孔雀を飼っている施設で、小豆島では唯一の動物園のような場所である。
 この孔雀園、珍事件で全国の話題になったことがある。園では訓練した孔雀による飛行ショーを呼び物にしていた。ところが特訓の成果か、柵を越えて飛んでいったまま戻ってこない孔雀が続出し、頭数が激減して飛行ショーが取りやめになったという事件が、テレビで面白ニュースとして紹介されたことがあるのだ。
 入場門をくぐるなり、放し飼いの孔雀が目の前にぬっと現れた。檻なんてものはなく、全くそのまんま、孔雀が何羽も園内で放し飼いにされているのだ。中には羽を広げて求愛行動をする奴までいた。意外にでかいので妙に気圧される。換毛が近いせいか、自慢の羽根はすっかり汚れたり抜け落ちたりしていた。孔雀の羽は4月から初夏にかけて、求愛行為が盛んになる時期に合わせて生えそろってくるそうで、その頃が一番見頃であるらしい。孔雀は見た目とは裏腹に人なつっこい性格のようで、歴史上、早くから愛玩動物として飼われてきたそうだ。
 百太郎さんが迎えに来る頃には、雨と風は相当に勢いを増していた。小さな商店や先ほど行った醤油記念館はもう閉められている。この台風で道行く人もそうはいない。かろうじて開いていたスーパーで夕食と酒を仕入れた後は、ユースに籠もるばかりだった。

寒霞渓から祖谷渓へ

 台風は過ぎ去ったようで、朝には雨も止んでいた。
 百太郎さんは、夕方までに広島に行く予定だそうで、支度を終えると早めに出発していった。島でお世話になった礼を述べて見送った。荒井も八時前にユースを引き払う。夕方の便で高松に戻るまで、島を一周することにした。

 コンビニに行くと、台風のせいか、サンドイッチや弁当は軒並み売り切れだった。仕方なくカロリーメイトと牛乳を買い、簡素な朝食にする。島の南東の岬、大角鼻あたりの道は吹き飛ばされた木の葉や枝でいっぱいで、通るのに難儀した。風はよほど激しく吹いていたらしい。雨こそ降っていないが空はまだ曇りがちで、すっきり晴れるまでは、もう少し時間がいりそうだ。

 島の北で「大阪城残石記念公園」を見物した。その昔大阪城が築かれた際、石垣として小豆島の花崗岩が伐り出され、摂津の国まで運ばれていったのだが、余ってしまったのか、伐り出されたまま海辺に放置された岩が今でも残っていて、「残念石」と呼ばれている。公園はその残念石がある場所に作られたものだ。花崗岩は小豆島の特産品のひとつで、石伐は主要産業の一つになっている。島の北には石伐場が多く、採石で形が崩れた山も目立った。

残念石
大阪城の石垣になり損ねた残念石。往時祖先が石切場を管理していた縁で、細川護煕元首相も見学に来たそうな。

 一周したところで島の中央にある寒霞渓(かんかけい)に行った。島の最高地点は標高800メートルほどで、寒霞渓が600メートルほどだから、島でも結構高い場所にあるわけだ。山に至る道路の入口では「山の頂上は5度涼しい」という煽り文句を書いた看板があって、山にいらっしゃいと誘っている。急な坂道を登っていくと展望台があって、南に小豆島の海岸線や街並みがうかがえた。
 寒霞渓にはロープウェイが設けられてあって、これに乗れば上から見物できる。切り立った断崖を下っていくと、緑の谷を眼下にできる。緑があんまり深いので底なしにさえ見えるが、緑の下の谷底には遊歩道があって、歩いて寒霞渓を見物できるようにもなっている。勾配が急なので、上り下りは非常に大変そうだ。紅葉の時期には、緑の谷が真っ赤に染まり、それは見事な眺めになるそうだ。

寒霞渓
小豆島随一の名勝寒霞渓。妙義山、耶馬渓と並ぶ日本三大奇勝とされている。

 昨日十分見られなかったマルキン醤油のもろみ絞り工場を見学し、オリーブ公園に向かう。公園の食堂で昼飯を食うつもりだったが、只でインターネットが使える端末を見つけ、昼食そっちのけでネットを確認してしまう。結局昼食は、売店で地元特産のすももジュースとオリーブアイスキャンディを買って済ませた。
 ところで小豆島がオリーブの島であることはよく知られている。瀬戸内海性の温暖で雨の少ない気候が合っていたのか、日本で最初にオリーブ栽培に成功して以来、島はオリーブでも知られることになったのだ。だから島内でもオリーブを採り入れた名物がいろいろ売られていて、オリーブ油はもちろん、オリーブを混ぜ込んだソフトクリームやアイス、オリーブを配合した美容クリーム、オリーブ茶、オリーブケーキ、オリーブ羊羹なんてものまであった。

世界一狭い土渕海峡
ギネスも認めた世界一狭い土渕海峡。土庄町では訪問記念向けに横断証明書まで発行している。

 「二十四の瞳」とオリーブで目立たないが、小豆島には隠れた世界一がある。世界一狭い海峡、土渕海峡だ。小豆島は前島と本島の二つの島からなっているのだが、土渕海峡はその二つを隔てる海峡で、土庄港と池田湾を結ぶ位置にある。船が行き交うれっきとした海峡ということでギネスブックにも認められ、島の珍名所となっているのだ。認定されるには、常に船の往来があることなど、様々な条件があるらしい。一番狭いところで10メートル足らず、傍目にはただの掘り割りにしか見えない。海峡をまたぐ橋には「世界一狭い土渕海峡」と誇らしげに書いてあった。
 やがて帰り船の時刻になった。世界一狭い海峡を見納めにして、小豆島を後にした。

 45分ほどでフェリーは高松に着いた。さっさと高松の街を抜け、山を目指して走る。今日は祖谷渓に近いキャンプ場に転がり込むつもりなのだ。道の駅で休憩したり、吉野川を渡ったりして走ること約2時間半、目的地の祖谷渓キャンプ場に着いた。
 キャンプ場は川縁の切り立った谷の斜面に作られたもので、谷底は川になっている。天気がよければ水遊びなどもできるようだが、台風で水量が増したせいか、谷底に降りている人はいなかった。管理棟でおじちゃんの管理人さん相手に受付を済ませ、空いていたウッドデッキの上にさっそくテントを張る。やはり夏休みの週末だけあって、若者の一団や家族連れが多かった。

 「山形から来たんですか! 遠くから大変でしたね。」 夕食に米を炊いていると、隣のテントの方に話しかけられた。彼は島根から来た単車乗りの方で、友達と一緒に二泊三日の予定で四国に来たそうだ。剣山のスーパー林道を走りに来たのだが、この台風で通行止めになったらしく、少々がっかりしていた。先週はまさに最高の天気だっただけに、この台風はさぞ恨めしかったことだろう。
 お二人は去年も四国に来てこのキャンプ場を利用したのだが、それでここが気に入って、また今年も来たのだという。「夜になると、星がそれはきれいに見えたんですよ。それとここの管理人のおじちゃんがよくてねぇ。このキャンプ場、電話予約を受け付けていないんですよ。おじちゃんに理由を尋ねたら『飛び込みで来た人に申し訳ないから。』って。」 貧乏旅人は飛び込み中心でキャンプ場を利用することが多いので、こうした方針は非常にありがたいのだ。
 炊いた米に買い置きのカレーとわかめスープで夕食にした。ろくに昼食を食っていなかったのでやたら旨い。夕食後、三人してあれこれ雑談に興じる。「よかったらいかがですか?」と、島根の単車乗りさんが花酒を勧めてくれたので、遠慮なくごちそうになった。与那国島の民宿で、台湾のテレビを見ながら花酒を空けたことを思い出す。
 あれから一月半、だいぶ東に来たものだ。

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