朝からえらく寒かった。風の強さは相変わらず、おまけに雨まで降っている。走ればなお寒い。「俺なすてこんた寒い中、ひーこら言って走ってんだべ?」と、異様な寒さに弱音も漏れるというものだ。
ふと海を見ると、風雨でひどく時化ていた。そうだというのに、磯では昆布漁の漁師達がずぶ濡れになりながら出張っていた。これぐらいで根を上げていては漁師さんに申し訳が立たないなと自ら喝を入れつつ、海沿いに釧路を目指した。
襟裳東岸を走る国道336号線、えりも町と広尾町を結ぶ30キロ区間は「黄金道路」と呼ばれている。晴れてるなら値千金の風景でも見られるんだろうと思ったが、この悪天候ではその黄金ぶりもよく分からない。
実は「黄金国道」の由来は景観ではなかった。断崖沿いの難所を通るがため、開通まで、道に黄金を敷き詰めるかのような巨費と時間がかかったのに由来するという。確かに道の至る所、片側交互通行が目立つ。
冷たい雨に冷たい風。濡れた手袋で風を切るせいか、手はかじかんでもはや感覚もない。長靴はケチって丈の短い物を買ったせいか、雨水が入り込んで用をなしてない。体は冷える一方だ。こんなとき、単車乗りは惨めである。
忠類村(現幕別町)にさしかかったところで「ナウマン象発掘地500m」と書かれた看板を見つけた。この悪天候、とっとと釧路に行くつもりだったが「ま、近いがらいいべ。」と寄り道した。その記念碑のそばで「ナウマン象記念館まで車で20分」という看板を見つけ、「んだらそんな遠ぐねぇな。」と、忠類村の真ん中まで行くことになってしまった。
1969年夏、忠類村の農道工事現場で、たまたま象の歯の化石が見つかった。これをきっかけに、3年に渡る調査の結果、12万年前のナウマン象ほぼ1頭分の全身骨格が発掘された。世界的な大発見に、村はてんやわんやの大騒ぎ、発掘調査は村の総出を挙げた協力の下進められたという。その農道は今や「ナウマン農道」、忠類村近辺の「黄金国道」336号線は「ナウマン国道」と呼ばれている。今や夏でも寒い北海道だが、12万年前には象さえ住んでいたのである。
記念館の展示は、その忠類村で発掘されたナウマン象にまつわるものだ。発掘調査に関する資料の数々は、当時の昂奮と熱気を今に伝えている。一番の見物は発掘の成果、ナウマン象の全身骨格標本だ。この標本はいくつか複製が作られ、国内はおろか海外にも渡っている。このナウマン象も、生きていた頃は、まさかこうして各地を見て廻ることになるとは思っていなかっただろう。
記念館の隣に「アルコ236ナウマン温泉」なる施設があったので、見学後入浴した。寒いときは温泉につかるに限る。昼食は併設の「レストランちゅうるい」のあんかけ蕎麦だった。皿に載った蕎麦に五目あんがかかっている変わった食べ物だが、寒いからこういうものが恋しくなる。
忠類村でのんびりしすぎたので先を急ぐ。温泉に入ったものの、凍える寒さは相変わらずで、また手がかじかんできた。浦幌町のセイコーマートで苦し紛れに炊事用のゴム手袋を買い、ひたすら釧路を目指した。
ゴム手袋も失敗だった。濡れない分少しはましになるかと思ったのだが、きつくて指が締めつけられ、かえって逆効果だった。そして浦幌から釧路までがまた長い。寒さに耐えながらの道中だった。
苦行のような道のりを経て、ようやく着いた釧路だが、ここでも苦行が待っていた。釧路市は名前の通り、釧路支庁の中心地だ。この釧路支庁舎がなかなか見つからない。寒い中市内をうろつき廻った挙げ句、ようやくそれらしい建物を見つけても、守衛に怪しまれ、中に入れてもらえない。「ただの旅人です、役場を見学しながら旅をしてるんです。」と言い、何とか写真撮影だけは許可してもらった。
凍えるような目に遭い、もはや野宿をする気もない。市内で見つけた「北友荘」という民宿に飛び込みで転がり込んだ。飛び込みだったにもかかわらず、宿のおかみさんは親切にも歓迎してくれた。寒さに震える荒井を一目見て、「寒いでしょうからお部屋の暖房を入れて来ますね。」と、さっそく部屋のストーブをつけに行ってくれた。冷たい目に遭った分、おかみさんの心配りに救われた。
釧路には和商市場(注1)などもあり、美食家にはたまらない街らしいが、この雨と寒さ、出歩く気なぞ一つもない。隣にセイコーマートがあるのをいいことに籠城を決め込んだ。
早速風呂に入り、セイコーマートで夕食を買う。こんな時ぐらい景気づけに豪華に食おうぜと、鳥天丼にチキンカツ焼きそば、オレンジジュースと張り込んだ(この程度で豪華というのがなんというか)。そしてストーブに当たりながら、テレビなぞ見てのんびりしていた。
この日は夏至だった。浦幌のセイコーマートのおばちゃんは、今年は雨続きだと言っていた。北友荘のご主人も、この時期にこの寒さは普通じゃないと言っていた。
実はこの頃、北海道は異常低温に見舞われ、中でも道東は、道内はおろか、全国的にも最も激しく冷え込んでいたのだ。
朝八時に北友荘を引き払い「北太平洋シーサイドライン」で日本最東端の町根室市を目指す。名前こそシーサイドだが、道は原野のような木の多いところを走っており、海はたまに見えるぐらいだった。雨こそ止んでいたが寒いのは相変わらずで、合羽をはじめ、着られる物は全て着こんだ完全武装で走っていた。雨に濡れた手袋ははめているだけでも冷たくなる。かわりに軍手を二枚重ねにしていたが、それでも手が凍えそうだった。
走ること2時間強、厚岸町(あっけしちょう)へとやってきた。厚岸湾と厚岸湖を抱える、天然の良港に恵まれた町である。この地形を生かした牡蠣が町の特産品で、JR厚岸駅のカキ弁当は人気の駅弁となっている。
ちょうど昼近かったので、町にある道の駅「厚岸グルメパーク」で「カキ弁天丼」を食べた。ご飯の上におぼろ昆布、牡蠣の唐揚げをのっけて、イクラをあしらった丼で、実に旨かった。北海道に来て、ようやく海鮮物らしい海鮮物を食べたような気がする。
この道の駅は団体旅行客も多く訪れるようで、バンケットにはそれらしい名前がいくつもあった。実は、荒井がカキ弁天丼を食べたレストランは、全ての席が「予約済み」となっていたのだが、店の方の配慮で、短時間で切り上げるという条件で、席を確保してもらったのだ。食べ終えて店を出て行く頃、ちょうど入れ違いに団体客がにぎやかにやってきた。
ところで、この厚岸町と山形県には縁がある。山形県が輩出した幕末の北方探検家、最上徳内が探検の拠点としたのがこの厚岸町なのだ。その縁で、徳内の出身地にあたる山形県村山市と厚岸町は友好都市提携を結んでいる。ついでに村山市の夏祭りとしてすっかり定着した「徳内祭り」の徳内囃子は、厚岸町の港祭りのお囃子を採り入れていたりする。
そういうわけで、同町の郷土資料館「厚岸町郷土館」を見学した。建物は小さく、中は教室二つ分の広さの部屋が一つあるきりとなっている。展示は江戸期の歴史資料から近代以降の民具まで、厚岸の歴史を語るものが中心である。
あまりの寒さで郷土館ではストーブを焚いていた。受付兼学芸員のおばちゃんのすすめで、ストーブに当たりながら、厚岸の歴史についてあれこれお話を伺った。このおばちゃんが相当な勉強家で、展示物についても詳しく説明してくれた。
厚岸は良港に恵まれたこともあり、道東では早々に開発の手が入っている。古くからアイヌたちが住んでいたのはもちろん、幕末には幕府直轄地として、北方経営の要地となった。その流れで明治大正期にかけて町は栄えた。町の一角には古い洋風住宅がいくつか残っている。大正時代にはすでに多くの世帯が電話に加入していた程の道東の古都だったが、今や拠点は釧路に移り、往時の繁栄は面影をとどめるのみとなっている。
郷土館の隣にある厚岸神社にも寄ってきた。徳内が北方探検の成功とアイヌ民族の教化を期して創建した神社だ。拝殿はコンクリート造りのものとなっている。厚岸総鎮守として、今でも氏子たちが手をかけているのだ。
徳内で共感するのは、北方探検にあたって、まず地元のアイヌと友達になったことだ。アイヌ語を学び寝食を共にし、その生活に溶け込もうとした。惨状を見かねてはその改善に尽力している。
幕末に日本を訪れたシーボルトは徳内を「東洋一の探検家」と賞賛し、歌人斎藤茂吉も「最上川 ながるるくにに すぐれ人 あまた居れども この君われは」と、最大級の賛辞を惜しまない。徳内もこの厚岸で「よっしゃ、絶対択捉行ぐべ!」と、未知への憧れを燃やしていたのだろうか。
じっくり見てみたかったが、境内は烏の住処となっており、何かと荒井を威嚇してくるので、こりゃたまらんと退散した。
厚岸を出てまた海沿いに根室を目指す。途中、思わず琵琶瀬の展望台でDJEBELを止めた。霧多布の湿原があまりに見事に見えたのだ。真っ平らな湿原の中に、琵琶瀬川の姿がくっきりと浮かび上がる。おともは隣の売店で仕入れた北海道名物揚げ芋と鉄砲汁である。鉄砲汁とは根室名産花咲ガニ入りのみそ汁だ。道東名物で、カニの出汁が効いていて旨い。
海を見れば窓岩という奇岩がある。海水の浸食で穴が開いた岩である。かつては眼鏡橋のような形をしていたのだが、平成になってから地震で片方が崩れ、今の形になっている。霧多布は文字通り、霧の日が多く、この窓岩さえ見えないことも多いらしい。
途中、なぜか案内標識に「ムツゴロウ動物王国」の名前があったので、近くまで行ってみた。国王畑正憲のあれである。見学はできないが、柵越しに牧場を見ることぐらいはできた。海に面した牧場では馬が何頭も走り回っていた。
動物王国で飼ってるわけではなかろうが、帰り道、目の前にぬっとエゾシカが二頭現れ驚いた。エゾシカの余韻覚めやらぬところ、今度は道ばたからキタキツネがこっちを覗いていた。初めて見るキタキツネにさすが北海道と感心した。
根室に着いたのは夕方近くだった。街はどこかさびれていた。また、やたらとロシアの文字を見かける。案内標識から100円ショップ「ザ・ダイソー」の看板まで。ここはそれほどまでに異郷に近い、最果ての地なのだ。
根室支庁舎を写真に収めてから、日本最東端の鉄道の駅、JR東根室駅に行ってみた。東がつくだけあって根室駅より東にある。まるきりの無人駅で、単線のレールに簡単なホームがあるにすぎず、一日に停まる列車の数もそう多くない。利用客はおそらく、登下校する地元の中高生が中心だろう。
しかし駅の前には「日本最東端の駅ひがしねむろ」の立派な標柱が立っている。鉄道マニアや端っこマニアにとってはたまらない聖地の一つなのだ。もちろん荒井は端っこマニアなので「こごが一番東の駅だ!」と、何もない東根室駅に大はしゃぎするのであった。
根室まで来た勢いで、納沙布岬まで行ってしまったが、夕方だったのでめぼしい施設は開いてなかった。翌朝改めてじっくり見物することにして、いったん根室市内に戻った。
根室に来た目的はもう一つある。根室名物「エスカロップ」を食べるためである。ところがどこで食べられるか分からず、とりあえず「花みち」というトンカツ屋に入ってみたが、メニューになかった。そのまま出るのもなんだった。夕食はエスカロップにするつもりが、そこのカツカレーになってしまった(旨かったけど)。
「花みち」のおやじさんの推薦で、その日は根室市中央のときわ台公園にテントを張ることにした。公園は夜になってもいろんな人が来る。しかし北海道の皆さんは旅人慣れしているのか、別にとがめられることもなかった。
注1・「和商市場」:JR釧路駅西側にある市場。もとは行商人の市場として発足した。名前は「皆で和して商いをする」という理念に由来する。最近は白飯にめいめい好きな具を載せて作る「勝手丼」が人気を集めている。貧乏旅人を見かねた市場の魚屋さんが、白飯の上に海産物を少しずつ載っけてあげたのがはじまりとか。
北海道ではキタキツネに遭遇することがたまにあります。確かにかわいいのですが、飽くまで野生動物です。油断すると皮製品や食料を荒らされます。キタキツネがテントに穴を開けて食料を奪っていったという話もあります。触ればエキノコックスの危険さえあります。見るだけにとどめましょう。
キャンプ場はどこにでも都合よくありませんし、雨がしのげる場所にテントを張りたいこともあります。そういうわけで、キャンプ場以外の場所で野宿することもあります。その場合、場所選びには細心の注意を払う必要があります。入門書に載ってるようなことですが「ここに張ってはいけない」という地理的条件を挙げておきます。
私有地は、持ち主の許しがあればもちろん問題ありません。