札幌での怠惰な日々

札幌の鐘

 朝から晴れていた。8時にARFを出発し、海沿いに札幌を目指す。留萌から札幌までは120キロほどの道のりで、崖にへばりつくような道が続く。このあたりはオロロンラインでも最後に開通したところで、難工事の末完成したという。

 石狩市から内陸に入り、ついに札幌に戻ってくる。それまでの寒さが嘘のように、市内は暑かった。
 まだ日も高かったので、札幌市役所の展望台に行った。市役所は19階ほどの建物で、屋上が展望回廊として開放されている。この前来たときは時間外で入れなかったのだ。
 展望台は近所のテレビ塔のそれよりやや低いが、無料の上に空いている。南には藻岩山、北には石狩平野。眼下には雪祭り会場で有名な大通りが見えた。この前「YOSAKOIソーラン」の会場となったところだ。藤谷さんも一踊りしてきたんだろうか。
 「YOSAKOIソーラン」は、92年に始まった比較的新しい祭りである。高知市の「よさこい祭り」をもとに、札幌の学生有志が中心となって創設したもので、参加者はソーラン節の一節を採り入れた創作ダンスを競い合う。今では本家高知をしのぐ規模に成長し、全国各地から見物客が訪れるようになった。「YOSAKOIソーラン」は町興しの好例として全国に伝播していったが、その一方で、祭りとしてのあり方に、異を唱える道民も少なくない。

札幌時計台
旧札幌農学校演武場こと時計台。見上げるような構図の写真が多いのには理由がある。写真は入場券から。

 ついでに時計台を見に行った。市役所のちょうどはす向かいである。札幌随一の観光名所だけあって、周囲には修学旅行の生徒達や、観光客が数多く、カメラ片手にうろついている。
 時計台の正式名称は「旧札幌農学校演武場」。そのとおり、入り口には「演武場」の懸額がある。今で言うところの体育館だ。2階建てで、1階は時計台や演武場を紹介した資料館、2階は催事用のホールになっている。建物は明治11年に建てられ、時計は3年後に設置された。時計は今でも現役で、その鐘の音は札幌の象徴となっている。時計台は、開拓時代の札幌の姿を今に伝える記念碑なのだ。
 ところがこの札幌時計台、旅人には「日本三大ガッカリ名所」(注1)の一つとして知られている。時計台そのものはそう大きなものでなく、しかも周りは都会的な背の高い建物ばかりであまり目立たない。さぞかしステキな立地のステキな建物を期待していた人は、その落差にがっかりするというわけだ。
 時計台の鐘が5回鳴った頃、再び道庁へ向かった。この前利用していなかった食堂で夕食にするためである。前回下見した時気になった「冷麺」を食べた。盛岡に住んでいたこともある荒井は、冷麺というと焼肉屋で出てくるような、ゴムみたいにコシのある麺にキムチをたっぷり入れた食べ物をまず思い出すのだが、こちらの冷麺はいわゆる冷やし中華だった。具はプレスハム、卵焼き、キュウリの細切りにキクラゲ、それに忘れていけない辛子と紅ショウガと、絵に描いたような冷やし中華だった。

 夕食後、いつもどおりのオートハウスに向かった。大阪さんやカールさんたちもいつもどおりである。ここ数日札幌は晴天が続いていたそうだ。その間、道東で凍えていたよと話したら、大阪さんに「オマエはアホや」と呆れられた。

羊蹄山一周後志銅像巡りツアー

 道東の寒さに参ったこともあり、2,3日オートハウスに連泊することにした。この日は素晴らしく晴れていたので札幌の少し西にある羊蹄山を一周してくることにした。
 国道230号線を西に走り、札幌奥座敷の定山渓を素通りする。やがて現れる曲がりくねった峠道を登り詰めたところが、札幌の裏玄関中山峠だ。天気がよかったので、羊蹄山がはっきりと見えていた。峠にはその通り「望洋中山」という道の駅がある。

 この羊蹄山の周囲には、変わった銅像が多数ある。この中山峠にも、峠を開いた僧侶(注2)の銅像が建っている。この銅像を皮切りに、羊蹄山一周銅像巡りツアーが始まった。
 まずは腹ごしらえだ。中山峠は北海道名物「揚げいも」発祥の地で、「望洋中山」や峠のドライブインでも大々的に売られている。小ぶりのじゃがいもに衣をつけて揚げたもので、三個一串で売られている。この揚げいもを、これまた北海道名物のガラナエキスで流し込む。ガラナエキスはコーラのような炭酸飲料だが、コーラとも風味が違う。

 峠を下ると留寿都村(るすつむら)がある。ここには野口雨情の童謡「赤い靴」にちなんだ女の子の銅像がある。留寿都と異人さんは一見関係なさそうだが、それが大ありなのだ。
 「赤い靴」が、アメリカ人の宣教師が日本人の少女を養女に引き取ったという実話を元にした童謡であることは知られているが、その少女の母親は、開拓農民として留寿都に渡っていたのだ。北海道の厳しい寒さは辛かろうと、少女は宣教師に託された。銅像には少女の名をとって「きみちゃん」という愛称まである。ところで実際のきみちゃんは、結核になり、アメリカに渡ることなく亡くなっている。

浪越徳治郎像
テレビなどでも有名だった浪越翁の像。調整中だったのか「押せば命の泉湧く」蛇口からは、水が出なかった。

 留寿都村の銅像はこればかりでない。近所にはなぜかあの指圧師、浪越徳治郎氏の銅像まである。国道沿いにある公園の駐車場わき、一目でわかるところに鎮座している。豪快な笑い顔と共に、両の親指を立て、両腕を前に突き出した姿の胸像だ。近づくと、なぜかウグイスの鳴き声とともに「指圧の心母心。押せば命の泉湧く。ハァーッハッハッハー!」と、浪越氏の肉声が自動で流れる。しかも台座はタッチスイッチ式の蛇口を三つも備えたハイテク仕様だ。押せば命の泉湧くということか。ハァーハッハッハー。
 きみちゃん以上に「なぜ?」と思ってしまうが、これにもきちんとした理由がある。解説によれば浪越氏は香川県の生まれなのだが、親の入植に伴い留寿都に渡ってきた。やがて母親が寒さで体をこわし、その看護をするうちに編み出したのがかの浪越式指圧療法だったのだ。「母心」とはそういう意味だった! 驚きの発見である。

羊蹄山と熱唱細川たかしの像
衣装に身を包み、マイクを持った細川たかしの像。ステージは真狩川と羊蹄山。

 次に向かったのは真狩村だ。歌手細川たかしの出身地として知られている。ここにもおもしろ銅像が建っている。その名も「熱唱細川たかしの像」。村の至る所に案内看板が立ち、大型バスが乗り付けるほどの名所である。村を流れる真狩川のほとりにあり、あたりには「たかしせんべい」を始めとするたかしグッズを売る店まである。
 銅像は平成6年、開村100周年時に、村の功労者を顕彰するということで、建てられたものらしい。台座には細川たかしの手形がついており、「細川たかしさんの手にあなたの手を重ねてください」という解説のとおりにすると、細川たかしの代表曲が聴けてしまう。曲は「心のこり」「北酒場」「浪花節だよ人生は」「矢切の渡し」「待宵草」の全5曲。見に来た人みんな面白がって試すものだから、たかし像は歌いっぱなしだった。

ニセコ町役場銘板
カタカナ地方自治体の一つニセコ町。カタカナの地方自治体は日本でも例が少ない。

 たかしの次はニセコ町だ。昼だったのでJRニセコ駅併設の喫茶店「ヌプリ」で、ジャスミンティととびっ子丼の昼食にした。とびっ子丼は、羊蹄山周辺特産の山芋と、とびっ子がたっぷり載ったどんぶりで、山芋のサクサク感ととびっ子のプチプチ感が楽しめる。
 このニセコ町、全国的に珍しいカタカナ入りの地方自治体である。珍しいので役場をしっかり写真に収めてくる。そして倶知安町(くっちゃんちょう)で、後志(しりべし)支庁舎を見てきた。こちらも閉まっていたが、できたばかりのこぎれいな庁舎だった。

 支庁舎から戻る途中、道ばたでまた変わった銅像を見つけた。軍服を着てスキーをはいて、竹竿を持って立っているおっちゃんの像で、スキーが長すぎて台座からはみ出しているのがやたら目立つ。
 このおっちゃんはレルヒ中佐だ。オーストリアの武官でスキーの名人、日本スキーの祖と仰がれる人物である。明治末期に日本にやってきて、各地で近代スキーを教授した。ある時倶知安で公開練習を開き、その集大成として一団を率いて羊蹄山をスキーで登り、滑ってくるという快挙を成し遂げている。

レルヒ中佐の像
テオドール・フォン・レルヒ中佐。竹竿は今でいうストック。像の建つ倶知安町はスキーの町としても有名だ。

 銅像以外にも、羊蹄山の周辺は湧水に恵まれている。長年かけて羊蹄山に濾過された地下水が、山麓随所から湧き出ているのだ。真狩村には水汲み場があって、多くの人がポリタンク持参で水を汲みに来ていた。「ヌプリ」では羊蹄山の湧き水でハーブティを淹れている。その羊蹄山の湧水の代表が、京極ふきだし湧水である。1日約8万トンもの水がこんこんと湧き出しており、あたりは親水公園として整備されている。水汲み用に、湧水口から竹の樋が渡されているのだが、流れる水の勢いは相当なもので、手ではうまく掬えない。水は冷たくまろやかで、くせのない味だった。

 羊蹄山は、一周してどの方角から見ても、ものの見事に盃を伏せたような形をしている。裾野に広がるじゃがいも畑には、ぽつぽつと紫色の花が咲き始めていた。また中山峠を通ってオートハウスへと戻り、羊蹄山一周、やけに充実したツアーは無事終了したのだった。


脚註

注1・「日本三大ガッカリ名所」:知名度の割にたいしたことがない、期待を裏切られたと言われることが多い名所日本三傑。札幌時計台・高知はりまや橋・沖縄守禮之門。このうち時計台とはりまや橋は確定だが、三番目は他にも京都タワー、名古屋テレビ塔、日光東照宮眠り猫、長崎オランダ坂、福井県東尋坊などの候補地がしのぎを削り合っており、一定していない。ついでに、旅人の間には「三バカユースホステル」というのも伝わっている。

注2・「峠を開いた僧侶」:現如上人。真宗大谷派東本願寺の僧侶。1870年、明治政府の命を受け、教徒を動員して中山峠の工事にあたった。


荒井の耳打ち

野宿のやりかた4〜道の駅

 公園よりも実用性が高いのは、日本各地にある「道の駅」です。運転中の休憩所として設けられた場所ですので、トイレや水が確保されています。敷地も広く、目立たずテントを張れる場所も探しやすくなっています。何より施設が整っているのに無料のため、旅人の間では、公園以上に人気があります。特にPキャン、駐車場で車中泊をする自動車旅の方にとっては、最高の野宿場所となることでしょう。ただし、場所によっては、珍走団のたまり場になってることもありますので、注意が必要です。
 施設の整った道の駅ですが、中には手洗い場で髪を洗ったり、駐車場でバーベキューをする人もいたそうです。中には身障者用トイレに泊まった強者もいるそうで...飽くまで良識の範囲内で利用すべきです。こんなんで夜間出入り禁止になったらたまったものではありません。
 ちなみに荒井は道の駅でも不安だったので、野宿に使うことはありませんでした。

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