銘水の町と謎の奇習

良寛の里

日本一周のライダー氏
鴻ノ瀬鼻で出会った旅人。彼も無事に日本一周できただろうか?

 小佐渡を縦断して、佐渡に渡ってきた赤泊港に向かう。運良く始発のフェリーに間に合い、乗船手続きを済まし一息ついていると、鴻ノ瀬鼻と大野亀で会った日本一周中の単車乗りさんとまた会った。彼もこの便で佐渡を出るのだ。
 出航するともう後戻りはできない。それだけに、二周もした佐渡であっても、もっと廻っとけばよかった、もっと廻りたかったと名残惜しくなる。
 日本一周中の彼は、鴻ノ瀬鼻キャンプ場を拠点に一週間ほど島を走り廻っていたそうだ。「雨続きでよくよく出歩けなかったんだけど、毎晩、地元の人が地酒や海の幸を差し入れしてくれたんで、おいしい思いをさせてもらいましたよ。それに一週間も張りっぱなしにしていたから、テントにカビが生えてきましたよ!」と笑顔でキャンプ場での様子を教えてくれた。鴻ノ瀬鼻に宿泊しなかったのが今になって悔やまれる。
 やがて船は寺泊港に着いた。彼はこれから秋田の大曲市に花火大会を見に行った後、9月に北海道を一周し、それから南を目指すと言っていた。お互い旅の無事を祈りつつ、別々に走り出す。
 これからの旅は、おおよそ時計回りに本州以南を廻る形になった。さしづめ寺泊港は起点である。次にここに来るときこそ、日本一周達成の瞬間となるのだ。

分水町良寛史料館
分水町良寛史料館。遺墨や五合庵など、町には良寛和尚の遺産が数多く残る。写真は史料館小冊子から。

 久々に「セブンイレブン」のスープスパゲティで昼食にした後、先日見学できなかった分水町の良寛史料館に行った。良寛和尚は江戸時代後期の高徳の僧で、和尚が修行をし、また腰を落ち着けたのがここ分水町なのだ。伝記は読んでいたが「子供好きだった」「字がうまかった」「縁の下に生えてきた筍のため床板を外してやった」といった逸話こそよく覚えているものの、具体的にどんなことをしたかと訊かれるとそれがよく判らない。改めて史料館を見に行こうと思ったゆえんである。
 史料館の展示は、和尚の遺した書が中心だ。和尚は歴史的に何か大きなことをするでもなく、托鉢や修行をしながら書をしたため、詩を作りといった生涯を送っていたらしい。その人柄や生き様が人々の共感を呼び、今に至るまで伝えられているのだ。

弥彦神社
越後一の宮弥彦神社。神武天皇に神剣を奉じた高倉下(たかくらじ)こと天香具山命を祀る。命は越後開拓の祖とされる。

 続いて越後一の宮弥彦神社(いやひこじんじゃ)に参拝に、隣の弥彦村(やひこむら)に向かう。弥彦山の東麓にある境内は大きく立派なものだった。門前街には温泉も湧き、みやげ屋の他、温泉旅館も目立つ。参拝客も多い。境内は大木の森に覆われていた。一の宮に限らず、神社の境内には、斧を入れない森がそのまま残っていることが多い。鎮守の森というものだ。

五合庵
五合庵。大正3年に再建されたものだが、良寛和尚の質素な暮らしが偲ばれる。

 再び分水町に戻り、立ち寄り湯「てまりの湯」に入る。名前は良寛和尚が得意だった手鞠にちなんでいる。こぢんまりとした風呂場で、湯はぬるめだ。
 近所にある五合庵も見物した。良寛和尚が寝起きした草庵だ。かつて庵主だった僧が、国上寺(こくじょうじ)から一日玄米五合の支給を受けて暮らしていたのがその名の由来となっている。五合庵はその国上寺の境内、ちょうど「てまりの湯」の裏山の中腹にある。
 国上寺は大般若会の最中で、堂宇からは坊さんの唱える聲明(しょうみょう・注1)が聞こえてきた。境内は水子供養の風車が多数供えられており、風にくるくると回っていた。一隅には、呪いで鬼になってしまった酒呑童子が、水鏡で自分の姿を確かめたという伝説の残る井戸もある。
 五合庵はそうした境内の奥にある。四畳半ほどの居室と簡単な厠があるぐらいの、粗末な茅葺き小屋である。とはいえ良寛和尚のこと、こうしたところでも、それなりに心地よく、楽しく暮らしていたのだろうなと思った。
 旅先では、たまたま見かけてこうした史跡を見学することがよくあった。本などでその名前は知っているものの、具体的な場所までは知らないものだ。史跡は全く身近なところに埋もれていることも多く、見かけると「あぁ、こんたどごだったなが!」と驚くこともしばしばだった。

 その後日本海沿いに新潟市に出て、そのまま国道49号線で内陸に向かった。水原町(現阿賀野市)のトンカツ屋でカツ丼の夕食にしてまたしばらく走る。この日は水原町の隣、笹神村(現阿賀野市)の郷土資料館脇にテントを張って寝た。

蒲原郡

 8月もお盆を過ぎると日が短くなってくる。6月の東北なら、朝の四時半にはすでに明るくなるし、夜も八時頃までは日が残っている。ところが今や四時半はまだ暗く、七時には日も暮れてしまう。秋が近づいているのだ。旅に出るとどういうわけか、寝起きが日の巡りと一緒になってくる。朝の四時頃目が覚めたものの、結局起きたのは五時半だった。
 今日一番の目的は新潟県庁訪問だ。笹神村から県庁所在地新潟市までは30キロと離れておらず、走ればすぐの距離なのだが、「県庁食堂で食事をする」という決まりを課しているため、食堂が開く時間まで相当に時間が余ることになる。たびたび寄り道しながら、のんびり新潟市を目指した。
 新潟県もこのあたりは田んぼが多い。荒井の地元山形も田んぼばかりだが、ここもさすが日本有数の米どころだ。「あられ・おせんべい」で有名な亀田製菓の本社は、近所の亀田町(現新潟市)にある。亀田町の煎餅屋だから亀田製菓というらしい。煎餅屋の背後には一大穀倉地帯が控えている。

新潟県庁
新潟県庁。18階建ての新しく巨大な庁舎。遠くからでもよく見えるのだが、着くまでの道がややこしい。

 県庁所在地には港町が多い。新潟市も信濃川河口に開けた大きな港町で、日本海の向こう、ロシアや韓国からの船も数多く訪れているようだ。周囲には化学工場など建ち並んでいる。関越自動車道一本で関東まで行けるという地の利もあるのだろう。「こりゃ酒田港どは比べものになんねよなぁ。」と一人納得するのだった。
 新潟県庁は信濃川のほとりにある。最上階は展望台で、新潟市の街並みや日本海が眺められる。食堂や売店といった施設は建物の下の方にまとまっている。ここの食堂で食べたのは「お好み定食A」こと日替わり定食だ。その日の中身はなすと豚の中華あんかけとコーンコロッケ、もやしとホタテと胡瓜のおひたし、シューマイ、みそ汁とご飯である。米はやっぱり新潟米なんだろう。その日は品揃えされていなかったが「コシヒカリ定食」なんてものまである。さすが米どころだ。

良寛牛乳
「良寛牛乳」。新潟県庁の自販機で発見。なぜに和尚の名前が。良寛コーヒーが特に気になる。

 海沿いに北を目指す。新潟市内で道に迷い、脱出するのにえらい苦労した。市街地を出ると、左手に延々と海が広がった。道ばたには海水浴場と海の家がちらほらと見受けられたが、お盆を過ぎたこともあり、客はまばらだった。途中笹川流れという景勝地を通る。険しい断崖が見所のようだが、道路からではいまひとつだった。海から眺めた方が良いとのことらしい。
 地元山形に入り、買い出しを済ませたところで、鶴岡市の湯野浜温泉に近い七窪キャンプ場に泊まることにした。ここは山形一周でも利用したところで、住宅地にほど近い松林の一角に、水場と手洗いがあるきりという小さな無料キャンプ場だ。気をつけていないと見落としてしまうような場所なのだが、すでに先客がいた。
 テントを張り終え、夕食を作ろうとした途端いきなり大雨になった。これではガソリンストーブも使えない。新潟県庁売店で買ったお菓子で空腹をごまかしつつ、雨が止むのを待ってみたが、結局雨は降り止まず、仕方なくテントの中でガソリンストーブを使って、夕食の麻婆春雨を作る羽目になってしまった。

六十里越

 朝、テントを畳みながら、起き出してきた先客の方とあれこれおしゃべりをした。京都から来た単車乗りさんで、しばらく東北を廻っていたそうだ。ちょうど東北を出るところで、帰りに寄りたい場所があると言っていた。「これから乗鞍スカイラインに行こうと思ってるんですけど、付近の地図を持ってませんか? …ありませんか。地図を探して場所なり確認しないとなぁ。」 

 この日は山形県の内陸、村山地方で洗濯や補給といった雑用を片づけ、またここに戻ってくることにした。曇りがちの空の下、彼と別れて走り出すと、じきに雨が降ってきた。

 国道112号線の旧道、六十里越街道で村山地方に向かう。六十里越は山形県の海側庄内地方と内陸村山地方を結ぶ道として、古くから発達した道だ。庄内側の入り口には、古い作りの民家が建ち並ぶ田麦俣(たむぎまた)集落や、七ツ滝と言った名所名勝がある。かつて出羽三山参詣の道として栄えたが、今やその役割を国道112号線と山形自動車道に譲り、通る人もまばらである。
 この道の存在は知っていたが、これまで来る機会がなかった。道は月山と湯殿山の南側を越える山岳道路で、山間を縫って走っている。時折深い谷や山々、緑のトンネルを見ながら、のんびりと走っていった。秋になると紅葉が特にきれいらしい。
 弓張平で国道112号線と合流したところで、即座に県道に入り、西川町の大井沢へ向かう。大井沢は朝日連峰の懐に抱かれた山間の集落だ。山形有数の豪雪地帯でもあり、冬になると大雪に閉ざされる。自然の豊かなところで、熊もよく出没するとか。

地蔵峠のお地蔵様
地蔵峠のお地蔵様。「地蔵峠」という名前は、日本で一番多い、峠の名前らしい。

 地蔵峠と山毛欅峠(ぶなとうげ)を越えると、朝日川渓谷に出る。朝日川渓谷は山形の母なる川、最上川の支流の一つで、山形でもお気に入りの場所の一つだ。
 朝日川渓谷に来たのはこれが初めてではない。ちょうどこの2年ほど前、まだ勤め人をしていた頃、気晴らしを兼ねた日帰りツーリングでたまたま訪れた。深山幽谷、清流のありさまに「山形さこんた場所があったなが!」といたく感動したのを覚えている。あの頃は「いづがこんな道ば思う様走っでやっつぉ!」と日本一周に憧れていた。今や同じ道を日本一周のために走っているのだと思うと、改めてうれしくなってきた。

ぬーぼう
「ぬーぼう」。地元村山地方では比較的よく知られたラーメン屋。

 昼食は久々に、河北町のラーメン屋「ぬーぼう」で食べることにした。この「ぬーぼう」は勤め人をしていた頃よく通っていたラーメン屋で、たまに変わったラーメンを出す。この日は夏季限定品「タンドリーチキンカレー冷麺」なんて妙な献立があったのでそれにした。ヨーグルトにつけ込んで焼いた鶏モモ肉の薄切り、レタスとトマトが麺の上に載っていて、それにカレー風味のタレとマヨネーズがかけ回されているという冷やし中華で、食べるときはさらに粉チーズをふりかける。訳のわからない冷やし中華なのだが、味は存外に整っていた。
 河北町から天童市に出たところで、コインランドリーで洗濯をし、DJEBELのオイル交換をし、米を補充しておく。「マウンテンゴリラ」にも寄って、ガソリンストーブ用の白ガスも補充しておいた。
 用事が済んで庄内に戻る前に寒河江市の道の駅「チェリーランド」で、アイスクリームを食べていく。このアイスは農協で作っているもので、道の駅の名物だ。味も日替わりで10種類ほどが用意されている。種類はさくらんぼやごま、バニラといったものから、わさびや米といったイロモノまで様々だ。客はその中から好きなものを二つ選んでコーンに盛ってもらう。荒井もたまに食べに来るのだが、毎度変わり種ばかり選んでいる。この日食べたのは新発売のとうもろこし味と唐辛子味だったが、思ったよりも旨かった。
 国道112号線で再び庄内に戻る。地場のスーパー「主婦の店ふ〜しゃ」で、夕食用にボンカレーと惣菜の唐揚げを仕入れる。加茂坂峠を越え、再び七窪キャンプ場にテントを張ったところで米を炊き、唐揚げカレーで夕食にした。
 夕食を食べ終わり、あたりも暗くなってから、単車の旅人が来る気配がした。そういや今日も先客がいる。小さなキャンプ場だが、結構知られたところなのだろうか。


脚註

注1・「聲明」:一言で言えば「歌」。仏教の経文に節を付けて唱えたもの。音階や唱法は西洋音楽のそれとはかなり異る。


荒井の耳打ち

テントの中でストーブを使うということ

 自炊で食費を浮かせられたり、外でご飯を作って食べる楽しさが味わえたりと、ストーブこと山登り用の携帯コンロは貧乏旅人の強い味方ですが、一方で使い方を誤ると非常に危険なことも知っておかなければなりません。
 実はテントの中で使うというのはその一例で、一酸化炭素中毒や、火事の恐れがあります。基本的にテントの中で火を使ってはいけません。雨などで止むに止まれず、テントの中で使う場合、燃えやすいものを遠ざけるのはもちろんのこと、テントの換気口を開け、いざというときのためにテントを切り裂いて脱出できるように刃物なり用意しておき、しかも点火するときはテントの外で火をつけ、火力が安定してから中に持ち込むといった具合に、細心の注意を払わなければなりません。
 ストーブに慣れた人でさえこれほど注意しなければならないのですから、心配な人は使わない方が賢明です。この時は何もなかったのですが、気疲れするので、その後テントの中でストーブを使うことはありませんでした。

御朱印

 荒井は一の宮に参拝した記念として、由緒記をいただいてましたが、御朱印をいただくのもよい記念になるでしょう。御朱印とは参拝に対し、神社が感謝の印として与えるはんこですが、押してもらうための御朱印帳と、300円ほどの初穂料が必要となります。一の宮巡拝用の御朱印帳もありますので、一の宮巡拝をしようというのならば、まずは最初に行った一の宮で、それを手に入れることをおすすめします(3000円ほど)。確実に御朱印をいただくためには、前もって神社に問い合わせておく方がよいでしょう。

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