銘水の町

 酒田市から竜飛岬までの日本海沿いの海岸線は、北海道に行く際あらかた通っているのだが、あの時は悪天候で何かと思うに任せず、改めて通ることにした。天気は昨日と変わりなく、降ったり止んだりを繰り返した。海沿いの道に出て北を目指すが、風に煽られ何度もDJEBELが道路の中央線に寄りそうになり、気をつけながら走った。何度走っても雨の日は全く嫌なものだ。
 秋田県に入ったところで、象潟町(きさかたまち・現にかほ市)の蚶満寺(かんまんじ)に寄った。象潟は「おくのほそ道」で松尾芭蕉一行が「雨に西施がねぶの花」の句を残したことで有名で、蚶満寺の名も「おくのほそ道」にうかがえる。その頃の象潟は文字通り「九十九島」こと大小とりどりの島が浮かぶ水潟(みなかた)を抱え、その多島美は松島に比肩するものだったという。ところがその後地震による隆起で潟はなくなってしまった。かつての潟は水田となり、島は田んぼの合間にこんもりと盛り上がる丘となった。皐月(さつき)になり、田んぼに水が張られると、かつての九十九島の姿を偲ぶことができるそうだ。山門から田んぼの方を見てみれば、なるほど、そこかしこに小さな丘が浮かんでいる。葉月の雨に「西施(せいし・注1)の悩ましい顔でも思い浮かべろどいうごどが?」と一応、一人悪態をついておいた。
 象潟町は「おくのほそ道」つながりで、これまた芭蕉が訪れた松島を抱える宮城県の松島町と「夫婦町」の提携を結んでいる。芭蕉はさしづめ仲人だ。

白瀬南極探検記念館
白瀬南極探検記念館。建物は氷山と探検隊のチームワークを表現したもの。写真は小冊子から。

 金浦町(このうらまち・現にかほ市)で、前から気になっていた白瀬南極探検記念館を見学した。日本における南極探検家の先駆け、白瀬矗(しらせのぶ)中尉の業績を紹介する施設で、白瀬中尉はここ金浦町の出身なのだ。展示品には白瀬隊が南極探検をしたときに使った寝袋・テント・防寒服といった装備もあり、なかなか見応えがある。この時はたまたま企画展で、同期のイギリスの南極探検家シャクルトン卿の探検(注2)を紹介していた。
 金浦町から秋田市に向かう。先日利用し損ねた雪辱を果たすべく、秋田県庁食堂で昼食にした。県庁食堂にしては珍しくセルフサービスではない。食券を買って席に着いていると、厨房の方から料理を持ってきてくれる。料理が盛られた皿には秋田県の県章が入っていた。注文した焼肉定食を食べながら「これで秋田県庁でも本懐ば遂げだな!」と一人喜ぶ。ちなみに食べたのはロース焼肉定食で、野菜炒めの上に焼いたロースが3枚乗っかっているという豪華仕様だ。

 国道13号線で内陸に入る。秋田内陸巡りの始まりである。今回の日本一周は、北海道でもそうだったが、時折内陸に入り一巡りしたら、同じところから海沿い一周を再開するといった具合に、海沿い一周と内陸巡り、それに島巡りを加えたものになっている。
 最初の目的地は六郷町(現美郷町)だ。奥羽山脈裾野の扇状地に開けた町で、町の随所から清冽な水が湧く湧水の町としてその名を売っている。町の水全てを湧水でまかなえるほどで、町には上水道施設というものがない。こうした湧水群は町ぐるみで維持と管理がされており、町の宝となっている。六郷町の湧水群は日本百名水の一つになっており、水を利用した名産品も多い。もちろん湧水は町民のみならず、訪れた人が誰でも気軽に味わえるようになっている。

ニテコ清水
ニテコ清水。「水のたまる低地」という意味のアイヌ語「ニタイコツ」が語源らしい。榎本武揚や明治天皇も賞味されたそうな。

 まずは湧水を飲んでみる。清々しく非常に飲みやすい。次に名産品の一つ「ニテコサイダー」を飲む。町を代表する湧水の一つ、ニテコ清水で作ったサイダーで、ずんぐりした透明なボトルに、レモンの絵と一緒に「NITEKOシトロン」と書かれた古めかしい意匠のラベルが貼られている。炭酸は弱めで刺激はないが、その分清水のすっきりした飲み口が生きている。
 町の中央にある町興しプラザ「湧太郎」(ゆうたろう)にも行ってみた。白と黒を基調としたこじゃれて落ち着いた建物で、中には酒蔵を利用したホールの他、みやげ屋、料理屋、湧水の資料館などが入っている。資料館には湧水にまつわる展示の他、町の民俗行事の紹介なんかもある。
 六郷町の名物は湧水だけではない。冬には竹竿を打ち合って豊作を祈る竹うち、夏にはかけ唄大会が開かれる。このかけ唄大会が、ちょうど二日後に開かれるとのことらしく、興味が湧いたので、しばらく秋田に滞在して見物することにした。
 その日は近場にキャンプ場があるというのであてにしていたのだが、いざ現地に着いてみると野宿に使えそうになかったので、改めて場所を探すことになった。とりあえず買い出しを済ませ、近所の中里温泉に入って気を落ち着ける。たまたま隣にあった農協の集配センターが目に入り、そこにテントを張る。やれやれと安心したところで、いぶりがっこと鯖缶で夕食を済ませて寝た。

法体の滝

ユウちゃん
六郷町のマスコットキャラクターユウちゃん。町と縁のある漫画家植田まさし氏の手になるもの。コボちゃんの親戚。

 農薬散布用ラジコンヘリのエンジン音で目が覚めた。空は久々に晴れ上がり、朝早くから農作業に忙しいらしい。テントを畳み、国道13号線で秋田県の雄勝町(現湯沢市)に出る。そこから国道108号線に乗り換え、院内銀山跡を見に行った。銀山跡は道から少々それた山の懐にある。

御幸坑道
院内銀山御幸坑。明治天皇秋田行幸の際、この坑道を視察したのが名の由来。その日9月21日は日本の鉱山記念日となっている。

 院内銀山はかつて日本第4位の産出量を誇った銀山だ。佐渡の金山同様、江戸時代初期に採掘が始まり、昭和30年前まで採掘されていた。佐渡金山が観光地として手が入れられ、今でも観光客が絶えないのに対し、こちらは訪れる人もおらず閑散としていた。古い坑道の入り口は閉鎖され、人を拒み続けて久しいらしい。技師の住宅跡と子供達が通った小学校跡は土台の石組み以外残っていない。そこにあるのは近代の遺跡だった。圧巻は、銀山で働いた名もない人々の墓が無数に並ぶ墓地だ。おびただしい数の墓石の群れは、閉山された今なお一つの村を作っているようで、往時の繁栄を偲ぶには十分すぎるほどだった。一角では銀山鎮護の金山神社が山を静かに見守っている。
 今となっては杉と羊歯(しだ)に覆われ、遺構が残るのみとなっている。人の手が入らなくなってから50年そこそこ。人間の営みとはあらかたこんなものなのだろうと思ってみたりもする。

法体の滝
法体の滝。鳥海山の水が流れる壮麗な瀑布。

 銀山を出て、笹子峠経由で法体(ほったい)の滝を見に行った。法体の滝は鳥海山の東側にある滝で、日本百名瀑にも選ばれている。展望台からは豪快かつ壮麗な姿が一望できる。ここ数日続いた雨で滝は水量を増し、離れたところからでもその轟音が聞き取れるほどだった。滝の周辺は園地として整備され、テントも張れるようになっている。一角には不動明王の祠が建っていた。最近できたばかりで真新しい。滝には不動明王が祀られていることが多く、その名を戴く滝も数あまただ。
 園地の入り口にある食堂「すえひろ」でラーメンの昼食にした。こういうところの料理はあまり期待できないのだが、それが予想を裏切るよさだった。具に炒めた蕗と鶏肉の八幡巻きが乗っかったラーメンで、きゅうり漬けときんぴらごぼうの小鉢まで付いてきた。
 滝を後にして、県道70号線で矢島町(現由利本荘市)に出た。ここは由里高原鉄道の始発駅もあり、街並みもどこか歴史を感じさせる。役場で一息ついた後、県道と国道を乗り継いで東由利町(現由利本荘市)に出た。白沢峠を越え、保呂羽山(ほろわやま)の南で東に折れ、秋田随一の大河雄物川(おものがわ)を渡り、横手市に出て、国道13号線で六郷町に戻った。

 六郷町は年に一度の夏祭りの最中だった。通りには露店が建ち並び、役場や神社の広場では歌謡ショーなど開かれていた。中心部に近い諏訪神社(すわじんじゃ)では、中高生らが何人か、奉納する神楽の練習をしていた。
 この日の夕食は「湧太郎」内の、マグロが売りの創作料理屋「源八亭」(げんぱてい)で、マグロの血合いカルビ焼き定食を食べた。この店が料理の味はもちろんのこと、応対も良くていいところだった。
 夜の九時近くまで、祭りに沸く六郷町を見物してから、昨日と同じ、農協の集配センターにテントを張って寝た。

奇習かけ唄大会

六郷町役場
六郷町の役場。ここの駐車場も祭りの会場となる。

 夜は寒さで何度か目が覚めた。盆が終わると東北地方は急に冷えてくる。六時前には撤収し、とりあえず走り出す。今日はかけ唄大会があるのだが、夜になってからの開催なので、それまで大幅に時間が余ることになる。そこでこの前雨模様で満喫できなかった男鹿方面に足を伸ばすことにした。日本晴れというほどではないが、さりとて雨が降る気配もない。
 秋田市を抜け、海沿いの道で再び男鹿市に向かう。男鹿半島は何より、鬼の扮装をした人が「泣く子はいねぇが〜! 悪い子はいねぇが〜!!」と、家々に押し入って廻るという大晦日の民俗行事「ナマハゲ」で有名だ。時期は夏だったのでナマハゲにはまだまだ遠いが、何かないかなと、半島基部にある男鹿市役所に寄ってみると、ホールの中には簑をつけた青鬼と赤鬼こと、巨大なナマハゲ人形が一対置いてあった。
 このナマハゲというのは「なもみ剥ぎ」が語源らしい。なもみとは火にあたっているとすねや腕などにつく火形のことだ。これができるのは火にあたってばかりの怠け者ということで、なもみを剥いで懲らしめてやろうというのがナマハゲの元だそうな。

 この前は見るだけで寄らなかった潮瀬崎に行く。男鹿半島の南にある岬で、砂と岩でごつごつした磯である。特撮映画の怪獣ゴジラのように見えるからということで名付けられた「ゴジラ岩」なんて奇岩があるのだが、どのへんがゴジラなのかはよく判らなかった。
 次に向かったのはこの前来た入道崎だ。ここには大食堂併設のみやげ物屋が数件あり、どの店で食べようかと、みやげなど見物しながら廻っていると、「なまはげの○んこ」なる、長さ1メートルほどの巨大な麩菓子を発見した。何のつもりなのやら...

なまはげの○んこ
手作り麩菓子「なまはげの○んこ」。○にはいったい何を入れろというのか。

 昼食はこの食堂のどこかで食べるつもりだったが、思わしい店もなく、少し戻って漁港のそばにある、漁師直営の食堂「雄和丸の店」で刺身定食を食べた。
 刺身を食って満足したところで、六郷町に引き返す。帰りは男鹿半島の北側を通っていったのだが、その途中、消防団が大勢海岸を歩き回っているのを目撃した。防災ヘリまで出動している。「何かの演習ですか?」と尋ねてみると、「このあたりで行方不明者が出て、捜索活動の最中なんですよ。」という答えが返ってきた。ところが深刻な事態の割に、皆さんのんきで妙に緊張感がない。それなりに心配はしているようだが「テトラポットの隙間に引っかかったんじゃないか?」とか「沖へ流されたんだろう。」とか散々なことを口にしていた。行方不明になるとこんな具合に捜索されてしまうらしい。嫌だったら気をつけることだ。

 六郷町に着いたのは夕方六時頃だった。今日も祭りで、町の真ん中は人も多くにぎやかだ。「湧太郎」わきの駐車場にはステージがしつらえられ、模擬店も出ていた。そこでさっそくアイスと焼そば、それにニテコサイダーを買い食いする。もちろんこれだけでは足りないので、さらに「湧太郎」内の喫茶店「古」(いにしえ)で、カルボナーラと水出しコーヒーを注文する。この水出しコーヒーが絶品だった。水のよさもさることながら、水で長時間かけて抽出するだけあってえぐみが全くない。腹ごしらえも済んだところで、かけ唄大会の会場、町の中央にある熊野神社に向かった。お神楽の諏訪神社からそう遠くない。

かけ唄大会
奇習「全県かけ唄大会」。六郷町付近の町村にもこうした行事は残っているらしい。

 かけ唄とは一種の歌合戦だ。参加者は二人一組となって、民謡「荷方節」に即興の歌詞を載せ、丁々発止の掛け合いで歌のやりとりをする。歌う内容は時事問題、艶話、バカ話、内輪ネタなど様々。審査員もいて、歌のやりとりを吟味しては優劣を競う。この大会の一番変わったところは、深夜十一時頃から翌日の早朝まで、夜通しで歌の掛け合いを続けるところだ。毎年夏祭りの主な行事として開催され、この年でちょうど50周年を迎えていた。境内には50周年記念の石碑まで建てられたが、おそらくこうした遊びはそれ以前からあるものだろう。夜通し歌のやりとりをして楽しむという行事は、上代の歌垣(かがい・注3)の姿を色濃く残すもので、それは珍しいものらしい。山形県のすぐ隣とはいえ、旅をしなければ決して知ることもなかった慣わしに、自分の住む国の奥深さを思い知った。
 境内は満員御礼で、皆、今か今かと大会が始まるのを待っていた。荒井も模擬店で焼き鳥やら仕入れて飲み食いしながら待っていると、ふと初老の紳士に話しかけられた。彼は湯川さんという方で、町内のスーパー「アックス」の社長さんであった。「会社では多くの方々のおかげをもらってますからね。いろんな形で人に恩返しをしたいと思っているんですよ。」と仰っていた。その一環が旅人に親切にするということで、以前、九州から来た徒歩旅人を家に泊めたこともあるそうだ。見るからに旅人の格好をしている荒井に話しかけてくれたのもそういうわけで、よかったら明日風呂にでも入りに来てはどうだいとすすめてくれたり、フランクフルトなどご馳走していただいた(湯川さんありがとうございます。とうとう日本一周しましたよ!)。

 そうこうしているうちに夜も更け、かけ唄大会が始まった。荷方節に乗せて即興の歌詞の応酬が始まる。荷方節はゆっくりのんびりとした節なので、民謡を聞き慣れていない荒井には、詞がなかなか聞き取れない。大入りの観客もそれは同じのようで、しばらくするとあれほどいた観客は次第に少なくなっていた。祭りの主な行事ということで開始を見届け、何曲か聴いたら家に帰るのが常なのだろう。
 荒井はその場にいた。朝までやっているわけだから、朝までいる分には問題ない。一応一部始終を見ておきたかったが、男鹿に行ってきたのが堪えたようで、いつの間にか眠ってしまい、度々目が覚めたものの、気が付けば空もようよう明るくなっていた。廻りの観客はまばらになっていたが、それでも熱心な方々20人ほどが見物していた。
 このかけ唄大会、参加者も見る方もほとんどが中高年で、若い人が全くいない。皆さんの元気さには目を見張るばかりだが、どうやって将来に受け継いでいくのか、行く末がやや、気にかかる。


脚註

注1・「西施」:古代中国春秋時代(BC770〜BC403)にいたという絶世の美女。王様を腰砕けにして、一国を滅ぼしたとか。

注2・「シャクルトン卿の探検」:20世紀初頭、全28人の隊員を率いて南極大陸横断に出発したものの、南氷洋で氷に閉ざされ、上陸さえ果たせず船を失い、極限状態で1年9ヶ月に及ぶ過酷な遭難生活を強いられたが、隊長シャクルトンを始めとする隊員達の尽力で、ついに一人の犠牲者さえ出すことなく全員生還した。その顛末は人類史上輝かしい大失敗として今に伝えられている。

注3・「歌垣」:男女が野に繰り出して宴を開き、夜明かし歌ったり踊ったりと、交歓を楽しむという、古代日本の習俗。つまるところの合コンだ。

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