奥多摩を往く

 起きたのは八時半と遅かった。またゆうさんやたかさんとだべっていると午後一時になっていたので、近所のラーメン屋に昼食を食べに行く。開業したばかりのようで、狭いにもかかわらず、結構客が入っていた。横浜家系の豚骨風味ラーメンで、可もなく不可もない味だった。
 ゆうさん宅に戻ると三時近くになっていた。遅くなってしまったが、いつまでもゆうさんに厄介になっているわけにもいかない。DJEBELに荷物をくくりつけ、お礼を述べてから出発した。目的地は乗鞍である(ゆうさん、度々ありがとうございました! 遅れましたが日本一周達成しました!)。

払沢の滝
払沢の滝。冬の寒さで凍結することでも知られている

 秋川街道で檜原村(ひのはらむら)を目指す。檜原村は島嶼部を除けば東京都唯一の村だ(注1)。村役場近くで「払沢(ほっさわ)の滝」の看板を見つけたので立ち寄った。
 滝は都道33号線と205号線が交わる場所のすぐ近く、細い遊歩道を歩いて少し山に入ったところにあり、落ち着いてどこかたおやかな趣さえたたえている。滝の周辺は岩場になっており、滝壺近くまで歩いて行けるようになっていた。都内にこうした滝があることにまずは驚く。
 遊歩道脇には何軒か茶屋が建っているから、商売が成り立つくらいの見物客が訪れているようだ。滝の水は飲み水にも使われており、茶屋では滝の水で淹れたコーヒーや紅茶を売りにしている。荒井も滝の水を一口飲み、水筒に詰めておいた。滝は日本百名瀑の一つでもあり、檜原村の目印ともなっている。
 檜原街道奥多摩周遊道路で奥多摩町に抜ける。奥多摩周遊道路は緑の多い峠道で、気持ちのよい走りが楽しめた。道中何台もの単車とすれ違ったが、確かに単車乗りなら気に入ってしまうこと請け合いだろう。

 国道411号線で県境を越え、山梨県の丹波山村(たばやまむら)に入った。村は山あいの谷に沿って集落が広がり、その中には民宿や温泉も目立つ。「のめこい湯」という共同浴場を見つけたので、さっそく入ることにした。「のめこい」とは地元の方言で「つるつるする」という意味だ。肌によい温泉らしい。人気があるようで繁盛していたが、受付のおばさんの応対は実に親切丁寧で、温泉ともども気持ちまで温まった。
 この日は近場の奥秋キャンプ場にテントを張ることにした。一泊1000円と少々料金は高いが、立地は悪くない。このあたりのキャンプ場の利用料はこの程度が相場らしい。
 久々に夕食を自炊していると、居合わせたキャンパーから「焚き火にでもあたりませんか?」と誘われた。
 誘ってくれた方は荒井よりやや年上の男性二人と女性一人で、神奈川県の厚木から来たそうだ。一行は青少年指導員のボランティア仲間で、若い人たちと一緒に野遊びをする他、たびたびこのように仲間うちでキャンプや山登りに繰り出すらしい。ビールと焼きそばをごちそうになりつつ、焚き火にあたりながらあれこれおしゃべりに興じる。この日は思いがけず楽しい一夜となった。厚木の青少年指導員グループの皆さん、ありがとうございました!

諏訪大社

尾崎行雄水源踏査記念碑
水源踏査記念碑。奥多摩の緑が人の手によって蘇ったことを今に伝える

 起きてみると空はくもりがちでやや寒かった。テントを畳み、青少年指導員のご一行に礼を述べてからキャンプ場を後にした。
 ご一行から教えていただいたことによれば、丹波山村には全長247メートルある日本一のローラーすべり台があるという。どんなものかと見物に行ったが、時間が早すぎてまだ開いていない。すべるのはあきらめ先を急ぐことにした。
 柳沢峠までの国道411号線はまるきり緑の中だった。平行する渓流は多摩川上流部にあたる。100キロと離れていないところに世界屈指の大都会が開けていることがにわかには信じがたい。逆に言えば十数キロ移動するだけでもめまぐるしく風物が変わるというのも、島国日本ならではの面白さだったりする。

 道ばたに立派な石碑があった。調べてみると、奥多摩の緑の恩人、尾崎行雄の功績を記念したものだった。
 今や見事な姿を見せているこの森も、かつては乱伐で赤い山肌が見えるほどに荒れていた。明治42年、当時の東京市長尾崎行雄は自らこの地を訪れ、その荒廃ぶりを目の当たりにした。このままではやがて東京は深刻な水不足に陥る。そう思った尾崎は市で森を買い上げ、涵養することを決めたのだそうだ。
 その後100年以上の時をかけて森は育てられ現在の姿となった。そして重要な水源林として首都圏を潤している。荒井がたびたび感嘆した奥多摩の緑は、未来を見通した先人たちの努力の賜物だったのだ。先人たちがこの森に託したものを見る思いがした。

 奥多摩の国道411号線沿いにはもうひとつ、おいらん淵という名所がある。なんでも戦国時代、甲斐を治めていた武田家はこの付近に秘密の大金山を持っていた。多くの鉱夫が移り住み、慰安のために花魁もまた多く住んでいた。ところが武田家滅亡に際し、金山の秘密が漏れるのを恐れた役人たちは、花魁たちを深い谷の上に吊した舞台の上に集め、舞っているところを舞台ごと突き落として口封じをしたという。その舞台がかけられた場所はその後「おいらん淵」と呼ばれるようになったそうな。
 伝説に残っているぐらいだから、口封じは失敗だったのだろう。伝説の真偽は眉唾物だが、緑の合間から見える淵は、落ちたらひとたまりもないほど高かった。こうした残酷物語が生まれてきたのもわかるような気がする。一応手を合わせておいた。
 おいらん淵を見学していると「ここがおいらん淵ね! もう見たの?」と、中高年の男女二人連れに声をかけられた。二人ともツーリング用の自転車にまたがり、上から下まで自転車用のウェアでばっちり決めている。なんでも東京からここまで数十キロを自転車で走ってきたそうで、時々二人で遠乗りに出かけてるのよと仰る。中高年の方がこれだけ元気なのだから、若輩者の荒井も負けているわけにはいかないと先に進んだ。

浅間神社
甲斐国一の宮浅間神社。春にはコルク供養なんて神事もやっている。ワイン好きの祭神は木花開耶姫命

 柳沢峠を下り塩山市(現甲州市)を抜け、ワインで有名な勝沼町(現甲州市)を横切る。ちょうど収穫期で、沿線の葡萄園はどこもかしこもたわわに葡萄が実っていた。
 甲斐国一の宮浅間神社は勝沼の南、一宮町にある。字(あざ)の名前から市の名前まで、一の宮がある場所に文字通り「一宮」の地名が与えられている場所は関東から九州までまんべんなく見受けられる。山梨県一宮町(現笛吹市)もそうした一の宮地名の一つだ。もともと「宮」は神社を指しているので、神社のある場所に「宮」がつく地名が与えられることも多い。
 浅間神社はさすが葡萄の名産地に近いだけあって、奉納されている御神酒はほとんどがワインだった。氏子には地元ワイナリーの名前がずらりと並んでいる。日本の神様がワインを飲んでいる姿が想像されてちょっと面白い。

 温泉で有名な石和町(いさわちょう・現笛吹市)を素通りし、山梨県の県庁所在地、甲府市に出る。県庁巡りをしたいところだが日曜日だったので後に回し、一路長野を目指した。
 外から県庁を見るだけなら閉庁日であっても何の問題もないのだが、食堂を利用するとなればそうはいかない。土日に県庁所在地を経由する場合、県庁を目前にして素通りすることになるのだが、県庁食堂巡りではこのあたりが頭の使いどころである。
 県庁食堂が利用できないので、昼食は国道沿いの道の駅はくしゅうの食事処「ごちそう屋おぐら」の天ぷら定食にした。しそ天、玉ねぎのかき揚げ、春菊、椎茸といった野菜天の盛り合わせに、具いっぱいのみそ汁と糸こんにゃくの炒め物が付いてくる。野菜天がきれいに揚がっていた。天ぷら定食の後、デザートがわりに道の駅名物蕎麦ジェラートを食べた。天ぷらと氷は食べ合わせが悪かったんでないかと気付くが、荒井の食欲の前にそんなものは無用である。
 道の駅の名物はこれだけではない。はくしゅうこと白州町(現北杜市)は銘水でも有名だ。敷地内には日本百銘水にも選ばれた水が引かれており、多くの来客がポリタンクを片手に行列をなしていた。近所にはサントリーのウィスキー工場も建っている。ウィスキー工場を左手にしばらく走れば県境でいよいよ長野入り、諏訪湖ももうすぐだ。

 諏訪湖は原生林に覆われた十和田湖と違い、湖のそばまで町や工場が迫っている。ところどころアオコのようなものが浮いており、水質はそんなによくなさそうだ。風景に恵まれているわけでもないのだが、湖畔にはいくつか温泉が湧いているので、あたりは観光客らしい人たちの車でごった返していた。ホテルも何軒か建っている。逆に言えば海のない信州長野県において、諏訪湖は古くから人々の生活に深くなじんでいたのに違いない。精機会社のセイコーエプソンが、その水利を生かして諏訪湖のそばで誕生したことはよく知られている。
 そうした古くからの諏訪湖と人々のつながりの深さを語るのが、信濃国一の宮諏訪大社だ。日本中にある諏訪神社の総本社でもある。祭神は建御名方(たけみなかた)。「古事記」には出雲にある引佐(いなさ)の浜で、建御雷神(たけみかづち)と葦原の中津国(注2)をかけて勝負をしたと書かれているが、もともとは名前の通り、水潟を司る諏訪地方土着の神様だったようだ。一口に諏訪大社といっても、上社本宮、上社前宮、下社春宮、下社秋宮の四つがあり、それぞれ湖を南北から見守るようにして建っている。来たからにはもちろん四社を巡拝したくなるのが人情というものだ。

諏訪大社上社本宮一之御柱
諏訪大社の象徴、御柱。引きずって運ばれるため、裏側は大きくすりむけていた

 上社本宮でまず目に飛び込んできたのは、境内に立っている立派な御柱だった。諏訪大社といったら7年に一度の奇祭、御柱祭を忘れるわけにはいかない。多くの氏子が切り倒した大木にまたがって、急な坂を一気に滑り降りるという映像は何度か見たことがある。その氏子が引き回している大木が御柱だ。この御柱は四本ずつ、四社全てに設置されており、御柱祭ごとに新しいものに取り替えられている。
 本宮前の門前街で信州名物お焼きを買い食いしてから、前宮、秋宮、春宮と反時計回りに廻っていった。最後に行った春宮の社務所で御柱について訪ねてみると、「桓武天皇の時代から記録に残っていますが、もともとはそれよりずっと昔の古代に始まった行事なんですよ。」と教えてくれた。

諏訪大社下社秋宮 諏訪大社下社春宮
諏訪大社下社秋宮と春宮。ご神体は半年おきに両方を行ったり来たりする

 地図によれば諏訪湖の西に「日本中心の標」があるらしい。旅人や単車乗りは「端っこ」「真ん中」「極点」というものに非常に弱い。近くにこんな場所があるとわかるだけで行かなければ気が済まなくなってしまう。もちろん荒井もそうだったので、さっそくDJEBELを走らせた。
 日本中心の標は、諏訪地方の展望台小野峠の近く、枝道の林道の先にある。未舗装の林道を走り続け、本当にこんなところにあるのかよと不安になった頃に、ようやく標が現れる。林道入り口から6キロほど分け入った山の中だ。
 標は黒い御影石製で、「日本中心の標」の文字と経緯度が刻まれている。それによれば日本の中心は東経137度59分36秒、北緯36度0分47秒。中心とはいえ訪れる人はごく限られているようで、人は全くいなかった。傍らには鉄製の展望台があったが、さびが浮いてボロボロで、崩れてきそうな気配だった。

日本中心の標
日本中心の標。厳密には本州の中心にあたる場所。日本の中心を名乗る場所は他にもいくつかある

 林道の入り口に戻った頃にはすでに薄暗くなっていた。この日は近場のしだれ栗森林公園キャンプ場にテントを張った。翌日は秋分の日で休みだったせいか、利用客は多かった。その中に若いキャンパーの一団がいたのだが、周りが暗くなったというのに大声で騒ぎたてていたので、他の利用客から総好かんを食らっていた。結局彼らはあたりのことも気にせず、朝の四時でも騒いでいた。他の利用客のことを考えるのが最低限の掟ということぐらい知ってからキャンプ場に来いと言いたい。


脚註

注1・「島嶼部を除けば」:伊豆諸島や小笠原諸島も、行政上では東京都に属している。こちらにある利島村、新津島村、神津島村、三宅村、御蔵島村、青ヶ島村、小笠原村を含めると、東京都には8つ村がある。ついでに日本最東端の南鳥島と最南端沖ノ鳥島は小笠原村に属している。

注2・「葦原の中津国」:日本のこと。


荒井の耳打ち

紙と鉛筆

 旅に出たらその足跡を何かの形で残したいと思うのは旅人の常なのでしょうか。多くの旅人は旅日記をつけています。
 一番の基本はやはり紙と鉛筆、メモ帳に文字で日記を書くという形でしょう。荒井の場合、たいていは夜寝る前にまとめて書いていましたが、こうすると一時間や二時間は平気で過ぎますので、夜はゆっくり休みたいという方は、面倒でも折を見てその都度書いた方がよいです。その都度書くと意図しなくとも、その場所の雰囲気や感じたことをありありと書き残せる利点もあります。

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