会津涙雨

 朝から雨だった。雨が降るとテントの撤収は途端に面倒になる。成り行きとはいえ、屋根の下に泊まって正解だった。雨の勢いはとどまるところを知らない。こんな時は距離を稼ぐ気にもなれない。せっかくだからと、市内の鶴ヶ城を見学することにした。
 会津若松といったら白虎隊だ。幕末、会津藩では年齢に応じて藩兵を四つに分け、それぞれを中国の伝説に現れる獣の名前で呼んだ。白虎隊はその中でも最も若い層の藩士からなる部隊だ。佐幕派(注1)の重鎮だった会津藩は、戊辰戦争で新政府軍に攻められることになった。会津陥落の報に白虎隊が集団自決したことは幕末の悲劇として特に知られている。ついでに、当時福島一の都市だった会津若松に県庁が置かれなかったのは、新政府と幕府側だった会津の間に軋轢があったからだと言われている。
 鶴ヶ城はその会津藩の城だ。天守閣こそ戦後の再建だが、城址の随所に幕末当時の面影が残っている。戊辰戦争では激戦の舞台となり、一ヶ月の攻防の末ついに落城している。天守閣の中は歴史資料館になっており、白虎隊の足跡が展示されていた。

野口英世の生家
築200年の野口英世生家。世紀の名医はここで生まれ育った。写真は記念館の小冊子から。

 次は野口英世記念館だ。野口英世は福島が輩出した名医で、梅毒や黄熱病の研究で知られている。その生家は猪苗代湖(いなわしろこ)の北岸に残っており、その隣に記念館が建っている。生家は相当に旧いもので、保存のため上から覆うように屋根がかけられていた。
 野口英世の伝記なら読んだことがある。幼少期に火傷を負い、左手が不自由になっていたのを手術で治してもらったのをきっかけに、医者になろうと決心したとか。生家にはその火傷を負ったといういろりや、そのとき母親野口シカが洗濯をしていた洗い場も残されている。シカと英世の絆はよく知られている。シカが留学中の英世に宛てた「シカの手紙」は記念館の呼び物だ。荒井も実物を見てみたかったのだが、どういうわけか、このときはどこに展示されているのか見つけられなかった。
 英世はお茶目な人物だったようだ。自分を撮ってもらった写真がいたく気に入って、サインをした上で友人知人に配っていたというのだから。その英世お気に入りの写真は新札の肖像として採用が決まり、時を超え日本中に配られようとしていた。

 記念館を出ても雨はあいかわらずで、ほとほと参っていた。今日も屋根の下に泊まるぞと電話で福島市内のユースゲストハウス「アトマ」に予約を入れ、記念館隣のドライブインの軒先で雨宿りをしていると、店からおばちゃんが現れて、中で休まないかいと店内に引っ張っていかれた。昼食は成り行きでここの900円の日替わり定食を食べることになってしまったが、野菜天ぷらの盛り合わせ、昆布の炒め物、なす炒め、そば、サラダ、おしんこと、値段の割に豪華だった。

 昼食後、とっとと本日の宿に向かうことにした。国道115号線で土湯の高原を越える。晴れた日に走れば最高に気分が良さそうなのだが、この雨では気分も滅入りっぱなしである。福島駅西口に出たところで、県道で吾妻山東の裾野を登っていった。
 アトマは市街地から20分ほどの距離、県道のそばにある。ペンション風のこぎれいなところで、手作り望遠鏡による天体観測と、冬のスキー教室が売りとなっている。ようやく雨から解放され、談話室でほっとしていると、そのうち他の泊まり客の方々もやってきた。一人は実業団の陸上大会の応援でやってきたという紳士と、もう一人は学校の先生らしき中年男性。けっこう気が合ったのか、談話室で宿差し入れの梨などいただきつつ、旅の話で盛り上がった。

知らざる置賜

 朝になると雨は止んでいた。八時に出発し、国道13号線で栗子峠を目指す。峠を挟んで東西に二本の長大なトンネルが開通している。その一つ、東栗子トンネルを抜ければ我が郷土、山形県である。

 山形生まれの山形育ち、旅に出る前山形一周した山形県民荒井ではあるものの、それでも郷土について知らないことはまだ多い。
 一口に山形県といっても、その中は大きく四つの地方に別れている。日本海に面した平野の庄内、北東の盆地に開けた最上、山形県の中心地となっている村山、そして山形県の最南部に位置する置賜(おきたま)。それぞれ言葉や歴史、文化も微妙に違うこの四つが最上川でつながっているというのが山形県である。
 特に置賜は荒井が住んでいる片田舎から遠く離れていることもあり、同じ県でありながら、何度も来る機会がない。これは他の山形県民にとっても同じようで、自分が住んでいる地方の外にはあまりなじみがないのだ。
 先だっての山形一周でももちろん置賜は訪れたのだが、満足に廻れたわけでもない。この際だからと、この日は置賜地方で長らく気になっていた場所に寄り道することにした。同じ県であれ、知らない場所に足を踏み入れるのはやはりわくわくする。行ったことがないという点では、地元も月の裏側と一緒なのだ。

 東栗子トンネルを抜けてすぐのところで脇道にそれ、板谷峠を目指した。板谷周辺は大分水嶺が通っており、山形県でも珍しい太平洋側となっている。大分水嶺だけに一帯は急峻な地形が続いており、鉄道はスイッチバック式(注2)という特別な方法を使って峠を越えていた。
 そのスイッチバックの駅として知られているのが、板谷峠近くにあるその名もそのまま「峠駅」だ。駅の傍らには「峠の茶屋」があり、スイッチバックの待ち時間に茶屋の売り子が販売する「峠の力餅」はちょっとした名物となっていた。
 碓氷峠同様、新幹線の開通に伴いスイッチバックは廃止された。しかし横川駅の「峠の釜めし」同様、峠駅の「峠の力餅」は今でも根強い人気とともに生き残っている。峠の茶屋は今でもしっかり営業しているし、駅での構内販売も続いているのだ。
 山形県民荒井、もちろん峠の茶屋は知っていたが、これまで食べに行く機会が全くなかった。今こそ食べに行くぞと心細い山道を走ること数キロ、とうとう峠駅にたどり着いた。
 峠駅は元々スイッチバック用の駅として作られたので、あたりには駅と「峠の茶屋」以外には何もない。さっそく茶屋に入ると、愛想のよいご主人が出迎えてくれた。献立を見ると納豆餅の文字が飛び込んできたので、これを食べることにした。餅は茶屋で搗いたものだ。
 納豆餅とは、醤油納豆をからめた餅だ。東北地方ではよく知られた餅の食べ方で、山形県民をはじめとする東北人の好物と言い切ってしまって差し支えない。もちろん荒井も大好きで、東北人心の味に、「あぁ、山形(やまがだ)さ戻ってきたなだ!」と、山形弁丸出しで満足した。
 駅前徒歩すぐとはいうものの、峠の茶屋は山奥のへんぴな場所に建っている。にもかかわらず客足は絶えない。峠駅周辺は姥湯温泉や滑川温泉といった秘湯が目白押しで、その利用客がついでに立ち寄るようだ。来客の多くは山形弁以外の言葉をしゃべっていた。時期はちょうど紅葉を目前にひかえ、秘湯のある高い方からこっちの方まで、徐々に山が赤くなっていくんですよとご主人は仰っていた。

鳩峰峠の廣介文学碑
高畠近郊の鳩峰峠に建つ浜田廣介文学碑。碑文は「むく鳥のゆめ」にちなんだもの。

 砂利道で板谷峠を超え、これまた心細い山道を延々と走った末、米沢市街地に出た。米沢から隣の高畠町(たかはたまち)に出て、これまた以前から気になっていた浜田廣介記念館を見学する。その次は上山市の斎藤茂吉記念館を見学した。
 浜田廣介も斎藤茂吉も山形出身の文人で、それぞれ高畠と上山の出身である。廣介は「泣いた赤おに」「むく鳥のゆめ」などの名作をものにした童話作家で、茂吉は写実主義を唱えたアララギ派の大歌人だ。同郷の文人ということは知っていたのだが、その作品を読んだこともなければ詳しいことを知っているわけでもない。「山形県民だったら知ゃねわげにもいがねべな。」と、興味を持ちだしたのはごく近年のことだ。地元の人間は意外に地元のことを知らない。
 ちなみに荒井が旅に出るにあたって、茂吉の歌碑巡りというのも考えたのだが、あまりに数が多くて諦めた。茂吉は全国至るところに足を運んでいるせいか、ゆかりの地も多く、多くの歌碑が残っているのだ。

 上山から山形市に入り、市内の「秋津惣庵」で中華そばの遅い昼食にしてから、日のあるうちに、近郊の「県民の森荒沼キャンプ場」に転がり込んだ。10月も近づき、キャンプ場は営業終了だった。誰もいないキャンプ場にテントを張り、久々に米を炊き、久々に野宿らしい野宿をした。

二口峠に片思い

 山形市から荒井の家までそう遠くもなかったが、せっかく山形市にいるのだからと、今日も寄り道してから家に帰ることにした。天気はくもっていたが、雨が降っているわけでもない。とりあえずお気に入りの笹谷峠を目指すことにした。
 笹谷峠は山形市の展望台の一つで、晴れていれば市街地を一望できる。この日街は見えなかったがそのかわり、見事な雲海が出ていた。雲の向こうには白鷹丘陵が島のようにポコポコと頭をのぞかせている。笹谷峠には何度も来ている荒井だが、これほどの雲海は見たことがないと思わず息をのんだ。

笹谷峠の雲海
笹谷峠の雲海。山形市は雲の底。

 峠を宮城側に下り、国道457号線で秋保に向かう。日本百名瀑の一つ、秋保大滝を見物した。秋保大滝も初めてではないのだが、見るからにいかにも滝だ!といった激しく勇壮な姿はいつ見ても魅力がある。高い落差、深く広い滝つぼ、広い川幅に水量に勢いと、見る分には最高だが、絶対に筏下りはしたくない滝でもある。

 その後二口峠に行ってみることにした。二口峠は山形市の山寺と秋保を結ぶ峠だ。車を乗り回すようになり、道路地図でその存在を知って以来何度となく峠越えを試みているのだが、長年続く工事による通行止めで鞍部にさえたどり着けず、毎度毎度ゲートを前に泣く泣く引き返している。
 「超えらんねくても、せめて鞍部までは行ってみだい。山寺がら行げねくても、秋保がらなら行げんでねぇべが?」 そんな気持ちで秋保側から峠に近づく。峠入り口のキャンプ場を過ぎると道はいきなり砂利道になる。少しぐらい大変な方が喜びも大きいというものだ。
 砂利道と並んで「磐司岩」という巨大な断崖が併走している。その名前は伝説のマタギ(注3)、磐司磐三郎にちなんでいる。その昔、磐三郎は二口峠一帯を股にかけ、狩りをして暮らしていた。そこに慈覚大師円仁がやってきた。大師が山寺の地に感じ入り、ここに寺を開山したいと磐三郎に伝えると、磐三郎はその志に感銘し助力を惜しまなかった。聖地となった山寺で殺生はできない。やがて磐三郎は秋田に移り住みマタギの開祖になったのだという。伝説のマタギの名を戴く断崖は高さ200メートル、幅は東西3キロにも及んでいる。まさに伝説にふさわしい偉容をたたえている。

 二口峠はつれなかった。秋保側も土砂崩れによる通行止めが続いており、鞍部には行けないようになっていた。「いったい峠ば越えられんなはいづのごどなんだべ...」と、またしても来た道を引き返すのだった。
 とはいえただ戻るのは面白くない。通行止め箇所直前には水汲み場がしつらえられていた。二口峠も笹谷峠同様、大分水嶺奥羽山脈を越える峠で、よい水に恵まれている。水場のそばでは遠くからここの水を汲みに来た車も見かける。「ここの水は軟らかくて飲みやすいから、よく汲みに来るんだよ。」と、ポリタンクを満載した車で来ていたおじさんは言っていた。せっかくだからと二口峠の水を味わってから帰るのだが、片思いの峠の水はどこか冷たくて甘かった。
 峠は越えられずとも、二口峠には磐司岩以外にも見所がある。キャンプ場そばにある一軒宿「磐司山荘」の二口温泉だ。来たついでにここにも入っていく。ひなびた山間の湯という雰囲気がたまらない。ところが肩まで浸かれないほど湯が熱い。熱いのを我慢して入っていた。

 長年気になっていた秋保側の二口を堪能したところで、関山峠で再び山形に戻ってきた。天童市内のラーメン屋「ラーメンショップ」でつけ麺の昼食を食べ、今回の旅をしめくくるのであった。


脚註

注1・「佐幕派」:明治維新時、徳川幕府を中心にして国の立て直しを図ろうとした思想。佐幕派に立った代表的な人物は彦根藩主井伊直弼(いいなおすけ)、新選組、会津藩主松平容保(まつだいらかたもり)などなど。

注2・「スイッチバック式」:前頁注1参照。

注3・「マタギ」:伝統的な猟師のこと。

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