レイニーウォーク イン 北関東

南無八幡大菩薩

雨の日光二荒山神社
日光二荒山神社。大雨の中撮影。

 この日は西那須野町(現那須塩原市)のビジネス旅館「アジサイ」に宿をとった。今回は廻るべきところが多い。関東に入ったもののどこから廻ればいいのか見当が付かず、宿で腰を落ち着けて地図と向かい合い、これからの進路を考えようと思ったのだ。
 荒井の場合、あらかじめ通る道をきっちりと決めておくということはない。おおよその行く先だけ決めておいて、近くまで来たらその都度地図で確かめながら適当な道を選ぶという具合だった。一言で言えば行き当たりばったり、出たとこ勝負だ。
 とりあえず栃木県では、日光市にある下野国(しもつけこく)一の宮日光二荒山神社(ふたらさんじんじゃ)と、宇都宮市の県庁には必ず寄らなければならない。宿に籠もって地図をめくり、このあたりの地理を頭に入れておいた。

 夕方になってから降り出した雨は、翌朝になっても続いていた。昨晩夕食の買い出しがてら、宿の近所を散策したときはまだ傘がなくてもなんとかなる程度だったが、気が付けば粒の大きな雨に変わっている。こうなるとなかなか出発する気にはなれない。チェックアウト直前の9時半頃まで部屋でテレビを見ながらゴロゴロしていたら、宿の人が掃除にやってきた。中にまだ荒井がいるのを認めると「す、すいません!」とあわてて扉を閉められた。

 いつまでもこうしているわけにもいかなかったので、十時前にようやく出発した。まずは以前から気になっていた那須高原に向かって走り始めた。
 那須高原は別荘地らしく、別荘分譲の看板を結構見かける。それに加えてやたら見かけるのが、各種博物館や娯楽施設の看板だ。那須高原は戦後になってから開発の手が入ったようで、おそらくは何もないところだったのだろう。別荘地が広がるに至り、ここを訪れる人々の娯楽用にこんな施設がいろいろ建てられたのかなと推測してみる。

 りんどう湖をかすめ、那須の温泉街を経由して道なりに走るうち、名所殺生石(せっしょうせき)の前に出た。木道の設けられた石がちの沢で、あたりには温泉由来の硫黄ガスが立ちこめている。名前のとおりいかにも体に悪そうだ。おなじみ松尾芭蕉が「おくのほそ道」で訪れており、そのときの様子を「石の毒気いまだほろびず、蜂・蝶のたぐい、真砂の色の見えぬほどかさなり死す。」と綴っている。この殺生石、アジアを荒らし回った化け狐のなれの果てで、死骸が石に変わってもいまだ毒気を吐き続けているという伝説がある。荒井が行ったときは蜂や蝶のかわり、観光客が群がっていた。毒気が滅んだのか、あるいは人間が化け狐よりしぶといのかはわからない。
 那須温泉神社は殺生石のそばにある。「平家物語」で源氏の弓の名手、那須与一宗隆(なすのよいちむねたか)が屋島で扇の的を目の前に「我にあの的射させ給え」と祈った神様だ。こちらにも参拝したが、与一と同じ神様に参拝していると思うと親しみが湧いてくる。与一はこのあたり、現在の大田原市の出身だと言われている。那須与一の「那須」が西那須野町や那須高原の「那須」であると気が付き妙に納得した。

 那須の温泉に入っていきたいところだったが、この雨にもかかわらず共同湯「鹿の湯」の駐車場は満杯だった。中が芋洗い状態であろうことは容易に予測が付いたので、入るのはやめておいた。
 県道を乗り継ぎ、国道400号線に出て西に向かう。途中で塩原温泉の共同湯「華の湯」を見つけたので、「鹿の湯」のかわりに入っていくことにした。悪くはないのだが、入浴料は700円とちょっと高めだ。

 温泉には入ったものの、この雨ですっかり横着になっていた。昼過ぎには日光大谷川(だいやがわ)ユースホステルに予約を入れ、こんな日はとっとと屋根の下にすっこむに限ると、とっとと日光を目指すことにした。尾頭峠を越え、山間を縫って国道121号線を南に走った。その途中、巨大な温泉宿が建ち並ぶ鬼怒川温泉を通過した。
 鬼怒川温泉はかつて中学校の修学旅行で来たことがある。その修学旅行は同じ班にいたヤンキーの傍若無人ぶりに振り回されまったくいい思い出がないのだが、そのとき鬼怒川で泊まった宿で割り当てられた部屋はなぜか女子の部屋が丸見えで、そのヤンキー君が窓辺に張り付いて「おっ! スカート脱いだ!」などと大はしゃぎしていたことが思い出される。

 今市市(現日光市)経由で日光市に出た。東武日光駅にほど近い「サンクス」でおにぎりを買い、軒先で遅い昼食にしていると、やってきた若いお兄さんに話しかけられた。この雨で滅入っているよと話したら励ましてくれた。
 翌日参拝する日光二荒山神社を下見に行くなりするうちに時間になったので、ようやく日光大谷川ユースに転がり込んだ。ユースは日光を流れる大谷川の岸辺に立っている。見た目はまるきりの民家だった。
 荷物を片づけ、夕食を食べに町に出た。日曜の夕方だったので主だった店はすでに閉まっていたが、運良く「二幸」というラーメン屋が開いていたので、店のご自慢の一品、湯葉入りラーメンと手羽餃子を食べた。湯葉は日光の名物だ。夕食そのものは20分ほどで食べ終えたのだが、その後も店内備え付けのテレビを見ていたせいか、ズルズルと1時間ほど店に居座ってしまった。にもかかわらず店を出る際おかみさんがいやな顔一つせず、それどころか「あったまりましたか?」と親切に送り出してくれたのがうれしかった。

日光よいとこ

日光二荒山神社中宮
日光二荒山神社中宮。こんなに晴れてればよかったのだが。写真は由緒記から。

 ユースは外国人の利用が多かった。アメリカ人はもちろんのこと、中国人の方も見かける。朝食はユースに頼んでいたパンと目玉焼きで、彼らと一緒に摂ることとなった。ちなみに相部屋になった方は九州から山登りに来ていた。「九州からだと関東はあまり来られる場所ではないんですよ。」と仰っていた。

 雨は昨日よりも激しくなっていた。今日も合羽を着込んで出発する。さっそく昨日下見した日光二荒山神社に参拝した。神社は日光東照宮のすぐ隣、ユースからさほど遠くない場所にある。件の修学旅行で東照宮には来たことがあるのだが、日光二荒山神社に参拝するのはもちろん初めてだった。
 世間では東照宮の方が有名だが、神社としての歴史はこちらの方がずっと古い。もともと日光の地名も、北にそびえる男体山こと、神社のご神体二荒山(ふたらさん)の音読みにちなんでいる。東照宮のような豪奢さはないが、赤くて巨大な拝殿は東照宮にはない貫禄と渋さを感じさせる。
 いろは坂で中善寺湖畔に出たところで、今度は日光二荒山神社の中宮に参拝した。こちらは300円ほどの拝観料を取られるのだが、その中には宝物殿の入館料も含まれている。宝物殿には男体山山頂から発見された銅鏡や神具などが展示されているが、入り口に飾られている刃渡り3メートルの大剣「祢々切丸(ねねきりまる)」がひときわ印象に残った。なんでも「祢々」こと男体山に棲んでいた怪物を退治したといういわく付きの業物だが、おそらくは銅鏡同様、祭祀用に作られたものなのだろう。神社の歴史は男体山と切っても切れない縁にある。

 華厳の滝は見物せず、第二いろは坂を下る。いろは坂の名前が、カーブの数を「いろは」48文字にかけたものであることは知られているが、カーブの数をいちいち数えて「いろはと同じだ!」と気が付いたのはどんな人だったんだろう。

 国道122号線に合流し、日光の南西、足尾方面目指して走り出す。ここではぜひ見ておきたいものがあった。日本のグランドキャニオンと称される松木渓谷(まつぎけいこく)だ。
 渡良瀬川を上流に向かっていくと、まずは巨大な足尾銅山跡が目に飛び込んでくる。集落もかつては銅採掘で栄えたのだろうが、今では人の姿も少なくうら寂しい。そして足尾ダムまで来ると、目の前に壮大なはげ山が現れた。そこが松木渓谷だ。岩肌が見える谷筋には草がまばらに生えているだけで、日本キャニオンなど比べものにならないほどの荒々しい姿を晒していた。
 この渓谷は人が生み出したものだ。明治期、最新設備を備えた足尾銅山は東洋一の銅山として栄えたが、一方で数々の鉱害をも引き起こした。銅山の鉱害史は代議士田中正造の名前とともに知られている。その足尾鉱山の吐き出す煙で丸裸になってしまった山というのが現在の松木渓谷だ。治山事業も徐々に進んでいるのだが、元の姿に戻るまでにはまだ長い時が必要らしい。未来への教訓として、このはげ上がった松木渓谷の姿を未来に残そうという動きもあるそうだ。武甲山や松尾鉱山同様、松木渓谷は近代の遺跡なのだ。

 雨はあいかわらず降り続いていた。寒くてたまらず近場の立ち寄り湯に飛び込む。飛び込んだのはわたらせ渓谷鉄道の水沼駅だ。水沼駅は立派な温泉併設で、列車に乗らずとも気軽に入浴できるようになっている。ゆっくりと温泉に浸かり、寒さを忘れてようやく一息つくのだった。
 その後はひたすら走るだけだった。足利市で「セブンイレブン」に寄り、軒先でサンドイッチを立ち食いして簡単な昼食を済ませる。ついでに近場のユースホステルに予約の電話を入れた。この雨にほとほと参り、野宿する気も失せていたのだ。
 荒井の場合、雨降りになると途端に寄り道する気がなくなってしまう。合羽がずぶ濡れだと、そのまま建物の中などに入るのは迷惑であり気も引けるので、そのたびごとに合羽を脱ぎ着することになる。しかもずぶ濡れの合羽というものは脱ぎ着しづらい。このいちいち脱ぎ着するのが非常に面倒で、そんならそのまま走っちまえということになる。鉄馬を駆る単車乗りにとって、合羽は重い鎧だ。

 佐野市、栃木市、鹿沼市を黙って素通りした後、再び国道121号線をひた走る。山形では大峠としてなじみの深い国道121号線も、このあたりは日光例幣使街道(にっこうれいへいしかいどう)といって、数キロに及ぶ背の高い杉並木が続いている。雨降りの天気もあり、鬱蒼とした杉並木のおかげで昼なお道は暗かった。しかも気が付けば合羽が水漏れしている。雨にたたられっぱなしで、雨合羽も根を上げたらしい。暗いは寒いは湿気って気持ち悪いはで、気分までふさぎ込んできた。

 そして夕方が近づいた頃、ようやく待望の宿、今市のグリーンロード日光杉並木ユースホステルに到着した。ペアレント(注1)さんはずぶ濡れの荒井を一目見るなり「寒かったでしょう!」とさっそく風呂を勧めてくれたが、この心遣いがとてもうれしかった(その節はありがとうございました!)。
 杉並木ユースは民宿がユースもやっているというところだ。面白いことに館内には剣道場があって、定期的に剣道教室が開かれている。希望者は剣道の手ほどきを受けられるというのがここの売りだ。荒井は剣道は遠慮して、風呂に入った後は部屋でぬくぬくと過ごすのだった。
 夕食はここのユースに頼んでいたのだが、これが予想以上によかった。魚と野菜の水炊き、特製カレー、フライの盛り合わせといった料理が目の前に並んだ。一緒のテーブルになった、奈良から来たというご一行と一緒になって「こんなごちそうが食べられるなら、素泊まりなんてもったいない!」と驚いた。「料理がここの自慢なんですよ。」とおかみさんは仰っていたが、そのとおり、旨い料理がおなか一杯食べられたので大いに満足した。

宇都宮には関東レモン

輪王寺大猶院廟皇嘉門
輪王寺大猶院皇嘉門。小さいとはいえ東照宮に負けず劣らず豪奢な作り。写真は入場券から。

 一夜明け、ようやく雨が止んだ。久々に見る晴天だ。ユースで和食の朝食を済ませてから、出発の準備にとりかかった。DJEBELに荷物をくくりつけているとペアレントさんがやってきて、「今日は天気がいいから日光に行ってごらんなさいな。」と勧められた。昨日は雨でさんざんだった。すぐに宇都宮に行くつもりだった予定を変更して、もう一度日光に行ってから宇都宮に行くことにした。

 十数年ぶりに東照宮を見物するつもりで来たのだが拝観料の高さに躊躇して、とりあえず日光二荒山神社にもう一度参拝しようと神社の前にDJEBELを停めると、ちょうど掃除をしていた輪王寺(りんのうじ)の職員の方に話しかけられた。曰く「輪王寺を見ていかないとはもったいないですよ!」と。
 輪王寺は日光の名刹で、東照宮・日光二荒山神社とともに世界遺産の指定を受けている。とはいえ観光客は東照宮こそ見に行くが、隣にある日光二荒山神社や輪王寺にも足を運ぶ人はそう多くないらしい。確かに、東照宮に向かう車が引きも切らないのに対し、日光二荒山神社の境内が混雑している気配はない。「みんなで日光観光をもり立てようというのに、あちらは商売上手でボロもうけですよ!」と苦笑しながら愚痴っていた。そういや例の修学旅行、東照宮のガイドさんが御神刀や御守りの宣伝をするのに苦笑した覚えがある。神仏に関わっているにもかかわらず結局こうなんだなと、人間のあさましさというものに苦笑しながら相づちを打った。
 とはいえ、せっかくのお勧めをむげにする理由もない。そこで「どうせ見んならまだ見でねぇものの方が面白いべ。」と考え、輪王寺の中にある大猶院(だいゆういん)を見学することにした。

 大猶院は東照大権現こと徳川家康公の孫、徳川家光公の御廟所で、東照宮よりもややこぢんまりとしている。おじいちゃんの墓所の隣に自分の墓を建てるのだから、家光公はよっぽどのおじいちゃん子だったに違いない。東照宮よりもこぢんまりしているとはいえ、贅を尽くした建築はなかなか見応えがあるのだが、敷地内にはやたらに人がいなかった。見る分にはゆっくりできるのでいいのだが、先ほどの職員の方が東照宮をうらやむのも無理はない。
 日光二荒山神社奥の神苑を見物し、もう一度いろは坂のつづら折りを走る。紅葉の時期になれば見物客の車で大渋滞するらしいが、道は滞ることなく車が流れていた。ペアレントさんによれば、いろは坂の紅葉はもう少し先らしい。栗駒山の紅葉を目にした後だっただけに、日本が縦に長いことを実感した。

栃木県庁
栃木県庁。県名は文字通り「トチノキの生える土地」から採られたとか。

 日光街道を道なりに走り、宇都宮市の栃木県庁に着いたのは十一時頃だった。栃木県庁はこれまで見た県庁の中では一番年季が入っていた。昭和13年に建てられた庁舎が現役で使われており、回廊のようになっている廊下が当時の雰囲気を出していた。扉や階段の手すりなどの造作にも時の流れというものがしみついている。もっとも、見る分には楽しいが、中で実際に仕事をするには、古さゆえの支障もあるだろうと思われた(注2)。
 県庁食堂のメニューを物色してみるが、特に思わしいものもない。そこで別館にある展望喫茶「やしお」の方を見てみると、日替わりメニューの豚肉キャベツ味噌炒め定食がよさげだったのでそれを食べることにした。展望喫茶だけあって、宇都宮市を眺めながらの昼食は気分がよかった。味も悪くない。ついでに定食を頼むとコーヒーおかわりし放題でちょっとお得だ。

 昼食後県庁売店を覗いてみたところ「関東レモン」なるアヤしげな紙パック飲料を見つけた。裏の表示によれば乳飲料ということにはなっている。どうやらイチゴ牛乳ならぬレモン牛乳らしい。アヤしいジュース愛好家荒井、さっそく手を伸ばす。

「甘ぇ!!」

 悶絶。脳髄までもが灼け付く甘さ、香りこそすれ、レモンというのに全然酸っぱくない。そういえば裏の表示にはしっかり「無果汁」と書いてあった。レモンといいながら無果汁。香料着色料漬けであることは想像に難くない。裏の表示ぐらいちゃんと読んでおけばよかった。もっとも、こうなることぐらい予想していたのだが。
 「茨城にはマックスコーヒー! 宇都宮には関東レモン!」(注3) 意味なく肝に銘じ、口直しのレモンチーズパイを平らげてから県庁を後にした。
 その後知ったことによると、レモン牛乳は宇都宮の隠れた名産品で、地元ではよく知られた飲み物らしい。山形のパインサイダー(注4)みたいなもんだろうか。

二荒山神社
宇都宮の由来となった二荒山神社。市内中心部にあることを忘れるほど。

 次に目指したのは宇都宮市内にある二荒山神社(ふたあらやまじんじゃ)だ。日光二荒山神社(にっこうふたらさんじんじゃ)と同じく下野国の一の宮である。こんな具合に一国に複数の一の宮があるということは珍しくない。その背後には時代によって崇敬を集めた神社が変わっていったとか、同国でも地域によって違う神社を崇めたといった、歴史的な事情がある。ついでに一国に複数の一の宮がある場合、荒井はできる範囲で廻っていったが、巡拝よりも全旧国を廻ることに主眼を置いていたため、一社だけに参拝してよしとすることもあった。
 「宇都宮」の地名は「一の宮」の読みがなまってできたものらしい。その根拠がこの二荒山神社だ。神社は宇都宮の駅前通りにあるのだが、背の高い建物の合間に突然大鳥居が現れるので一目でそれとわかる。石段で小高い丘を登りきれば、あたりの街並みが嘘であるかのように社叢と神社があり、市民うってつけの憩いの場となっている。境内ではオカリナを吹いて楽しんでいる女の人もいた。音色は喧噪から切り離された境内いっぱいに、気持ちよく響き渡っていた。
 石段の下で「来らっせ」なる餃子屋を発見した(注5)。餃子といえば宇都宮名物だ。「来らっせ」はその餃子を扱った街興し施設で、中では市内の名店の餃子が日替わりで食べられる他、餃子情報を仕入れることもできる。宇都宮の餃子はラーメンの付け合わせやご飯のおかずというよりも、たこ焼きのような軽食らしい。

 餃子に満足したところで宇都宮を出て、国道408号線を南に走った。住宅街や工業団地を抜け、茨城県で国道50号線に乗り換え東に向かう。水戸市の手前、友部町(現笠間市)で暗くなってきたので、町内の北山公園キャンプ場にテントを張って寝た。夕食を作るうち、日はとっぷりと暮れていた。季節のせいか他に利用客は誰もいない。冬を前にそろそろ野宿もきつくなってくるのだろうか。


脚註

注1・「ペアレント」:ユースホステルの代表者のこと。

注2・「古さ故の支障」:2004年に栃木県庁は改築されることが決まった。荒井が見た庁舎は一部保存されるとか。

注3・「宇都宮には関東レモン」:2004年11月製造元関東牛乳が解散し、製法が栃木乳業に移管された。現在は「関東・栃木レモン」として販売されている。誤解を招かぬよう書いときますが、荒井はレモン牛乳かなり気に入ってます。

注4・「パインサイダー」:山形の地サイダー。黄色がかった色とパイナップル風味の味付けが特徴。果汁1%未満。

注5・「来らっせ」:2004年、二荒山神社入り口からすぐ近くのデパート地下に移転した模様。

前に戻る文頭に戻る目次に戻るトップページに戻る次を読む