おーいはに丸

 日の出が遅くなるとそれに合わせて起きるのも遅くなる。五時半に起きて七時に出発した。国道50号線沿いのコンビニでツナタマサンドの朝食にしてから、隣町内原町(現水戸市)を見物することにした。
 この内原町、ときめくような観光名所があるわけでもない。しかし福島の天栄村同様ふとしたきっかけで知ることになって、以来気になっていたのだ。

 いつの春だったか、まだ荒井がスーパーで勤め人をしていた頃。特産の苺の販促をするため、茨城のある町からPRの一行がやってきた。一行は店頭で試食など出して苺を売り込みつつ、小冊子を配って町の紹介などもやっていたのだが、それが内原町の方々だったのだ。
 そのとき荒井も小冊子を一部もらったのだが、日本一周を決意して間もない当時の荒井にとって、茨城ははるかに遠かった。「今はまだ行げねくとも、いづがはこの町さも必ず行ってやるんだ!」と、小冊子を手に日本一周に憧れていたことを思い出す。あれから数年、今度はそのとおり、自分が内原町を訪れることとなった。

 小冊子によれば内原町の見どころは古墳公園とカタクリ園だったが、まずは情報収集のため、町役場に寄ることにした。
 国道から県道に折れ、常磐線の線路を渡れば役場はもうすぐだ。朝の通勤通学の時間だったせいか、駅の周囲は高校生やタクシーであふれていた。駅は常磐線のみだが、水戸駅まで二駅と近いせいか便数は多く、ホームも三つあった。とはいえ周囲には華やかな商店街のようなものはなく、周囲もどちらかというと地味である。町民は用事があるなら水戸あたりまで出かけてしまうんだろう。
 役場は開いたばかりで人は少なかった。観光案内をもらうつもりで行ってみたのだが、それらしいものは見つからなかった。

 気を取り直して町一推しの名所の一つ、「くれふしの里古墳公園」に行った。正式には牛伏古墳群という名前で、前方後円墳をはじめとする大小とりどり数々の古墳が何基も密集している。濫掘により荒らされていた時代が長かったようで、誰が何のためにこの墓を作ったとか、誰が眠っているかということはわかっていないらしい。現在は芝生を植えたり古墳をきれいに整えたりして、歴史公園として開放されている。

 公園一番の見物は「はに丸タワー」だ。てっぺんは展望台になっている。さらに中には「希望のはにわ」こと巨大な埴輪の顔が置かれてある。「真実の口」よろしく口に手を突っ込むと、はに丸様の「宇宙と古代からの」ありがたいお言葉が聞けるという仕掛けがある。そのお言葉は「金魚も愛情を込めてご飯をあげればそのうち鯨のようになるぜ!」とか「しっかりご飯を食べれば俺のように大きくなれるぜ!」とか、さすが宇宙と古代から届いただけあってわけがわからんが、せめて声だけは田中真弓女史(たなかまゆみ・注1)に依頼していただきたかった。
 全高17.3メートル。高さだけなら奈良東大寺の大仏様よりでかい日本一巨大な埴輪というふれこみだが、他に誰かこんなものを作ろうという人がいるのだろうか。

はに丸タワー 希望のはにわ
内原町のはに丸タワーと「希望のはにわ」。謎のお言葉はなんと50種類を超えるとか。

 もう一つの名所、「かたくりの里公園」はさすがに秋だけあって、カタクリの花は全く咲いていなかった。とはいえ手入れは欠かせないようで、地元のおばちゃんが甲斐甲斐しく草を取ったりゴミを拾ったりしていた。
 カタクリというと荒井の母方の実家が山奥なもんで、そこに行けばいくらでも見られるという印象が強いのだが、実際は繁殖力も弱く、花を咲かせるまでには数年とかかる、まさに遅咲きの花であるらしい。この「かたくりの里」は、そんなカタクリの群落であり、貴重な場所となっている。カタクリは内原町の町の花になっている。春に来れば、きっとすばらしい群落が見られるのだろう。
 役場で仕入れた情報によると、内原町はお隣水戸市との合併を考えていた。合併の手続きは問題もなく進んでいるようで、順調に運べば近いうちに内原町の名前はなくなってしまう。時代の流れとはいえ、一つ地名が消えてしまうのは寂しいような気もする。「合併さ間に合っていがったなぁ」と、誰にともなく、ここに来られた幸運を感謝した。

 この日は晴れてこそいたが、ここ数日の雨で相当にくたびれていたらしい。やけに移動する気が起きなかったので、久々に海沿いコースに戻る前の休養を兼ねて、二日ほど水戸に滞在することにした。宿はもちろん偕楽園ユースだ。
 内原からはあっという間で、昼前には水戸に着いてしまった。とりあえずこの前も訪れた茨城県庁にまた行ってしばらくうだうだとする。昼食は県庁食堂「カフェテリアひばり」で豚カルビ丼とラーメンと張り込んだ。二品食べても680円で済んでしまうのが県庁食堂のお得なところだ。豚カルビ丼は脂っこい塩カルビに千切りキャベツが添えられているのが心憎い。
 昼食後は中階層吹き抜けの底にある喫茶「サザコーヒー」でデザートがわり、チョコケーキセットなど食べてくつろいでいた。茨城県庁は吹き抜けのおかげか中は明るく開放的だ。男女の逢瀬にも使えそうである。もっとも、中で働いている人にとってはよけいなお世話だろうけど。

 街中をうろうろと走り回っているうち夕方になったので、偕楽園ユースに転がり込んだ。前回同様、最寄りのコンビニ大工町の「セブンイレブン」で夕食を仕入れ、ロビーでむさぼっていると、ユースの風呂修理に来ていたおじさんに話しかけられた。ここの風呂に使われているボイラーは23年物で、度々調子が悪くなるらしく、そのたびごとに修理しては使っているのだそうだ。
 この日は北海道から来たという旅人と一緒になった。19歳ながら、ヒッチハイクなどを繰り返しているという相当な旅人だ。小学校3年の時、父親に付き従ってインドで暮らしていたこともあるという。自分が19歳や小3の時など、何をやっていただろう。人と出会うたびに、世の中にはまだまだ知らないことが多すぎるとつくづく思う。

水戸市内を散歩する

 この日はDJEBELに乗らず、歩いて水戸市内を見て廻ることにした。雨降りだったが、歩く分にはそれもまた悪くない。ユースの職員さんにお願いして傘を借り、水戸の散歩に出発だ。

 偕楽園はユースから路地を10分ほど歩いたところにある。春先の梅で特に有名なとおり、園内は梅の見本市のような様相を呈しているが、冬を目の前にした今の時期、もちろん花は一つも咲いていない。葉っぱの落ちきった梅林を横切り、庭園のはずれの方にある立派な竹林や杉林を抜けつつ歩いていると、古い数寄屋造りの建物が現れた。好文亭である。
 偕楽園は幕末に水戸藩の九代藩主、徳川斉昭(とくがわなりあき)公が造営した庭園で、好文亭は園内にある斉昭公の別荘だ。園内の梅林は斉昭公の意向で植えられたもので、好文亭の名前はその梅の木にちなんでいる。中国の故事では梅は学問を好むものとされているそうで、同じく学問を好んだ斉昭公にとって、梅は向学心の象徴だったのだろう。もちろん実は食料にもなり、いざというときの役にも立つ。園内に植えられたおびただしい梅の木は、花ばかりか実も楽しめるという、斉昭公の工夫なのだ。

 ちょうど好文亭の見学開始時刻になったので中に上がってみた。斉昭公自らが設計に参加したそうで、至るところに自作の書や漢詩が飾られているばかりか、荷運び用にこしらえた手動エレベーターや、陣太鼓の端材を利用してあつらえた円い窓などなど、作りに遊び心といささかの茶目っ気が感じられる。現在の好文亭は戦後に復元されたものだが、きっと殿様も面白がって作っただろうことがありありと伝わってくる。
 偕楽園の名前には、藩士や民衆がともに楽しめる場所であれという、斉昭公の願いが込められているのだそうだ。果たして当時その通りに使われたかはわからないが、こういう場所を作ろうとした斉昭公の心意気には感じ入るものがある。そして現在その願いは間違いなく実現している。
 その他、園内には石碑や渋い小径などが整備されており、梅は咲いていなくとも存分に散策が楽しめる。二周ばかり廻ってから隣接する常磐神社に参拝し、「義烈館」(注2)こと神社の資料館を見学してから、町の中心部に向かった。

 昼食を食べに市内の洋食屋「れんが家」の扉をくぐる。手作りハンバーグが評判の店で、荒井もそれを注文した。夫婦二人で切り盛りしているようで、シェフは旦那さん、接客や給仕は奥さん担当だ。15人ほどが入れば満席となってしまう小さな店だが繁盛しているらしく、昼が近づくとすっかり席は埋まってしまった。
 ハンバーグセットは、あつあつの鉄板の上にデミグラスソースとともに盛られたハンバーグの他、ライスとスープと食後のコーヒーが付いてくる。洋食屋さんだけあって、焼き加減が絶妙だ。「家でもこれぐらい焼げだらねぇ」とうらやましくなる。

茨城旧県庁
茨城旧県庁。もともと弘道館の敷地だったところに建てられている。

 先日訪れた水戸芸術館では、また別の企画展が開かれていた。こちらを鑑賞してから、駅方面に歩き出す。れんが作りの旧県庁の売店でチキンサンドを買い頬張る。旧県庁は県庁の分庁舎としていまだ現役で使われている。設備は新庁舎の方が充実しているが、建築様式を楽しむならばやはり旧県庁だ。
 さらに水戸藩校弘道館へと足は向かった。正庁こと校舎は学校らしく広々とした畳敷きの部屋が並んでいる。教室として多くの藩士が集っていたのだろう。中には最後の将軍徳川慶喜公が大政奉還後、謹慎生活を送っていたという部屋も残っている。
 弘道館も斉昭公の命を承け作られたものだ。歴史的には、斉昭公は尊皇攘夷(注3)を唱え幕末の思想に影響を与えた人物だ。とはいえ偕楽園といい、好文亭といい、弘道館といい、作ったものを見る限り、この殿様は切れ者であるばかりか、よほどの数寄者だったに違いない。
 敷地内の売店では拓本を売っていた。この道数十年のベテラン夫妻が営んでおられる。拓本とは、木版などに刻まれた文字を紙に写しとるという一種の印刷だ。話をうかがうと、拓本を刷る仕事は非常に気を遣う細やかな作業であるようだ。気泡が入り込まないように紙を載せたり、色むらが出ないように墨を打つなど、美しく仕上げるためには熟練した腕前が必要なのだ。
 水戸藩の勉学を尊ぶ気風を受け、幕末には数多くの名文が拓本用の原版となった。「当時こんなにたくさんの原版が作られたことには感心するばかりですよね。」とおかみさんは仰っていた。

 弘道館を出た後は、駅前をぶらぶらと歩いていた。七時が近づいた頃、大工町の「セブンイレブン」で夕食ののり弁と焼きそばとオレンジジュースを買い込み、ユースに戻った。


脚註

注1・「田中真弓」:たなかまゆみ。声優。少年役を得意とする。代表作「新・おそ松くん」のチビ太、「天空の城ラピュタ」のパズーなどなど。舞台女優としても活躍中。

注2・「義烈館」:名前は常盤神社の祭神、徳川光圀公と斉昭公の贈り名にちなんでいる。端材が好文亭の窓になったという陣太鼓も展示されている。

注3・「尊皇攘夷」:天皇の権威を尊び、外国勢を排除した国づくりをしようという幕末の思想。


荒井の耳打ち

旅人にも休息は必要だ

 実は、旅とはかなり疲れる行為です。面白いのでそれに気付かないだけなんですが、やっぱり疲れが溜まっていくと、倦怠感に襲われたり、病気になったりします。一番の予防法は、ときおり気に入ったところに連泊して休養をとったり、好きなことをして過ごすことです。旅を休んで活力を養えば、心身ともに余裕が生まれ、また旅を続ける意欲が湧いてきます。急ぐでもない長旅だったら、なおさらこうした時間をとることが大切になってきます。

たまには単車を降りてみる

 荒井はたまに一ヶ所に連泊して、単車を使わず周辺を歩いて見て回ることがありました。歩くと単車に乗っているとき以上に様々なものに目が向きます。単車で駆け足で見て回るのも楽しいですが、腰を落ち着けてじっくり見て回るのも、変化があっていいものです。旅の日常とは意外に地味なものでして、こうした変化を付けることが、健康に旅を続ける秘訣かと思います。

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