霞ヶ浦一周

アントラーズと神宮

 2日ほど水戸で一息ついた。水戸経由で乗鞍に向かってから約一月、今日から海沿い中心の道筋に戻るのだ。天気もこの上なく晴れている。出発には絶好の日和だ。
 八時頃に偕楽園ユースを引き払い、水戸を後にした。お隣ひたちなか市を横断し、国営ひたち海浜公園前に出て、新しい道で常陸那珂港に近づくと海が見えてきた。海を見るのもかれこれ一月ぶり、海沿い一周の再開だ。
 道筋にあった「那珂湊おさなか市場」に寄ってみた。スーパー程度の広さの建物に、何軒もの魚屋が集まる大きな海産物特売所だ。新鮮な魚介類から塩辛の類まであらゆる海産物が売られている。店先に並ぶ魚は季節柄サンマや鮭が多かったが、旬を先取りしてアンコウなども並べられていた。何か一つ買っていこうかとも思ったが、手持ちのコッヘルだけでは料理できないので、またのお楽しみということにした。
 酒列磯前神社(さかつらいそさきじんじゃ)にも参拝した。神社は素焼きの皿を割って願をかける「かわらけ祈願」が目玉だ。

 大洗町から国道51号線を南に走る。このあたり茨城県南東の一角、太平洋と霞ヶ浦に挟まれた地域は鹿行地方(ろくこうちほう)と呼ばれている。
 その中心都市、鹿嶋市の市街地に向かって走っていると、右手に大きなサッカー場、カシマスタジアムが見えてきた。言わずとしれたJリーグの強豪、鹿島アントラーズの拠点だ。あたりに背の高い建物や山がないぶんひときわ目立つ。街角にはいくつもアントラーズのエムブレムが飾られ、そのお膝元であることを主張している。

鹿島神宮
鹿島神宮。祭神は諏訪大社の建御名方と相撲勝負をして勝った建御雷神。

 常陸国一の宮、鹿島神宮はその鹿嶋市の中心部にある。スタジアムと並ぶ鹿嶋の顔だ。駐車場にDJEBELを停め、ひときわ立派な楼門をくぐるとすぐに拝殿が現れる。参道はさらに奥の方まで続いており、その先には奥の宮や、地震を封じているという要石などがある。境内はかなり広いが、その大半は社叢である。神社の境内には斧を入れない森がそのまま残っていることが多い。鎮守の森というやつだ。
 境内の一角では鹿が飼われていた。その名の通り鹿島神宮の神獣は鹿で、鹿嶋の地名もこれにちなんだものらしい。ついでに言うと「アントラーズ」のチーム名も鹿にちなんでいる。球団は毎年鹿島神宮に必勝祈願をしており、境内の一角には選手たちの意気込みが綴られた大絵馬も奉納されていた。まさに神宮あっての鹿嶋、アントラーズの鹿嶋である。

 参拝を終えたところで門前街を歩く。神宮格の大きな神社だけあって門前街も、石畳の通りを挟んで店が何軒も建ち並ぶ立派なものだ。「うちだや」なるみやげ屋併設のそば屋に入り、とろろそばの昼食にした。門前街にはなぜかそば屋が多い。ここもその一つで、店内にはアントラーズの選手のサインがずらりと飾られていた。選手も練習の合間に神宮に来ては、帰りにそばでもたぐっていくのだろうか。
 ここのそばは太めの堅いもので、山形のゴツいそばに慣れている荒井の口にはよく合った。店はおばあさん二人が切り盛りしている。どこから来たのと訪ねられたので、山形から来たんですよと言うと、大変だったねとねぎらってくれた。

 関東最大の湖霞ヶ浦を一周すべく、また内陸に入っていく。北浦にかかる長い橋を渡り、潮来市を横切ると霞ヶ浦が見えてくる。霞ヶ浦は平野の湖だ。周りには鬱蒼と茂った木や外輪山の類はなく、せいぜい葦が茂るぐらいで広々としている。
 湖畔沿いに一周したかったところだが道を間違え、湖の北にある石岡市に出てしまった。霞ヶ浦は湖畔まで集落が迫っているせいか、あたりは細い道が入り組み判りづらい。元の道に戻ろうと地図を取り出してみると、つくば市までそう遠くなかった。つくば市にもぜひ見学しておきたい場所があったので、霞ヶ浦湖畔一周ルートには戻らず、つくば市に向かうことにした。

 つくば市に着いたのは夕方だった。今日の宿は市内のキャンプ場「ゆかりの森」だ。受付時間終了間際に滑り込みで転がり込み、街に買い出しに出た(受付のおばさん、ご親切な応対ありがとうございました!)。近所のスーパーで惣菜のチキンカツを買い込み、キャンプ場に戻るとすっかり暗くなっていた。ヘッドランプの明かりを頼りにテントを張り、米を炊く。この日の夕食はあり合わせの材料を利用して、チキンカツカレーに、玉ねぎとジャガイモのコンソメ煮と張り込んだ。
 この「ゆかりの森」、林の間にある静かなキャンプ場なのだが、学園都市間近という便利のいいところにある。手入れも行き届いており、何よりシャワー室付で利用料が500円そこそこ、と良心的だ。林には数々の昆虫が棲んでいるようで、昆虫観察用の施設も併設されている。キャンプ場には高床式バンガローがいくつか設けられているが、見た目はチョコレート菓子「きのこの山」のようだった。

コスモ星丸に会う日

 いつもどおり出発の仕度をする。DJEBELを土の地面に移動して身繕いなどしていたら、重みでスタンドのところの土がえぐれ、倒れてしまったので大いに焦る。天気予報によれば、間もなく雨降りになるらしい。こうなると何をするのも億劫だ。七時半には「ゆかりの森」を出発し、近場の「セブンイレブン」で毎度おなじみツナタマサンドの朝食にした。
 つくば市で見ておきたかった場所は全部で三つ、一つは万博記念公園、もう一つは国土地理院の「地図と測量の科学館」、残る一つはつくばエキスポセンターだ。科学館とエキスポセンターの開館時刻までまだ間があったので、最初に万博記念公園に行くことにした。

 つくば市の名を一躍世界に知らしめたのは、ガマの油もさることながら、1985年に開かれた科学万国博覧会だ。当時科学少年だった荒井は、最新技術を集めた展示物や、未来的なパビリオンの数々を雑誌で見ては、憧れを抱いていたものだが、結局そのとき見に行くことはなかった。そこでせめてその痕跡ぐらいは見届けておきたいと、今回の日本一周ではつくば市にも寄ることにしたのだ。かつての科学少年は、中年間近になってたけど。

ぴゅんぴゅん峠
記念公園内にある「ぴゅんぴゅん峠」。一見ただの歩道だが、水害時には調整池の堤防となるよう設計されている。

 案内標識を手がかりに公園を探したが、なかなか見つからなかった。万博会場は閉幕後、一部を残して更地にされ、工業団地として民間に分譲されている。現在はパビリオンの替わりに企業の研究所や工場が建っているわけで、往時の面影を探す方が難しい。そのうち工業団地の一角に公園を見つけた。そこが万博記念公園だった。
 公園はその残された一部の会場で、当時の名前で言うと「エキスポパーク」、南側の中央にあった緑地公園にあたる。ソニーが出展していた巨大屋外ディスプレイ「ジャンボトロン」(注1)の置かれていたところだ。
 公園を歩いていると、随所に公園の見取り図が置かれてあった。長年野ざらしになっていたせいか、どれも文字さえ読めないほど色褪せている。かろうじて読めた説明書きによれば、万博があったことを記念して、当時の見取り図をそのまま残しているらしい。歩くうち比較的程度のいい看板を見つけたので調べてみると、ジャンボトロンの他、ロープウェイ「スカイライド」やエキスポプラザといった施設の名前が記されていた。
 かつてのジャンボトロンはテニスコートになっていた。スカイライドもエキスポプラザも解体され、今はもうない。当時作られたモニュメントがいくつか残されているくらいだ。公園は開催当時の華やかさとは縁もなく静まりかえり、老人たちがゲートボールに興じている。公園の人工湖や散策道は当時のままらしかったが、「ぼっちゃん湖」「ぴょんぴょん橋」といった、妙にふざけた名前だけが浮いていた。ちなみにゲートボール会場は「ぽっかりが丘」だった。
 とうとう雨が降り出した。開催当時のリニアモーターカーの発着所こと、公園管理事務所の軒先を借りて合羽を着込み、次の目的地、地図と測量の科学館に向かった。

つくばVLBI観測局
巨大パラボラことVLBI観測局。クェーサーからの電波を利用した測量施設で直径32メートル。写真は小冊子から。

 2万5千分の1地形図といえば山家にはおなじみで、荒井も何度かお世話になっている。それを作っているのが国土地理院で、日本国土の測量を主な仕事としている。その国土地理院所属の展示館がこの「地図と測量の科学館」だ。国土地理院と同じ敷地内にあり、測量用の巨大パラボラアンテナが目印になっている。なんでも宇宙から届く電波を利用して精密な緯度を割り出すためのものらしい。
 さすが日本の地図作りの総本山だけあって、測量の歴史、万国の地図の紹介などなど、展示は地図に関するものばかりだ。特に面白かったのが体験測量コーナーだった。目測で距離や角度を当てさせたり、四分儀を使って緯度を測定させたりといった展示がある。「もっと精度ば上げっつぉ!」と、年甲斐もなく熱中してしまった。
 屋外には20万分の1の縮尺で作った日本列島の球体模型がある。実際にその上に登って日本の領土を確かめられるという趣向だ。日本の国土は意外に広く、しかも球体模型だから傾斜がある。本来なら「俺はこの国土ば旅してんだよな!」と、感慨を新たにするべきなんだろうが、この雨のせいでセラミックパネル製の模型は滑りやすく、ズルズルと滑り落ちそうになりながらよじ登ったことしか覚えてない。

 科学館で半日を過ごし、筑波の学園都市に出た。残るは本日最後の目的地、エキスポセンターだ。もともとは万博の第二会場だったところで、青少年に科学の魅力を伝えるという目標のもと、現在は科学博物館になっている。呼びものは世界有数の規模のプラネタリウムのほか、宇宙開発や最新科学を紹介する展示物だ。
 エキスポセンターの一角には、科学万博を記念した展示もある。当時の様子を今に伝える写真や小冊子から、会場の模型、当時話題となった展示物などがほんの少し置かれてある。
 つくばの万博とはおそらく、科学という言葉にまだ憧れがあった時代の幸福な想い出なのだろう。時代は巡り、進歩というものに疑念が向けられるようになった昨今、人々は科学に対する関心を失っていった。とはいえいわゆる進歩と科学は本来別物だ。青少年の科学離れが叫ばれて久しい昨今、かつての科学少年はこうした施設の努力に声援を送りたくなるのである。週末だったせいか、体験型の展示物にはしゃいでいる子供さんが多かった。もしかすると、この中から未来の大科学者が生まれてくるかもしれない。

筑波万博マスコット・コスモ星丸
参考までに、コスモ星丸とはこんな奴。

 エキスポセンター内の食堂「レストラン滝」でラーメンの遅い昼食にしてからつくば市を出発し、隣の土浦市に向かった。都会的な高架道路でビルの屋上近くをかすめつつ、市の中心部へと入っていく。
 この日野宿するのは遠慮して、市内で見つけたビジネスホテル「つくし」(注2)に泊まることにした。雨に参っていた上、都会的な高架道路に気圧されたらしい。

 せっかく宿に泊まるのだからと、部屋に荷物を置き、歩いて周囲を探索した。土浦は霞ヶ浦の北西にある大都市で、ナンバープレートの名前にもなっている。周囲はもちろん土浦ナンバーの車ばかりで、走っている車の数も多い。
 映画館のある角を曲がり高架道路の下を横切り、駅前通りに出る。週末の閉店時刻間際だったせいもあるが開いている店は少なく、どことなく寂れた雰囲気が漂っている。街の近郊にある「ビジネスホテルつくし」の周囲に、大規模な量販店やファミレスが何軒か建ち並んでいるのとは対照的だ。他の地方都市同様、中心街の衰退に悩まされているのだろうか。夕食を食べに気の利いた飲食店でもないかと物色してみるが、思わしい店がなかなか見つけられない。そういやここに来る途中「すき家」があったような気がするが、チェーン店で済ますというのも味気ない。
 さいわい駅ビル「ウィング」がまだ開いていた。地下の食品コーナーもまだ開いていたので覗いてみると佃煮を売っている店がある。土浦は漁業や水運で栄えた街で、霞ヶ浦で獲れた水産物を使った佃煮は街の名物となっている。「常温でも二週間ぐらいは平気で保ちますよ!」という売り子のお姉さんの言葉に安心して、「小松屋」のえびの紅梅煮を一パック購入した。
 駅ビル内にある天ぷら屋「八起」で夕食に穴子天丼をかき込んでから外に出ると、駅前のイトーヨーカドーと丸井はすっかりシャッターを下ろしていた。歩いて「つくし」に戻り、部屋でテレビを見ながら、目の前の酒屋さんで買った眞露サワーを空けた。肴はもちろんさっきの佃煮だ。テレビでは「五能線で行く秋田の旅」みたいな旅行番組をやっていたが、荒井も行った黄金崎不老ふ死温泉が紹介されていた(入浴料の値上げはこれで知りました)。
 佃煮があると炊きたてのご飯が恋しくなってくるものだが、なぜか食べたくなったのはカルボナーラだった。結局宿のそばにあるファミレス「ジョナサン」に駆け込み、深夜料金まで支払う羽目になった。

関東のとっぱずれ

 宿に泊まると起きるのが遅くなる。朝八時に起き、九時に出発した。土浦駅東口の「ファミリーマート」でウィンナーロールとオレンジジュースの朝食にし、霞ヶ浦の南岸を走った。雨は止み、空は晴れていたが名前の通り、湖の上は霞がかっていて向こう岸はよく見えなかった。

 鹿嶋市に戻ったところで霞ヶ浦一周も終了である。鹿島神宮に再び参拝し、境内奥の御手洗の御神水で水を汲んでから、海沿いへと戻った。
 国道124号線を走り、鹿島港の南に来たあたりでさらに海に近い道へと折れた。海は防波堤を隔てたすぐそばまで迫っている。波が防波堤にぶつかっては大きく砕け、道の方までしぶきを撒き散らしていた。砕けるというより爆発だ。波煙で道までくもって見えた。

 広い利根川の河口を越え、千葉県銚子市に入った。街を抜け、目指すは一路、犬吠埼(いぬぼうざき)である。
 犬吠埼は「銚子は国のとっぱずれ」の狂歌の通り、関東地方の一番東に着き出した岬だ。DJEBELを駐車場に停め、まずは岬の灯台に行ってみた。真っ白に塗られたれんが造りの背の高い灯台で、中は一般公開されている。
 併設の資料館によれば、犬吠埼灯台は明治初期にお雇い外国人と日本人の職人たちが協力して建てたもので、日本で最も古い灯台の一つになっている。今でももちろん現役で、毎晩海往く船を導いている。てっぺんから海を眺めれば、断崖になっているのは岬の一角だけで、南北にはゆるやかな砂浜が続いていた。外洋に面しているせいか、白い波が引きも切らずに打ち寄せている。なるほど、鹿島灘の波は激しいわけだ。

影犬吠埼灯台
犬吠埼灯台のてっぺんから下を見る。灯台が高いだけに影も長い。

 岬に向かう遊歩道のそばには、観光客相手の食堂が何軒か建っている。売りはもちろん銚子で獲れた地魚だ。昼を大分過ぎていたせいか、どの店もちょうどいい具合に空いている。その中の一軒「船主」(ふなおさ)で、昼食にメ鯛(めだい)おろし丼を食べた。大根おろしと一緒に煮たメ鯛と、輪切りの大根煮を載っけたという丼で、煮汁がたっぷりかかっている。メ鯛の身を崩しながら、ぐずぐずに煮た大根おろしとご飯を煮汁に任せて一緒にすすり込むようにして食った。
 駐車場に戻ると、おばさん三人組に「山形から来たの?」と声をかけられた。岬の周囲は観光名所となっている。日曜日だったせいか、あたりは観光客の姿が多かった。おばさんたちも、国のとっぱずれに遊びに来たのだろう。

 銚子からすぐに九十九里方面に向かうつもりだったが、地図を見て行きそびれた場所があることに気が付いた。銚子の北西、佐原市(現香取市)にある下総国(しもふさこく)一の宮、香取神宮だ。地図によれば佐原市は霞ヶ浦のすぐ南で、霞ヶ浦一周の途中、鹿嶋市に戻る前に寄った方が近かった。「一周のついでに行げる距離だった!」と気がついてみても、現在地はとっぱずれだ。ともあれ、今行かなければ行く機会はなさそうだったので、急遽佐原市に向かうことにした。

香取神宮
香取神宮。夕方近くにあわただしく参拝した。

 旭市から北西に県道を走ること約20キロ、香取神宮にたどり着いたのは日が傾きかけた頃だった。大急ぎで参拝を済ませる。真っ黒な拝殿が精悍で格好良い。常陸の鹿島神宮同様、門前街もある。団子が名物で一本食べたいところだったが、時間が差し迫っていたのであきらめた。というのも佐原市にはもうひとつ、寄りたい場所があったのだ。佐原の偉人、伊能忠敬記念館だ。団子一本我慢したおかげか、かろうじて閉館45分前に滑り込めた。
 江戸末期の測量家、伊能忠敬は下総は佐原の出身である。その生涯や功績については方々で紹介されているからここでは置いといて、旅人には大先達として受け止められている。そうでなければ三陸は黒崎まで来るわけがない。展示は忠敬の生涯や功績を紹介するものが中心で、忠敬が測量に使った七つ道具や、作った地図の写しなども展示されている。
 忠敬の日本地図を初めて見たのは、小学校の社会科の教科書だったかと思うが、衛星写真と見まごうばかりの精緻さに驚いた覚えがある(記念館には伊能図と衛星写真を重ね合わせた展示がある)。それもそのはず、忠敬は非常にまじめな人物だったようで、「天測のために毎日決まった時刻に帰宅した」だの「一歩をきっかり69センチの歩幅で歩くことができた」といった逸話も残されている。とはいえ駆け出し旅人荒井としてはただ単に、全国津々浦々に行ったということがうらやましかったりする。

伊能忠敬記念館
伊能忠敬記念館。地元の人間は忠敬を「ちゅうけい」と呼ぶそうな。写真は小冊子から。

 記念館の周辺は古い街並みが残されており、散策路が整備されている。記念館の目の前には、水路を挟んで忠敬の旧宅まで残っている。ついでに、記念館でいただいた周辺散策案内図が、2万5千分の1地形図の裏面に刷られているのも洒落が利いている。時間をとって歩いてみるのも面白そうだったが、そろそろ日も暮れかけていたので、県道で再び旭市へと戻った。

 地図を見ても近場にキャンプ場はない。この日も横着して、旭市内で見つけた適当なビジネスホテル「デコ」に転がり込んだ。夕食は近所にあった「戸村食堂」という店で納豆ラーメンを食べたが、ただのラーメンにパックからそのまま空けたらしい納豆が載っかっているという、見たままそのままの一品だった。

 ところで、この日本一周記を書くにあたって戸村食堂について調べてみたが、大盛りカツ丼で評判の店だったらしい。日曜夕方だったにもかかわらず客入りもあって繁盛している様子だったのだが、店主さんが亡くなられたそうで、残念ながら03年末日をもって閉店したとのことだ。


脚註

注1・「ジャンボトロン」:資料によれば解像度は45万画素らしい。

注2・「ビジネスホテルつくし」:このときいただいた小冊子によれば、ビジネスホテル業の他にも、レストラン、淡水魚水族館、靴販売、カビ研究所など手広く事業を手がけている模様。他人事ながら、妙な手広さに心配になります。

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