泊まった宿「デコ」はすごいところだった。共同トイレの扉は開けっ放しで、どぎつい芳香剤の臭いが廊下にまで溢れてくる。客室備え付けの座卓はなんと電気ゴタツで、しかも夏冬兼用といった気の利いたものではなく、下に赤外線ヒーターが大きく張り出す代物だ。しかも「サクマ式ドロップス」の謎のステッカーまで貼られてある。そして階段の踊り場にはどこがよいと思って買ったのかわからない、羊の群れを描いたやけに真っ黒い絵が飾ってある。建物も築20年のマンションか校舎のような色気のなさだ。元々は会議場やレストランも併設していたようだが、開いている気配は全くない。そもそも「デコ」という屋号は何ゆえだったのか。
出発は朝の八時だったが、フロントには妙に愛想のない老婆が一人いるきりで、これまた愛想もない様子で番をしていた。あまりの廃れっぷりに「もののあはれ」なんて言葉さえ思い起こされたが、気を取り直して今日も出発である。
「セブンイレブン」のツナタマサンドで朝食にした後、日本一長い砂浜、九十九里に沿って南に走る。浜と道との間には松の防砂林があるため、なかなか海は見えなかった。野栄町(のさかまち・現匝瑳市(そうさし))に来たところでとうとう砂浜が見てみたくなり、DJEBELを停めて浜に行ってみた。
延々と見渡す限り続く砂浜を期待していたが、浜は小さな岬や岩場でときおり区切られ、遠くまで見渡せるというわけでもなく、やや拍子抜けした。他にも流木や海草、ゴミといった漂着物が累々と打ち上がっていたりする。
海に突き出した桟橋では、釣り人が何人か糸を垂れていた。これが九十九里浜かと、荒井が海を眺めていると、どこからともなくやってきただいぶ歯の欠けたおじちゃんに、どこから来たのと訪ねられた。
おじちゃんはすぐ近くの国民宿舎「のさか望洋荘」に務めているそうだ。そこの社長さんが荒井と同じ山形出身ということだった。山形に親近感を抱いているようで、話は弾んだ。
「山形といったら、古賀政男先生(こがまさお・注1)は知ってるかい? 若い頃先生が人生に疲れ切って、自殺しようと山形の温泉に行ったんだけど、そこがあまりにいいものだからすっかり慰められて、元気になって帰ってきたって話があるんだよ。日本の歌謡界は山形県に感謝しなければいけないんだよ!」
おじさんは日本一周にも憧れているようで、70ぐらいで隠居したら自転車で日本一周をしようと、今のうちから身体を鍛えてるんだとも仰っていた。
日本一周の途中「若いうちしかできないね」ということをよく言われたが、必ずしもそうではない。若い方がやりやすいことは確かだが、70歳を過ぎても自転車をこいで日本中を旅している方には何人も会ったし、自転車でなくとも、定年後に車で日本を廻っている方も何度か見かけた。思い切って飛び込んでしまえば、意外とできてしまうものなのだ。もっとも、「できない」と思っているうちは何もできやしないけど。
「旅の途中で宿はどうしてるんだい? 国民宿舎なら、九時ぐらいまではフロントに人がいるから、それまでに手続きを済ませば4000円ぐらいで素泊まりできるよ。夕食が食べたいなら、板前さんの都合で四時までには予約しないとダメだけどさ。」と、国民宿舎勤務らしい助言をいただいてからおじさんと別れた。
ところでその後日本一周を終えてから、古賀政男が逗留した山形の温泉について調べてみたが、県内にそれらしいものはなかった。そのかわり蔵王を越えた宮城側、青根温泉で人生の憂さを慰められ「影を慕いて」を作ったという逸話が残っている(注2)。宮城蔵王の青根温泉を、山形にあると勘違いしていたのだろう。おじさんは日本一周の際、青根温泉にも寄るのだろうか。
上総国(かずさこく)一の宮、玉前神社(たまさきじんじゃ)がある一宮町までは、まっすぐで広い、気持ちのよい道路が続いた。知らず知らずDJEBELの速度も上がっていたらしい。そこでふと道ばたを見ると白バイの姿があったので、あわてて速度をゆるめたが時すでに遅し、サイレンを鳴らしつつ追ってきた。
違反切符を切られるかと思ったが、幸か不幸か「今日は指導が目的だから」と、指導だけで済んだ。とはいえ「千葉は交通事故死者数が全国3位だから、気をつけなさい。」と、しっかり釘を刺された。「このあたりでは頻繁に取り締まりをしてるから。」とのおことばに、しばらくは法定速度を遵守して、おそるおそる走る。白バイは見る分には格好いいが、追われるのだけは勘弁だ。
長旅の最中、こうした取り締まりは要注意である。速度超過の罰金は高いし、免許証の点数が減るのも怖い。旅の途中で免停になって継続不能なんて事になったら泣くに泣けない。あまり飛ばさない荒井でさえこうなるのだから、気をつけるに越したことはない。
途中ホームセンターに寄ったり、九十九里町で日本一低い一等水準点(注3)を探したりと道草はしたのだが、基本的にまっすぐ走り、昼頃には玉前神社に到着した。神社は町の中心部、商店街の中にこぢんまりと建っている。一見村のお社だが崇敬篤いようで、中高年の団体客が見学に来ていた。境内には銘水があって、誰でも飲めるようになっている。
近所の「セブンイレブン」でハムカツサンドとヤマザキアップルパイを買って簡単な昼食を済ませてから、さらに南を目指して走り出した。房総半島の太平洋側、外房もようやく半分あたりである。
海水浴で有名な御宿町にさしかかった。浜に向かう道にはホテルや民宿がひしめきあっている。入り江にある砂浜は広く、夏は相当の人で賑わうことがうかがえたが、冬を目前に控えただけあって、人の姿は希だった。
そんなところにラクダに乗った王子とお姫様のブロンズ像がぽつんと建っている。童謡「月の沙漠」の像だった。そういえば「月の沙漠」は御宿ご自慢の砂浜に着想を得て作られたという話は聞いたことがある。
そのブロンズ像を見据えるところに「月の沙漠記念館」がある。「月の沙漠」の作者、加藤まさをの生涯と業績を紹介する施設で、「月の沙漠」にちなんでか、童話の城のような形をしている。まさをは大正から昭和にかけて活躍した抒情詩人で、青年期、御宿を訪れたのをきっかけに「月の沙漠」の詩を書いた。その光景は終生忘れられなかったようで、最晩年には御宿に移り住み、この地で生涯を閉じている。
記念館を出ると、今度は太ったおじさんが話しかけてきた。DJEBELの山形ナンバーを見て興味を持ったらしい。「昔、米沢興譲館(よねざわこうじょうかん・注4)に通ってたことがあるんだよ。」と、校歌まで歌ってくれた。さっきの国民宿舎といい、日本を旅していると、いろんなところで郷土と縁のある人と会うものである。
隣の勝浦市、シーワールドのある鴨川市はほぼ素通りして、房総半島の先端、館山市にさしかかると、道の脇に椰子の並木が立っていた。本州の椰子。無論雪国東北では、椰子など鳴子熱帯植物園(注5)ぐらいでしか見られない。直線距離にしてたかだか400キロ前後とはいえ、ずいぶん東北から離れたところへ来てしまった。
同じ千葉県でも、昔は上総、下総、安房と三つに分かれていた。方々を旅して廻っていると、旧国名が今でも根強く残っているのに気が付く。現に今いる「房総半島」の名前も、千葉の旧国名にちなんでいる。
房総半島の先端は、旧国では安房国にあたる。安房神社は文字通り安房国の一の宮で、南側から館山市に入ってすぐの所にある。白い砂利を敷き詰めた境内は夕方近かったせいか人もあまりおらず、参拝も至って静かなものだった。ついでに、ここの賽銭箱が大きくて立派な御影石製で、中の賽銭を取り出すのに苦労しそうだなと、よけいな心配をしてみせる。
房総半島最先端の岬、州崎にも寄ってみたかったが、駐車場がすでに閉まっていたためあきらめた。岬の近くには安房国もう一つの一の宮、州崎神社もあるのだがこのときはその存在を知らなかったので、全く素通りしてしまったことが悔やまれる。
そのまま館山市街地まで出た頃には日も傾いていた。テントを張る場所を探そうと地図を広げてみると、近所の大房岬(たいぶさみさき)にキャンプ場があることがわかった。
キャンプ場の場所を教えてもらおうと、岬の入り口にある駐車場の管理事務所に寄ってみると、眼鏡をかけた品の良さそうなおばさんが一人、中で番をしていた。話をうかがうと、キャンプ場を利用するためには予約が必要らしい。そんなことを知らない荒井は予約などしているはずがない。そこでご親切にも、電話でキャンプ場に連絡して、飛び込みでも利用できるかどうか尋ねてくださった。どうやら大丈夫らしいとのことで、さらにその先にあるキャンプ場、大房岬ビジターセンターへと向かうことにした。
おばさんの電話のおかげで、キャンプ場利用手続きは滞りなく済んだ。本来は予約をした上、3時までに手続きを済ませなければならないのだが、季節外で人もいないから今回は特別ですよということで利用させてもらえることになったようだ。感謝しきりである。おばさん、ビジターセンターの職員さん、ありがとうございました! さっそくテントを張り、土浦で買った海老の紅梅煮と、適当にこさえたじゃがいも煮とご飯で夕食にした。
州崎を境に房総半島は外洋の外房から東京湾に面する内房へと変わる。このビジターセンターは海のすぐそばにある。内房にある大房岬は波もおとなしいはずなのだが、この日は風が強かったせいか、波もえらく高かった。ドサリドサリと大きく波打つ音が、一晩中絶えなかった。
起きる頃には風も波も収まっていた。天気もよく、キャンプ場の展望台に行ってみると、目の前に大きく富士山が現れた。左手には伊豆半島や大島さえ見える。富士のてっぺんは雪までかぶっていた。
大房岬は東京湾の入り口に近いため、かつては軍の防衛施設が置かれていた。キャンプ場そばにはコンクリート製の砲台跡や、サーチライトを隠し置いた要塞跡があり、見学に供されている。おそらくビジターセンターは軍の跡地を利用して建てられたのだろう。
岬の西は断崖で、その中腹に一つ、ぽっかりと大きな洞穴が空いている。こちらはその昔悪さをする龍神が閉じこめられたとも、奥をずっとたどっていくと館山に出られるとも言われており、大房岬名所の一つとなっている。
岬を出発したのは七時過ぎだった。朝から開いている商店など探しつつ内房を北上するが、「セブンイレブン」以外の店がなかなか見つからなかった。出発以来、朝食に「セブンイレブン」のツナタマサンドばかり食べていたせいか、たまには「セブンイレブン」以外で食べたくなっていたのだ。
内房の漁師町を結びながら北上することしばらく、とうとう富津市(ふっつし)の上総湊(かずさみなと)駅前まで来てしまったが、ここでもお目当ての店は見つからなかった。逆に言えば「セブンイレブン」は内房の漁師町にさえ何軒もあったわけで、その規模には改めて驚き呆れた次第である。
時間はちょうど登校時刻、駅は近所の高校に通う生徒であふれていた。駅を出て学校に向かう高校生は皆という皆、なぜか歩道橋があるにもかかわらず、駅前の交差点にさしかかると、行列なして律儀に信号が変わるのを待っていた。一人ぐらい、待たずに歩道橋を渡る奴がいてもよさそうなものなのだが。
ご飯にありつけないまま走っていると、そのうちDJEBELの燃料まで心細くなってきた。富津岬の基部まで来たところで、まずは我がDJEBELに燃料を与える。
ガソリンスタンドの店番をしていたおばちゃんと少し話をした。昨日はここ、富津市でも風が強かったそうだ。何でも木枯らし一号だったとか。「この時期バイクじゃ寒いでしょう?」と優しい言葉をかけてもらった。なるほど、季節は確実に冬に向かっているのだ。
富津岬は西に向かって東京湾に突き出した岬で、対岸横須賀の観音崎と対になって東京湾の関門となっている。船はこの狭い海峡をSの字を描くように曲折せねばならず、東京湾に出入りする船の難所となっているそうだ。岬の先端には変わった形の展望台が建っていたが、安全上の理由とのことで閉鎖されていた。
岬の先端は砂利がちな浜で、海まで行けるようになっている。沖では船外機を付けた小舟が何艘か、盛んに行き交っていた。おそらく地場の漁師が何かの漁をしているのだろう。海に浮かぶ海堡(かいほう・注6)跡をはさんだ対岸は横浜・横須賀の街並みで、ランドマークタワーや横浜ベイブリッジが見える。さらに奥には相変わらず富士山が控えていた。
富津岬から戻ったところで「ヤマザキデイリーストア」を発見した。待望の「セブンイレブン」以外の店である。ここでカルボナーラ(よく食ってるよな)とオレンジジュースの遅い朝食にして一安心したところで、千葉県の県庁所在地、千葉市に向けて走りだした。
富津岬を越し、国道16号線に合流するあたりから、沿線は急に灰色がちになってきた。高い煙突が煙を上げているのも見える。工業地帯に入ったのだ。室蘭で見た製鉄工場のような巨大工場が、沿線数キロに渡って並んでいる。いかにも危ない物質を扱ってるぞとでも言いたげな、銀色のパイプだらけの化学プラントも遠巻きに見える。片側3車線はある道路には、化学薬品満載の大型タンクローリーや大型トラックが目立ってきた。道はそんな車だらけで渋滞気味で、なかなか先へは進めなかった。
渋滞の中着々と北上し、昼前には千葉市にたどり着いた。
千葉県庁は国道16号線から少し逸れたところにある。20階建ての本庁舎と、その半分くらいの高さの中庁舎。掘割に面した駐輪場は自転車だらけで、DJEBELを停めるのに苦心した。中庁舎のロビーには「千葉の特産品」として落花生はもちろんのこと、その筋の方にはそのマスコットキャラクターが大人気の千葉米「ふさおとめ」なんかもしっかり展示されている。
本庁舎19階はベンチ付の展望回廊になっており、千葉市の様子が見えるようになっている。空気は濁って遠くの方は空か地面かわからないほどにじんでいたが、目に入ってくる多くは背の低い住宅やら商店やらだった。やけに地味な展望である。
ところでこの日宿で見たテレビで知ったことだが、千葉県は平均標高が最も低く、全国で一番「平らな」県らしい。どおりで山が見えないわけだ。
どこだかのSF作家は、あるサイバーパンク小説の舞台を千葉に求めたが、あれを東京にしなかったのは絶妙だと思う。東京ではまるきり、ジュリーが電飾付のパラシュートを背負って出てきそうだから(注7)。
県庁食堂はカフェテリア式だが、店はずいぶん小さかった。そのかわり造作に気を遣っているようで、居心地はすこぶる良い。本日の日替わり、カキフライ定食を取る。みそ汁の実は岩のりだ。麦飯が選べたので一つ盆に取ると、とろろ汁も目に入ってきたので、「これは麦とろさすろってごどだな?」とこちらも付ける。
レジのおばちゃんは大型ザックを背負った荒井を見て外来者とわかったのか、調味料はこちら、下膳口はあちらと詳しく教えてくれた。もっとも、方々の県庁食堂を食べ歩きしているのでだいたい勝手はわかるのだけど。
国道14号線で都内を目指す。日が傾く前に都内のユースに予約を入れておく。一ヶ所に連泊して二、三日東京見物でもしようという算段だったが、定員の都合で同じ所で予約が取れず、結局浅草のユースに一泊、代々木のユースに二泊することになった。あいかわらずの行き当たりばったり具合である。
習志野、船橋、市川と、国道沿線は賑やかな商店街が続いた。商店街が道にせり出しているような具合で、実際の幅員以上に狭く感じる。市川の市役所前で浦安に向かって県道に乗り換えた。
千葉と東京の境はよくわからない。県境があらかた川と一致する千葉県、江戸川が東京都との境界にはなっているのだが、東京ディズニーランドが江戸川の東、千葉県浦安市にあることは有名だ。東京モーターショウが開かれる幕張メッセも千葉県にあることは、この旅で初めて知った。
「千葉ディズニーランド」や「千葉モーターショウ」にしろとまでは言わないが、枕詞としては「東京」の方が何となくかっこいいと思ってしまうのだろうか。かの「ビートルズ」に「東京」を付けたら、あの「東京ビートルズ」になってしまうというのに。
地図を見るために安全そうな路肩に寄ってみると、分不相応なメルセデスに乗ったオヤジに邪魔だと怒鳴られた。
浦安市街を抜け海沿いに走っていると、件の江戸川手前にある東京ディズニーランドが見えてきた。道は土浦以上に高架道路ばかりでこれまた車が激しく行き交っている。つくづく都会で車に乗っている方は、よく迷いもしないものだなと関心してしまう。夕日に映えるシンデレラ城を尻目に江戸川を渡れば、そここそ東京都である。
新木場のさらに南にある若洲海浜公園手前でようやくDJEBELを停め、落ち着いて地図を広げることができた。本日の宿、浅草の「スカイコート浅草ユースゲストハウス」までは、新木場から伸びている明治通りを使うのが一番手っ取り早いらしい。とりあえず近くまで行けば勘でどうにかなるだろうと楽観して走り出した。ここからまた内陸探索コースに入っていくという形になる。
東京の通りの名はわかりづらい。例えば「明治通り」は「都道306号線」であるのだが、現場に行ってみると「明治通り」の表示はよく見かけるものの「都道306号線」の表示はほとんど見かけない。
こんな具合に、地図には「都道○号線」という名称こそ出ているのだが、現場に行ってみると番号表示がなく通称の表示しかないので、おのぼりさんの荒井にとっては、どこを通っているのか、どこで曲がればいいのかがさっぱりわからないのだ。このあたり、都ももちろんのこと、地図会社にも考えていただきたい。
明治通りで浅草まで出て、予想通りひとしきり迷った後、予想通り勘でなんとか探り当て、本日の宿にたどり着いたのだった。
「スカイコート浅草」は、ホテルが客室の一部をユースとして提供しているのだが、相部屋ではなく個室があてがわれる。設備も整っており至って清潔、しかもテレビ見放題なら夜更かしもし放題である。そのかわり一泊料金は平均的なユースの2倍ほどするが、この水準のビジネスホテルに割安料金で泊まれると考えれば相当に安い。もちろん悪夢のような羊の絵なんか飾られていない。こんな所に貧乏旅人荒井が泊まっていいのだろうかと心配になるほどだったが、フロントの皆さんの応対は至って丁寧でほっとするものを覚えた。宿は海外からみえた方の利用も多く、ロビーでは大きな荷物を持った金髪の方々を何人も見かけた。
宿のすぐそばには観光名所浅草寺がある。荷物を置いて見物に行った。
裏の方から境内に入る。夜だったので人は少ない。仲見世に出る宝蔵門には全長4.5メートルの大草鞋が一双掛けられてある。荒井の地元、山形の村山市の奉賛会が浅草寺に奉納したものだという話を承っている。
仲見世の商店も多くは閉まっていたが、境内に比べると人の姿は増えていた。仲見世と直交する新仲の商店街に行くともっと増えた。
その一角にある「宮田レコード」に寄ってみると、店の半分は演歌のCDとカセットで占められていた。店の方に「すごい品揃えですね!」と興奮気味に話しかけてみると、「周りの店が演歌を扱わなくなったから、いつの間にかこうなっちゃったんですよ。」と笑いながら仰った。ここで荒井が前々から探していた、美空ひばりがジャズナンバーを歌ったアルバムを見つけることができたので、出たばかりの山下達郎の新譜と一緒に購入した。こういう店が平然とあるところに、さすが浅草と感心した。
夕食は角に面した「あづま」という食堂で穴子丼と千枚漬けを食べた。店の隅では着物のおばさんが三人、字面通りかしましくおしゃべりに興じていたが、みんな山手言葉でしゃべっていた。
注1・「古賀政男」:こがまさお(1904〜1978)。昭和時代を代表する作曲家。代表作「影を慕いて」「東京ラプソディー」「丘を越えて」などなど。どこか哀調を帯びた作品の数々は「古賀メロディー」として、年配の方を中心に今なお多くの人々に愛されている。
注2・「青根温泉」:宮城蔵王にある温泉地。古賀政男の記念碑も建っている。
注3・「一等水準点」:国土地理院による測量の際、基準となる点のこと。
注4・「米沢興譲館」:山形県立米沢興譲館高等学校。米沢市にある。上杉藩の藩校を前身とする県内有数の進学校。
注5・「鳴子熱帯植物園」:宮城県は鳴子町、中山平温泉にある熱帯植物園。温泉熱を利用して、熱帯植物が栽培されている。
注6・「海堡」:海上に作った要塞。砲台や迎撃用の施設があったとか。
注7・「ジュリーが電飾付の」:「沢田研二」と「TOKIO」で検索してみてください。