ついに都庁へ

 七時過ぎに起きる。天気はすばらしくよい。宿のレストランがすでに開いていたので、モーニングセットの朝食にした。トーストにオムレツ、生野菜、スパゲティサラダ、フライドポテトという献立で630円。都会の宿だけに値段も高めだが、宿を利用する海外からの旅行客が多いせいか、利用客もなかなかに多い。水のせいかコーヒーがずいぶん渋かった。朝食後宿を引き払い、本日最大の目的地、都庁目指して出発した。

 これまでの行程でも東京は2度ほど訪れているが、肝心の東京都庁に行ったことは一度もなかった。そのときはどちらもゆうさんに会うのが目的だったので、都庁に寄ることは全く考えていなかったのだ。今回いよいよ、日本最大の地方行政庁舎へと向かうのである。

 都庁は皇居を挟んで浅草とはまるきり反対側、西新宿にある。直線距離にして10キロそこそこなのだが、東京の道はやたらに入り組んでいる上、しかも荒井に土地勘はない。例によっておおよその見当を付けたら、ない土地勘をあてにして探し当てるだけである。
 新宿へ近づきはすれど、なかなかお目当ての都庁の姿は見えてこなかった。途中どこを走ったのかはよくわからない。上野公園裏の狭い路地に迷い込んだような気もするし、皇居前を走ったような気もする。六本木あたりの商店街を通ったような覚えもあれば、柵越しに首都高と併走したような覚えもある。

東京都庁
日本一有名な行政庁舎・東京都庁。大阪万博などで知られる建築家丹下健三のデザイン。

 かくしてさんざん東京の街をさまよった末、都庁に着いたら十一時を過ぎていた。ところが今度はどこにDJEBELを停めればいいのか判らなかった。県庁はすぐ近くに駐輪場があるものなので、単車もそこに停めることになっている。だが都庁に限ってはそうしたものが見あたらないのだ。
 とりあえず、第二庁舎前にいた警備員の方に「駐輪場はどこですか?」と尋ねてみると、「新宿駅と都庁の間の地下道にあるよ。」と親切に教えてくださったが「でも、ここから駐輪場へ行くと遠回りになるから、路上駐車する人の方が多いね。」と付け加えていた。荒井もそうしようかと思ったが、その割に路駐している二輪車は一つもなく、あたりはきれいさっぱりとしている。「路駐はまずいんでねぇべが?」と思い、結局遠回りして、律儀に駐輪場に行った。
 例の駐輪場は、新宿西口から都庁へ向かう道路の途中にある地下道の左側、駅と都庁の真ん中ぐらいの位置、都庁からだと駅前のロータリーまで出なければ行けない場所にある。なるほど遠回りだ。にもかかわらず停まっている二輪車は多く、ここでも空きを見つけるのに苦労した。人目にも付きにくいので盗難も心配だ。こんな時のために盗難防止用の立派なチェーンロックを持ち歩いてはいるのだが、それでもこんなところに長時間、愛車DJEBELを置いておくとなれば安心はできない。

 昼までもう時間がなかった。都庁食堂の場所を調べる時間もない。とりあえず都庁地下のレストラン街にある食堂の一軒「たまご屋さん」に駆け込み、たこのペペロンチーノの昼食にした。スパゲティのゆで時間がある分料理が出てくるまで時間がかかるだろうと、待ち時間に日記をつけようとメモ帳を取り出してみたが、予想に反してすぐに料理が運ばれてきた。時間のない職員向けにすぐ出せるよう工夫をしているのかもしれない。ところで店の名誉のために一応書いておくが、たこのペペロンチーノは結構旨かった。
 その後都庁を見学した。三階分は吹き抜けになっている入り口ホールの広さといい、動いているエスカレーターの数といい、行き交う人の多さといい、これまで見てきたどの県庁よりも巨大だった。さすが「Metropolis Tokyo」。庁舎内の本屋を冷やかしてみると、都知事にちなんで石原慎太郎の本コーナーなんてのがあった。都知事本人は知っているんだろうか。
 展望台は都庁の特徴ともいえる双塔のそれぞれに一つずつあり、どちらも45階、地上から202メートルの高さである。誰でも気軽に行けるので、展望台への直行エレベーター前にはちょっとした行列ができていた。
 エレベーターで展望台に行く。分厚いガラス越しに東京の街並みを眺める。空気が澄んでいたせいか富士山さえ見えた。北西に見える三角の建物が中野のサンプラザらしい。都庁すぐ下には新宿中央公園が見えた。工事用のブルーシートでこさえたテントが目立ち、浮浪者など多くいそうな気配である。さすがに神宮寺三郎(注1)はいないだろうけど。
 展望台の喫茶店「ノルテ」に腰を落ち着け、ストロベリーワッフルなぞたしなみながらあたりを見回してみると、平日であるにもかかわらず観光客は多かった。東京見物に来た年配の方から、修学旅行の自由行動の一団らしい中学生、中国語を話す方もいれば金髪の外人さんもいる。都庁は東京の観光名所としてすっかり定着しているようだった。

 できればとっとと今日の宿「東京代々木ユースホステル」に行きたかったが、チェックインまでにはまだ大分時間があった。てきとうに時間をつぶすため、甲州街道で立川市方面まで行ってみた。こんなときは都内の名所を訪ねてみる方が面白いんだろうが、さんざん迷ったこともあり、重装備のDJEBELで都内を走るのは敬遠したかった。
 二十三区を出て、調布市、府中市を横断し、ひたすら西へと走る。距離にして30キロほどだが、車が多く流れは滞りがちで1時間ほどかかった。そしてようやく立川市に着いたところで何するでもなく駅前をぐるぐる廻って、やはり1時間かけて新宿に戻ってきた。
 東京も立川あたりは武蔵野に属するが、ここもなお人も商店も多く、栄えている様子だった。昭和の初め、武蔵野はまるきり辺境の田園地帯だったそうだ。戦後の高度成長期あたりから人々が東京に集まり、辺境にまで広がっていった結果、武蔵野は今日日の姿になったとか。すそ野に向かって転がり落ちた砂山の砂を思い浮かべる。スプロール、というやつだ。
 ところでその後、代々木に古賀政男の記念館があることに気が付いた。「立川なんか行がねでこっちば見学すりゃいがった!」と思っても後の祭りである。立川だったら山形にもあるし(注2)。

オリンピック記念青少年総合センター・センター棟
ユースがある代々木の記念センター。形といい色づかいといいやけに現代的。

 新宿から代々木までは目と鼻の先、山手線では隣り合わせの距離でしかないが、たどり着くまでまた迷い、ユースに着く頃には、日はすっかり暮れていた。東京の道で嫌なのは中央分離帯だ。行きすぎてもUターンはできないし、目的地が反対車線にあっても右折して入ることもできないのだから。おかげで道の反対側にユースを見つけても、そちらへ行くためにえらく骨を折ることとなった。
 東京代々木ユースホステルは、オリンピック記念青少年総合センターという運動施設の中にある。センターはもともと東京五輪の選手村だったところだ。その設備が改装された上、現在は青少年向けの合宿施設として使われている。宿泊棟は全部で4つあり、そのうちの60室がユースホステルとして供されている。一泊3000円でしかも個室、どこへ行くにも至って便利がいいので、予約が取りづらい人気の宿となっている。チェックインの際、部屋の鍵と引き替えに2000円預ける必要があるので、利用しようという方はお忘れなく。

 談話室に行ってみると、アジア系の青年とヨーロッパ系の青年が英語で何か盛んにおしゃべりをしていた。そのうちヨーロッパ系の青年がどこか行ったのだが、するとアジア系の青年が流暢な日本語で話しかけてきた。中国人かと思っていたら、れっきとした日本人だった。そこで一緒に飯でも食いに行こうかという話になって、敷地内のカフェテリア「ふじ」で、夕食を食べながらあれこれ話をうかがうことになった。

 彼は近所、東京の中野の出身で、母親と彫刻家の姉、脳性麻痺を患う妹さんがいる。思うところあって大学を中退し、哲学を学ぶため渡米し、2年ほど翻訳の仕事をして食べているのだそうだ。今回の帰国はビザの再取得のためとのこと。荒井より三つばかり年下なのだが、荒井がたじたじになるほど押しが強い。さすがアメリカ仕込みだなと関心する。憧れているだけあって哲学への造詣が深く、日本の哲学を海外に紹介する仕事がしたいと語る彼の目には強い意志が光っていた。

 ちなみに「ふじ」の夕食は三種類ほどの定食から好きなのを一つ選んで、その食券を買う形になっている。この日食べたのは和食セットで、鶏の照り焼き、ほうれん草と油揚げのおひたし、みそ汁、サラダ三種類にオレンジジュースだった。夕食は670円と高めだが、その分サラダとジュースはおかわり自由となっているので、二人とも元を取ろうと何度かおかわりした。

買い物遠征1

 この日は秋葉原まで行ってみることにした。DJEBELは使わない。歩いていくのである。サブザック(注3)に地図だけ詰め込み、外神田の秋葉原目指して出発である。

 前年私用で東京に来たとき、品川区の西大井から日本橋の道路原標まで8キロほど、歩いたことがある。光学機器会社ニコンのお膝元、光学通りを始点に品川駅前を通り、「忠臣蔵」で有名な泉岳寺を見物してから国道1号線に出て、慶應大学の学舎や東京タワーなどを脇目に道なりに歩いた。官庁街を縦断したところで法曹会館の地下食堂で中華丼の昼食にした。皇居や東京駅をかすめつつもう一歩きし、日本道路原標にたどり着いたのは昼下がりだった。初めて見る日本橋。感激もひとしおだった。東京は自前の乗り物で廻る所ではない。車に乗っている限り目の前には「東京」しか現れないが、車を降りた途端に「江戸」が見えてくるような気がする。

明治神宮空撮図
明治神宮。広大な森は都会の海に浮かぶ島である。写真は由緒記から。

 明治神宮はユースの近くにある。隣接する代々木公園入り口にはブルーシートや段ボールで作った簡易テントが並んでいた。ホームレスの住まいである。テント村を突っ切るのは何となくはばかられたので、別の入り口から境内に入った。境内では菊の品評会の準備など進められていた。
 明治神宮はその名の通り、明治天皇を祀る神社である(注4)。明治天皇崩御後、その遺徳を偲んだ人々の要望で建てられたのが、この明治神宮なのだそうだ。明治神宮といえば日本一初詣客の多い神社でもあるが、彼らは明治天皇に参拝しているわけである。正月でも何でもない平日の朝で境内は空いていたが、巨大な賽銭箱に参拝客の多さが察せられた。その傍らには全国から奉納された御神酒や供物がずらりと並べてある。あの世の明治天皇も食うものには困るまい。
 都心でもひときわ目立つ神宮の森はもともと彦根藩井伊家の所領だったそうだ。佐幕派の重鎮だった井伊家の土地が、勤王派が奉った人物を祀る神社になってしまったところに歴史の皮肉を感じる。

 「パサデナまでははるかに遠い」神宮外苑から、神宮球場を脇目に青山通りに出る。皇居につきあたったところで国会議事堂を背負う形で北に曲がった。右手の堀はずいぶん下の方にある。九段坂に出たところで東に折れれば「光るタマネギ」こと擬宝珠を戴く武道館も間近である。

 次に寄ったのは何かと物議の種になっている靖国神社だ。通称靖国通りを挟んで皇居の北側にあり、境内は東西に長くなっている。鳥居が東側で拝殿が西側だ。境内ではうどんを食べさせる出店なんかも営業している。
 神社は太平洋戦争で戦死した方々やいわゆるA級戦犯者を祀っていることで有名だが、由緒記によれば明治維新で志半ばに倒れた志士たちを追悼するために作られた「東京招魂社」がその前身となっている。とはいえ祀られているのは吉田松陰や坂本龍馬といった、新政府の礎となった要人たちで、井伊直弼や新選組、白虎隊といった佐幕派の要人は祀られていない。新政府に反旗を翻した西郷隆盛も祀られていない。それがやがて、日本の国のために命を落とした人々を祀る神社へと変わっていったわけだ。神社のご神体は祭神となってしまった方々の名前を記した名簿である。
 もともとが追悼施設で、祭神も神話の人物ではないから御利益はなさそうだ。というわけで亡くなった方々の冥福を祈るだけにしておいた。坂本龍馬も神様として斉かれることは少しも望んでおるまい。東京だよ、おっ母さん!
 境内は意外に小さかった。国会議事堂も首相官邸も目と鼻の先だった。政府要人がここに参拝すると大騒ぎになるが「こんた狭い範囲で起ごったごどで、世間は大騒ぎしてだのがねぇ。」と、思ってみたりなんかする。
 ところで、世間には西郷隆盛を祀る神社もあれば、徳川幕府の神社「東照宮」もある。佐幕派の会津藩主松平容保は晩年、東照宮の宮司を務めていたそうだ。新政府が奉った明治天皇も明治神宮に祀られている。こんな具合に何でもありの無節操さとおおらかさが、神社の面白さの一つである。

靖国神社由緒記
靖国神社由緒記「やすくに大百科」。子供にもわかりやすいつくりに神社の努力がうかがわれる。

 そこから神保町を横断すれば秋葉原まではすぐである。神保町の一角は古本屋が多く、この日も青空古本市が開かれていた。寄り道しつつ秋葉原に着いた頃には昼も近くなっていた。
 秋葉原に来た目的はレトロゲーム漁りだ。昔のコンピューターゲームというものは売られているところも品揃えもごく限られている。少し変わったソフトを手に入れようとすれば、相当に探し回る羽目になる。特に田舎ではもともと中古市場が小さいため、さんざん探してもさっぱり見つからないことも多い。ところが日本最大の電気街、秋葉原にはそうした古いゲームソフトを専門に扱う店も何軒か建っており、田舎の山形に比べ品揃えも段違いなので、変わったソフトでも探しやすいのだ。それでこの日も昔から探していたソフトを見繕いに来たわけである。
 荒井の日本一周がもともとレトロゲーム漁りに端を発していることは前にも書いているが、レトロゲーム好きは相変わらずで、旅先で出物を見つけてしまった場合、荷物が増えるにもかかわらず、購入してしまうことがしばしばだった。時にはこんな具合に腰を据えてレトロゲーム探しに精を出すこともあったが、日本一周の旅人だというのによくやるものである。

 何軒かの店を物色するうち、あたりは暗くなっていた。ずいぶん熱心に探していたらしい。この日買ったのはセガのゲーム機「メガドライブ」用のソフトが2本と、古いゲーム音楽CDが1枚だった。「肉の万世」でみそかつ食事セットの夕食を食べてから、電車で代々木に戻る。ユースに戻ってからは備え付けのコインランドリーで洗濯を済ませたり、風呂に入ったりと雑事をして過ごしていた。

 もともと荒井は昔から、何か変わったものを探すのが好きである。中学生の頃は弁慶の刀狩りのごとく、変わった缶ジュースを探すのに燃えていた。今でもマズいジュースの評判を聞きつけるとさっそく試飲したり、自販機でジュースを買うとき一番マズそうなものを選んでしまうのは、そのとき以来の癖である。レトロゲームもまたしかり。レトロゲーム探しが巡り巡って日本一周になってしまうわけだから、我ながらおめでたいと思う。

さいたまさいたま!

 七時過ぎにユースの受付に行き、宿を引き払う。フロントには丁寧な物腰の紳士が座っており、「よく休めましたか?」とにこやかに声を掛けてくれた。
 「利用客の7割は外国から見えた方なんですよ。」 ここのユースは外国人の姿が多い。ユースは世界共通の宿なので、旅人にとって割安感と安心感がある。海外の方が多いのはそういう事情もあるのだが、一方で「今の若い人は余裕があるから、旅行をするにしてもユースではなくて、もっと豪華なホテルに泊まるんでしょうね。」とも仰っていた。
 鍵と引き替えに預けておいた2000円を受け取り、DJEBELに荷物をくくりつけ出発準備を整える。目的地はさいたま市、埼玉県庁と武蔵国一の宮氷川神社だ。天気はどんよりくもっており、いつ雨が降ってきてもおかしくない。雨の中地図を取り出すのは嫌なので、念入りに地図を頭に入れておいた。

埼玉県庁
「彩の国」とも「ダサイタマ」とも呼ばれる埼玉県の県庁。

 代々木とさいたまは意外に近い。都道317号線「山手通り」から国道17号線に接続するぐらいで、ほぼ道なりに北に30キロも走れば着いてしまう。しかも県庁はその国道17号線沿いにある。とはいえ車の量は多く、さいたま市の埼玉県庁に着いたのは午前10時のことだった。埼玉県庁も年季入りの渋い建物で、扉の金具や彫刻が時代を感じさせる。そんな中に「手を洗おー」の萌え萌えポスター(注5)が貼られてあったりするから、世間というものはよくわからない。
 そうこうするうちに食堂が開いた。埼玉県庁に食堂は二つある。第二庁舎にあるのがそばやうどんが中心の小さな軽食堂で、本庁舎にあるのが定食やラーメンといったものを出すいかにも県庁食堂といった案配の大食堂である。荒井が利用したのは本庁舎の大食堂だ。開店間もなかったが、入り口には10人ほどの行列ができていた。並んでいた人の話を立ち聞きすると、平日にこんなに人が並ぶのも珍しいことらしい。
 入り口の自販機で日替わり「特別定食」の食券を買い中に入る。今日は酢豚定食だ。酢豚にクリームコロッケ、生野菜とスパゲティサラダ、なす漬け、それにブロッコリーの吸い物という顔ぶれだ。食堂は狭いようでそこそこ広く、ラーメンコーナーは立ち喰いできるようになっていた。
 駐輪場に戻ると、とうとう小雨が降ってきた。雨がひどくならないうちに、氷川神社に向かうことにした。

 この年の春、埼玉の県庁所在地だった浦和市と、その隣にあった大宮市と与野市の三市は合併して「さいたま市」になっていた。氷川神社はその元大宮市にある。大宮とは他ならない、この氷川神社のことを指している。
 あか抜けない、野暮ったいという意味ですっかり定着してしまった「ダサい」という言葉は「だって埼玉だもん」に由来するという説がある。ネット上でも「さいたまさいたまー!」というアスキーアート(注6)はよく見かけた。大都会でもなければど田舎でもない埼玉の中途半端さをからかっているわけだが、現在の行政区でいう東京都を含む武蔵国の一の宮は東京ではなく、元大宮市ことさいたま市に鎮座しているのだ。明治神宮も靖国神社も一の宮ではないのである。

氷川神社桜門
武蔵国一の宮氷川神社の桜門。武蔵国の中心は実はさいたま市にある。

 七五三が近いからか、この天気にもかかわらず、境内にはめかしこんだ子供たちと親御さんらが大勢いた。千歳飴や縁起物を売る露店も何軒か出ている。神楽殿には雅楽隊が陣取って、ときおり祝いの楽なぞ奏でている。とはいえ子供らは着慣れぬ晴れ着にぐずついたりするもので、ばっちり着物で決めているのに、足下だけいつもの運動靴といういでたちの子供も多かった。
 これだけ盛大にやられると、子供よりも大人が自分で盛り上がっているような気もする。ともあれ、これだけかわいがられているのだから、せめてまっとうな大人に育ってほしいものだよな、と氷川の神様にお願いしておいた。

 神社を出ると雨は本降りになっていた。屋根の下で合羽を着込み、念入りに都心までの道を確かめる。来たのと同じ道で戻るのも面白くないので別の道を選ぶ。都心に出てからどうするかは全く決めていなかった。宿も決まっていなかったが、どこかのネットカフェにでも籠もればいいことだと腹を決め、都心目指して走り出した。

川口総合文化センター「リリア」 川口市のマンホール
川口総合文化センターと百合をあしらった同市のマンホール。川口名物はオートレースだけではない。

 途中雨宿りがてら、川口市の総合文化センター「リリア」に立ち寄った。音楽会場や劇場はもちろん、レストランやフィットネスジム、楽器屋まであるという川口市自慢の多目的文化施設だ。
 「リリア」というと古くからのコンピューターゲーム好きには思うところある名前だったりするが、こちらはゲームとは全く関係なく、川口市の花テッポウユリにちなんだ命名である。そのとおり、街角のマンホールの柄は百合の花だった。ついでに併設の喫茶店は「ラウンジ・リリア」という名前だが、別にウェイトレス姿の村娘が給仕してくれるわけではない。

リリアさんフロム「イースII」MSX2版
参考までに村娘。

 川口を出る頃には雨も少し和らいでいた。国道122号線に乗り換え、荒川を渡り再び東京都に入った。沿線はどこもかしこも商店街だ。国道17号線に合流してからは、沿線にはとげ抜き地蔵の巣鴨や、東京大学といった有名な場所が現れた。かくして道路原標のある日本橋に到着すると、すっかり暗くなっていた。
 それから国道20号線で武蔵野に向かうことにした。通勤帰りの車が殺到したのか、道は大渋滞だった。ひたすらすり抜けを繰り返したが、それでもなかなか先へは進めなかった。新宿トンネルのあたりはまるきり流れが滞っていた。こんな有様が立川で都道29号線、新奥多摩街道に乗り換えるまで延々と続いた。「よぐもまぁこんた大量の車、いっつもどさ仕舞ってんだべ?」と不思議になってくる。しかもあたりはもう暗いのだ。
 都道に乗り換えると流れは急によくなった。さらに昭島市から福生市経由で青梅市に向かう。いつしか雨は止んでいたがそのかわり、放射冷却現象で真っ白い霧が立ちこめている。見つけた「ローソン」で肉まんを食べて一息ついた。いつしか肉まんの恋しい季節になっていたのだ。さらに近所のファミレス「バーミヤン」でつけ麺とチャーハンの夕食にした。
 ファミレスも都会に来たことを感じさせる風景である。山形は田舎なので進出しているファミレスもごく一部で、名前こそ知っているものの、現物を見たことのない店の方が多い。そうした店が現に建っているのを見ると、都会に来たと思うわけである。もっとも、どこに行っても同じ店構えに同じ料理というのは味気ないけれど。

 結局この日の宿は、9月にも利用した青梅市のネットカフェだった。


脚註

注1・「神宮寺三郎」:アドベンチャーゲーム「探偵神宮寺三郎」シリーズの主人公。シリーズに「新宿中央公園殺人事件」というタイトルがある。マルボロ好きの名探偵。

注2・「山形にもあるし」:山形には立川町という町があった。強風「清川ダシ」を利用した風力発電が名物。新選組の前身浪士組を結成した清河八郎の出身地でもあったりする。町名は合併前の町の名前から文字を取って作ったものなので、武蔵野の立川市とは関係ない。現在はさらに余目町と合併して庄内町と名前を変えている。

注3・「サブザック」:予備の小型ザック。テント設営後の買い出しや宿からの外出の際、大型ザックの替わりに持ち歩くためのもの。

注4・「明治天皇を祀る神社」:厳密には明治天皇とその后昭憲皇太后を祀っている。ちなみに墓所は京都にあるそうな。

注5・「『手を洗おー』」:埼玉県医療整備課が平成13年に制作した手洗い励行を呼びかけるポスター。堅そうな部署が作ったにもかかわらず、なぜかゲームに出てきそうなアニメ調の美少女キャラクターが両の掌を突き出して「てをあらお〜」と呼びかけるデザインだったため、その筋の人にはきわめて受けがよかったとか悪かったとか。

注6・「アスキーアート」:コンピューター内蔵の文字キャラクターを使って描かれた絵のこと。かつてコンピューター内蔵の文字セット「アスキー文字」を利用して作られていたことに由来する。ちなみに「さいたまさいたま!」こと通称「さいたま」はこんなの。2002年頃盛んに見られたが、今はあんまり見かけない。

                \ │ /
                 / ̄\   / ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
               ─( ゚ ∀ ゚ )< さいたまさいたま!
                 \_/   \_________
                / │ \
                    ∩ ∧ ∧  / ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄\∩ ∧ ∧ \( ゚∀゚)< さいたまさいたまさいたま!
さいたま〜〜〜〜! >( ゚∀゚ )/ |    / \__________
________/ |    〈 |   |
              / /\_」 / /\」
               ̄     / /
                    ̄

前に戻る文頭に戻る目次に戻るトップページに戻る次を読む