連休末日

芦ノ湖
道の駅「箱根峠」から芦ノ湖を望む。写真は後日撮ったもの。

 夜は風が強く、林の木がざわざわ揺れていたが、朝には止んでいた。天気はよかったが非常に寒い。晩秋にもなれば長袖の下着は必需品である。
 国道1号線に戻り箱根に向かったが、渋滞に驚いた。国道1号線、東海道本線のガードをくぐった少し先、風祭の集落から下り車線の流れは滞り、車が長い列をなしている。箱根に向かう観光客の車だろう。
 その風祭にちょうどコンビニ「ローソン」があったので、そこでいつも通りツナタマサンドの朝食にしてから、箱根峠目指して登っていくことにした。

 小田原から箱根湯本の温泉街までは非常に近い。湯本は大きな温泉街だけあって、道の両側にはみやげ屋や温泉旅館が軒を連ねている。
 箱根峠は湯本の温泉街を抜けたあたりから本格的な登りに入る。「笹谷峠さ比べだら、なんてこたねぇな。」と思いながら走っていたが、強羅(ごうら)を過ぎると道はさらに険しく、急なカーブが増えてきた。しかも芦之湯温泉に近づく頃には強風まで吹き付けてきた。道の両脇に背の高い樹木の類は一切生えていない。ここで強風は珍しいことではないのだ。
 よく考えればここは天下の一桁国道の一番だった。ふと道ばたに「国道1号線最高所・標高874メートル」の表示を見つけ「箱根は天下の険だ!」と思い知った。
 やがて芦ノ湖に出たが、湖面は風でやたらに波立っている。寒さに耐えつつ、静岡県との県境箱根峠にたどり着いたところで、一度湯本に戻ることにした。まだ関東一周は終わっていない。まだ神奈川県庁も三浦半島も訪れてはいないのだ。「早ぐこの先さ行ぎだい!」と峠の先に思いを馳せながら、来た道を引き返した。

 途中で箱根の旧街道にそれ、畑宿(はたじゅく)に行った。目当ては箱根名物の寄木細工だ。特に「秘密箱」には興味があったので、今回の旅でも楽しみにしていたのだ。畑宿は寄木細工の産地で、工房はもちろん、展示館や売店などがある。てきとうなみやげ屋に入ると、案の定、秘密箱が置いてあったので、「ご自由におためしください。」のお試し品を手にとってさっそくいじってみた。
 秘密箱とはからくり付の小物入れで、箱根寄木細工の名品だ。寄木模様に隠されている仕掛けを一定の手順を踏んで動かしていくと、箱が開くようになっている。すぐに開けられるものから数十手を要するもの、手のひら大の小さなものから置物のような大きなものまで、いろいろな種類がある。大きく複雑なものほど作るのに手間がかかるようで、値段もそれに比例していた。
 箱の仕掛けは手数の多寡にかかわらず、かんぬきやフタを少しずつ前後左右にずらしながら開けていくという非常に地味なものだった。とりあえずいじるだけで満足したので、買わずに外へ出た。

 次に寄木会館に寄った。ここでは寄木細工造りの実演をしている。建物の片隅に一畳ほどの作業場が設けてあって、歳の程五十の職人さんが手慣れた様子で木を削っていた。作業場には大小よりどりみどりの鉋(かんな)や道具が使いやすいよう立てかけてあり、どれも使い込まれて渋く光っている。周りには中高年の見物客が数人、職人さんに質問しながら作業を見守っていた。
 箱根の寄木細工は、色とりどりの木を細く削って貼り合わせるところから始まる。着色した木は使っていない。伐りだした木の自然な色をそのまま生かしているそうだ。箱根の寄木細工はもともと1820年代に始まったもので、東海道のみやげ物として広まっていった。畑宿が様々な木の茂る豊かな森に恵まれていたことがその背景にある。
 小さな棒をいくつも規則的に貼り合わせると、幾何学模様の「種板」ができあがる。種板の表面を大きな鉋で削りとれば、幾何学模様の壁紙が金太郎飴のごとくいくつもできあがる。こうして作った壁紙を箱やお盆に貼り付けたのが「ズク貼り」と呼ばれる細工である。尋常ではない精度が要求されることは想像に難くないが、職人さんはこともなげにやっていた。
 熟練の技に見とれながら、見物客と職人さんのやりとりを聞いていたが、その内容は寂しいものだった。伝統工芸の多くがそうであるように、ズク貼り技法も後継者不足に悩まされているのだ。

 「あと数年もしたら、滅びることは間違いないだろうなぁ。身につけるのが大変な割に食えないし、最近の子供たちは辛抱できないから、身につけることもできないだろうし。」

 隣の「金指勝悦(かなざしかつひろ)の店」に寄ってみた。一階が寄木細工の展示室になっていて、二階は売店になっている。こちらの店は寄木細工でも「ズク貼り」とは違う技法「無垢」で作られた品物が中心に並べられてある。
 「無垢」とは店主の金指氏が編み出した技法で、種板を作る要領でいったん幾何学模様の角材を作り、それを挽いて細工を作るというものだ。この方法だと「ズク貼り」には不可能な立体的な造型ができる。ただ、削って作るだけあって、できあがりの模様の現れ方が予測しづらいのだとか。
 店に並ぶ品々も、大皿、茶筒、高坏といったものが多かった。何か一つ、記念に何か買うことにしたが、旅先で使えそうな実用品というものがなかなか見あたらず、いろいろ見繕った末、茶さじを一つ買った。
 ところでこの茶さじが、その後荒井をまた畑宿に導くきっかけになるのだが、その話はまた後である。

 寄木細工を堪能した後で、集落のはずれにある寄木細工創始者の墓に参拝してから畑宿を後にした。
 このあたりの旧街道は遊歩道が整備されているので、ところどころでザックを背負った観光客の姿をよく見かける。眼下には小田原の街と海だ。急な坂を湯本に向けて下っていくのが気持ちよい。せっかく来たからにはと、日帰り湯「箱根の湯」に入ってから小田原に戻った。

 昼食は小田原近郊の食堂「富士亭」でかまぼこかき揚げそばセットを食べた。小田原在住の親戚がたまに贈ってくれるので、かまぼこが小田原名物であることは知っている。荒井が寄った「富士亭」は、大きなかまぼこ屋「鈴廣」併設の食堂で、隣にはかまぼこ工場やかまぼこ売店はもちろんのこと、かまぼこのなんたるかを紹介するかまぼこ博物館まで建っている。休みということもあって、昼過ぎだというのに食堂は満員御礼だった。駐車場には大型バスが何台も停まっている。魚肉練物製品恐るべし。
 かまぼこかき揚げそばだが、肝心のかまぼこはさいの目切りになってかき揚げの中に入っていた。口がわりに栗ご飯、かまぼこ刺身の小皿と茶碗蒸し、お新香まで付いてくるお得な一品だ。かき揚げがそばとは別に皿に載って出てくるのもうれしい配慮だ。

 地図によれば厚木市の近郊にはキャンプ場が点在している。「これなら野宿場所さは困んねな。」と楽観し、そのうちの一つ「弁天の森キャンプ場」に見当を付け、小田原から厚木市に向かった。
 小田原から県道72号線と国道255号線を乗り継ぎ内陸に入っていくと、やがて山に突き当たったところで見事な丁字路が現れる。丹沢山塊だ。丁字路こと国道246号線は幹線道路らしく、沿線には大型の店などいくつか建っている。途中ホームセンターに寄ってガソリンストーブ用の白ガスを補給しておいた。

 厚木市で国道をはずれ、一路お目当てのキャンプ場を目指す。山の方にちょっと走っただけで、あたりはみるみる鄙びてきた。そのうち日はまるきり暮れてしまった。
 地図によればキャンプ場は県道のすぐそばにあるはずだった。はずなのだが、案内看板など見ながら走るうち、道はさらに深い山奥へと分け入り、ますます寂しくなってきた。気が付けば周りには杉林しかない。ヘッドライトの灯りだけがあたりを照らす。押しつぶされそうな暗闇の中、これとDJEBELのエンジン音だけが心の頼りだ。
 かくしてたどり着いたキャンプ場は、予想以上の山奥だった。山小屋が一軒あったが、もちろん期間外で営業終了、人っ子一人いやしない。しかもキャンプ場まではさらに徒歩で上に登らなければならないらしい。様子を見ながらテントを張るか張るまいか迷っていると、その山小屋に張り紙がされていたので、ヘッドライトを頼りに読んでみた。

熊出没注意

 そういえばここは丹沢山塊だった。熊の二、三頭ぐらいいてもおかしくはない。「熊が出んながよ!」 暗く心細い山奥で、一人熊におびえつつ野宿できるほど荒井は豪胆ではなかったので、尻尾を巻いて逃げ出すことにした。この調子では近隣のキャンプ場も似たようなものだろう。

 国道246号線に戻るにつれ、民家が増え、街灯りが増え、車も増えていったが、心細いのは相変わらずだった。こんなに建物があるというのに、自分の寝場所はどこにもないのだ。目を皿のようにして、野宿できそうな場所を探してみるが、これという場所は全く見つからない。都市部も特に幹線道路沿いは野宿場所が見つけづらいのだ。
 まだ八時にもなっていない。夏だったらまだ元気に走り回れる時間だった。11月ともなると日の出は遅く、日の入りは極端に早くなる。日の出とともに起き出して、日の入りとともにテントを張る旅人にとって、日の長さはそのまま動き廻れる時間となる。夏のことを思い出すと、つくづく昼の短さが恨めしい。

 泊まる場所のあてもなく、幹線道路を乗り継ぎつらつらと走るうち相模原市まで出てきてしまった。周りの車はやけに飛ばすし、何車線もある道路はいたずらに広い。
 このまま走ってもらちがあかない。体勢を立て直そうととりあえず目に付いた「スリーエフ」に駆け込んだ。たまたま「神奈川県内のキャンプ場ガイド」といった本があったので手に取ってみると、近郊の里に近い相模川沿いに無料のキャンプ場「相模自然の森」があることがわかった。腹は決まった。「そさテントば張っぺ!」
 後は早かった。これまでの彷徨が嘘のようだった。キャンプ場はいとも易々と見つかった。しかも設備も整っており立地も悪くない。見つからないとさんざん探し回った末、突然降って湧いたように、ぱっと絶好の野宿場所が見つかるということは、貧乏旅ではよくあることである。

 キャンプ場は申し分なかったが、妙な先客がいた。車で乗り付け、十時近いというのにカーオーディオを鳴らして大声で騒いでいるという連中だ。あまり関わり合いになりたくなかったので、一行の目に付かない場所にこっそりとテントを張る。そして腹を空かせたまま息を潜め、彼らが帰るのを待っていた。
 彼らがキャンプ場を後にしたのは十二時近くだった。ようやく安心して野宿ができるぞと、「スリーエフ」で買っておいたできあいの寄せ鍋をストーブにかけ、ついでにスパゲティまでゆでて豪華な夕食にした。残っていた海老の紅梅煮も全部平らげることにした。
 夕食をむさぼっていると足音が近づいてきた。面倒なことにならなければよいのだがと緊張しつつ足音が近づくのを聞いていると、目の前に現れたのは懐中電灯を持った警備のおじさんだった。
 追い出されるかと思ったが、おじさんの口から出たのは「こんな寒いのに野宿とは大変だね。風邪を引かないように気をつけてね!」という気遣いの言葉だった。ようやく安心して寝られる場所が見つかった。おじさんの言葉にうれしくなった。

神奈川県庁へ

 寝たのは遅かったが、いつもどおり朝日とともに起き出した。来たときは暗くて全く見えなかったが、相模川を挟んだ対岸は山になっていた。朝焼けでセピア色に光っている。この風景のせいか、このあたりは近所の方の散歩道になっているようで、テントをたたんでいる最中にも二人ばかり話しかけられた。どちらの方も「こんなところで寝たら寒いでしょう。」と仰ったが、神奈川でもそんな季節になってしまっていたのだ。
 撤収を終え出発し、いつもどおり近場の「ローソン」でサンドイッチとオレンジジュースの朝食を済ます。そこからは地図を見ながら相模原の街中を抜け、町田市、川崎市と都県境を越えつつ世田谷に入ったところで都道318号線「環七通り」に乗り換え、そのまま第二京浜国道こと国道15号線に出た。海沿い一周もようやく再開である。

神奈川県庁本庁舎
神奈川県庁本庁舎。左上の影が連絡通路。

 本日最大の目的地、横浜市の神奈川県庁に着いたのはちょうど昼前だった。ここに来るため、荒井は比企郡に行ったり、東京タワーに登ったり、丹沢山塊で熊におびえたりしたわけである。
 その神奈川県庁は山下公園や中華街にごく近い場所にある。あたりは横浜らしく、近代的な建築と現代的なビルが入り交じって建っていた。
 庁舎は意外に小さい。近代的な本庁舎と現代的な新庁舎が道路をはさんで建っており、道路をまたぐ形で掛け渡された連絡通路で互いに往来できるようになっている。本庁舎のエレベーターに、映画に出てきそうなアナログ式の階数表示板がそのまま残されているのも横浜らしい。
 食堂は新庁舎の12階で、一階ぶんがまるまる食堂にあてられている。窓は大きなガラス張りで、ちょっとした展望も楽しめる。海の見える一角に陣取ると、港や赤レンガ倉庫、ベイブリッジがよく見えた。ちなみに食べたのは担々麺と鮭と梅のおにぎりが二個だった。
 県庁食堂はたいがい、地下とか1階にある。神奈川県庁のように、上の方の階で展望が楽しめるようになっているところは、ありそうであまりない。
 県庁から出るとちょうど十二時になっていた。新庁舎前の広場では弁当を売る屋台が何軒か店開きしており、盛んに売り込みをしていた。サラダ付きのインドカレーだの、フランス風の軽食だの、王道の煮物やお総菜まで、どこも趣向を凝らした弁当を品揃えしており、県庁を始め、近隣で働く方々が競って買い求めていた。とりどりの小洒落た屋台が並ぶ様子もやけに横浜らしかった。

戦艦三笠記念公園
横須賀の海に臨む戦艦三笠記念公園。近年ロシアの海軍士官さんたちも見学に来たとか。写真は小冊子から。

 関東の県庁巡りも終わった。山下公園の脇を通り、氷川丸を脇目にDJEBELを走らせ、次は横須賀に向かった。横須賀でもぜひ見ておきたいものがあった。戦艦三笠記念公園だ。
 戦艦三笠は連合艦隊の旗艦だった船だ。「皇国ノ興廃コノ一戦ニアリ、各員一層奮励努力セヨ。」 日露戦争でロシアのバルチック艦隊相手に歴史的大勝利を収めた日本海海戦で、連合艦隊司令官東郷平八郎が乗っていた船ということで特に有名である。退役後は記念鑑として陸に引き上げられ、全ての艤装を解かれた上で見学に供されている。それが三笠記念公園の始まりで、太平洋戦争の敗戦後、幾度となく廃棄や老朽化の危機に瀕しながらも、人々の努力によって、三笠は今でも横須賀の海を望む一角に残っているのだ。
 三笠記念公園は米海軍基地のすぐ脇にある。かつては国威の象徴として威風堂々と据わっていたのだろうが、現在はお隣さんへの配慮かやや肩身も狭そうだ。入場券のモギリのおじさんのすすめで、ザックを置いて艦内を見学することとなった。
 艦内は日本海海戦のあらましを紹介する展示はもちろん、往時の海軍の資料、帝国海軍の歴史などを紹介する資料館となっているが、ところどころに残る大きな被弾痕や、戦死者が出た場所にある「ここで何名死亡」といった案内表示は、これが東郷平八郎が日本海でバルチック艦隊と渡り合った現物であることを主張していた。船室の一角には戦死者を弔う慰霊のレリーフも掛けられてある。

 ザックを受け取りに行くと、荒井のなりに目をとめたのか、モギリのおじさんが「若い頃、友達が野宿旅で佐渡に行ったことがあるんだよ。」と教えてくれた。なんでも、どこぞの岬に野宿したとき、幽霊が現れ肝を冷やしたのだとか。いったいどこの岬だったのだろう。荒井の場合、幽霊よりもフナムシと突風の方が怖かったけれど。

 城ヶ島のユースホステルに予約を入れてから、三浦半島の先端目指して走り出した。途中観音崎に寄った。先日寄った富津岬のちょうど対岸で、東京湾の関門になっているところだ。夕方近いのに、ひっきりなしに船が沖を行き交っていた。富津岬から眺めた海堡も間近に見えた。急な階段を登って灯台にも行ってみたが、時刻を過ぎていたため、入り口は閉まっていた。
 ペリーの黒船が来航した浦賀も経由した。浦賀は切り込んだ入り江に開けた集落で、なるほど、船が停泊するにはうってつけだ。駅前のフェンスには明治維新の絵物語など描かれている。今でこそ京急の駅もあるのだが、もしペリーが来なかったら、駅もなかっただろうし、この絵物語もなかったのだろうなと想像してみる。黒船で大きく運命が変わったのは日本の国ではなく、浦賀の集落だったのかもしれない。

 少し暗くなった頃、ようやく三浦市の中心街にたどり着いた。ユースで食事は出ないので、手近なファミレス「安楽亭」で石焼きピビンパの夕食にして、ついでに近所のコンビニで朝食用にパンを買い込んだ。50円の通行料を支払い城ヶ島大橋を渡れば三浦半島の先端、城ヶ島だ。
 城ヶ島のユースは団体客の合宿向け施設のようで、広い集会室や食堂、大人数が泊まれる居室を備えていたが、利用客はほとんどいなかった。ペアレントさんによれば、ここの場合、団体でない一般客で、しかも若い人の利用は珍しいとのことだった。
 ペアレントさんによれば、今日の利用客は荒井を含め二人だけだった。「もう一人のお客さんが結構年配の方だから、個室にしてあげようか?」と、ペアレントさんのご厚意で、六人部屋に一人で泊まれることになった。原則相部屋泊まりのユースでは、どんなに客室が空いていようと利用客が複数いる場合、同じ部屋に詰め込まれるものなのだが、場所によってはこんな具合に融通を利かせてくれるところもあったりする。
 大分くたびれていたのか、着いたら急に眠くなり、この日はそのまま眠り込んでしまった。

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