旅に出て二日目。昨日までは朝の七時起きが当たり前だったというのに、朝五時の日の出とともに目が覚めた。4月末になると日も長くなり、この時間にはもう日が昇っている。昨日とはうってかわって天気もよい。1時間ほどかけてテントをたたみ、六時過ぎには出発した。
キャンプ場近くにある湧き水「亀の子水」で水を補給しておく。県民の森一帯は湧き水が多い。ここもそうした湧き水の一つで、県道の道ばたにあるため昼間は水を汲みに来る人の姿が絶えないが、これだけ早いと水汲み客は誰もいない。
県道で白鷹町を目指していると、西に朝日連峰がはっきり見えた。てっぺんはまだ雪で真っ白だ。再び山形に戻ってくる頃には、この雪も多くは溶けてしまっていることだろう。朝日連峰ともしばらくお別れである。
山形を出る前に、また花見をしていった。まずは白鷹町にある釜の越桜、薬師桜、長井市は伊佐沢の久保桜と、三本の桜を立て続けに見物する。三本とも樹齢数百年を数えるエドヒガン(注1)の老木だが、どれも見事な花をつけていた。このあたり、山形の置賜地方にはエドヒガンの古木がいくつもあって、この時期になるとそれら桜を見て回るバス旅行まで開かれている。
長井市の東、南陽市では熊野大社に参拝した。神社のある周辺が宮内(みやうち)と呼ばれていて、南陽市を代表する大きな集落となっていることからも、神社の歴史や規模がうかがえる。ここの熊野大社は、紀伊、軽井沢と並ぶ日本三大熊野の一つなのだが、今回は大阪に行く前に、紀州の熊野大社にも寄る予定だ。「紀州の熊野はどんたどごなんだべな?」と、山形の熊野から、早くも気持ちは紀州に向かっている。
南陽市役所で休憩してから、市内の桜の名所、烏帽子山公園に行った。小山が一つの公園になっていて、山一面の桜が満開になるとそれは見物らしい。残念ながら、ここの桜は散り始めていたが、それでも多くの人が繰り出しては、桜並木のトンネルに見入ったり、カメラ片手に桜を撮るなどしていた。花見茶屋も多数出店していて、中では花より団子の見物客が一杯やっていたりする。
公園のてっぺんには烏帽子山神社がある。前年の夏に不審火で社殿が焼失し、まっさらになった跡地には小さなほこらがあるきりだった。隣の社務所や参集殿が立派なせいか、空白がひときわ目立つ。早く再建できるようにとお願いしておいた。
公園を出ると昼が近かった。当初の予定では県境を越え、宮城の白石市で温麺でも食べようかと思っていたのだが、今からでは少々遅い。そこで近所の有名なラーメン屋「龍上海」(注2)に行ってみたが、開店前だというのに待ちきれない人が数人、行列をなして並んでいた。
「さすが県下有数の名店だけのことはあんな。」と、ふとはす向かいの肉屋さん「肉の旭屋」に目をやると「手作りコロッケパン 一日限定30個」というビラが貼られてあるのに気が付いた。ラーメンはやめにして、こちらを食べてみることにした。
店はまるきりの肉屋さんだ。店員さんにコロッケパン一個下さいと注文し、待つこと数分、奥から愛想のよいおばちゃんが出てきて、コロッケパンを手渡してくれた。持ってみると温かい。できあいの調理パンのようなものを想像していたが、これは思った以上に手が込んでいるようだ。
コロッケパンは半分に割ったコッペパンに、店ご自慢の一品、大ぶりの手作り牛肉コロッケが一個、レタスと一緒にはさまっている。温かいうちに喰っちまえとばかりにかぶりつく。できたてだからコロッケはさくさくで、パンもレタスもへたってない。一日限定30個とはいえ、これがたったの120円というのだから驚きだ。「まだ山形の穴場ば見っけだな!」と、小さな発見に喜んだ。
桜とコロッケパンに満足したところで、山形を出ることにした。今回選んだのは上山市と宮城県七ヶ宿町を結ぶ金山峠(かなやまとうげ)だ。
南陽市から国道と県道を乗り継ぎ峠に向かう。鞍部でDJEBELを降り、山形にしばしの別れを告げる。冬枯れしていた木々も、春の日差しでいくぶん明るく見える。宮城側に少し下ったところにある「鏡清水」で一息ついた。峠は大分水嶺で、清水は白石川の源流点となっている。
金山峠はまるきりの旧道である。山形側は長大なつづら折りがいくつも続く細道で往来も少なく、冬の間はもちろん通行止めとなっている。しかし季節は春、雪はすっかり消え、通行止めはすでに解除されていた。雪解けとともに旅立つ旅人にとって最高の花道だ。この峠、かつては参勤交代の大名行列も通った歴史ある道でもある。
かくして再びDJEBELにまたがり、金山峠を後にした。峠の先に東京があり、その先に大阪があることは前半の旅で承知済みである。今度はさらにその先を目指すのだ。
白石市で国道4号線に合流し、南に走る。福島市にやってきたところで、街角でたまたま「古関裕而(こせきゆうじ)記念館」という建物を見つけたので見学した。
古関裕而は昭和を代表する作曲家だ。荒井お気に入りの音楽家なのでその名前は知っていたが、福島市の出身で、同市の名誉市民第一号にもなっていることまでは知らなかった。その縁でここに記念館が建てられたというわけだ。記念館は経歴の紹介から、レコードや楽譜、愛用のオルガンなどの展示が見られるほか、作品の数々も試聴できる。
古関氏は「長崎の鐘」「高原列車は行く」「イヨマンテの夜」といった歌謡曲はもちろん、多くの応援歌をものにしている。一番有名なのは甲子園野球大会の「栄冠は君に輝く」。プロ野球の阪神タイガース応援歌「六甲おろし」(注3)と、巨人軍の「闘魂燃えて」も同氏の作品だ。両球団の応援団は、知ってか知らずか、同じ作曲家の歌を応援歌として歌っているわけである。
見学を終え、預けておいたザックを受け取ろうと受付に寄ってみると、受付のおばちゃんに「旅の途中ですか?」と訊ねられた。山形から来たんですよと答えると、「古関先生は、山形の町民歌などもたくさん作っているんですよ。」と、古関氏の手がけたご当地ソングや校歌を紹介するビラをくださった。それによると、山形県民なら誰でも知っている「スポーツ県民歌」(注4)もなんと古関氏の作品だった。山形県民荒井、感激の新発見である。
記念館を出ると三時を廻っていた。今日の宿は前半最後に泊まった須賀川のまゆみ旅館だ。四時到着の予定だったので、大急ぎで須賀川を目指す。国道4号線は大型車でやけに詰まっていた。津軽半島の高野崎だったか下北の薬研だったか、一緒になった旅人が「国道4号線はほんと渋滞がひどいっス。仙台から東京まで、ずっと同じように渋滞してました!」と言っていたが、こういうことなのだろう。山形から東京まで一気走りした去年の夏も、国道4号線のところどころで渋滞に悩まされたことを思い出す。
遅れに遅れ、結局宿に着いたのは五時過ぎだった。おかみさんに挨拶し、部屋に荷物を置き、向かいの100円ショップ「ダイソー」で、電池と電池ケースを仕入れておく。ラジオと懐中電灯、それに今回はデジカメを持ち歩いているため、電池は多めに必要になる。夕食は宿に頼んでおいた。献立はメンチカツ、カレイの煮付け、タコとマグロの刺身、マカロニサラダ、冷や奴、タラの芽のおひたし、漬け物、りんごが二切れ。前回同様品数豊富な夕食だった。
まゆみ旅館の朝食はバイキング方式だ。用意された献立は焼き鮭、ハム、生野菜、切り干し大根の煮付け、わかめのみそ汁、納豆にたまごだった。前回もこんなもんだったが、いたって地味なバイキングである。
駐車場で荷物をDJEBELにくくりつけていると、泊まり客の自転車乗りのおじちゃんに声をかけられた。福島の三春町まで行ってこようと、自転車に旅道具を積んで栃木からやってきたらしい。
「昔から旅をしてみたかったんだけどね。定年になるまで時間が取れなくて、延び延びになってたんです。それで今、定年になって時間ができたものだから、こうして旅をしてるんですよ。」
おじちゃんは御歳67歳。全然そうは見えないほど若々しい。若い頃は750ccの大型車を乗り廻すライダーで、定年後も単車を乗り廻そうとさえ考えていたらしい。そして前年に自転車で北海道を一周したことをさも楽しそうに話してくださった。「北海道はいい! また走り廻ってやりますよ!」と、意気も盛んだ。荒井が「日本一周の最中で、沖縄を目指す途中なんですよ。」と言うと、自分もぜひ行ってみたいと仰った。
旅先ではこうした元気な壮年の方にたびたび出会った。そして年齢や係累のせいにして何もしないことは言い訳にすぎないな、とつくづく思った。本当に叶えたいと思えば、彼らのように、まずは動いてしまうものなのだ。そして予想以上にできることに気が付くのである。
おじちゃんを見送ったので、宿を出たのは八時過ぎだった。おかみさんから昼食のおにぎりを受け取り、「気をつけてね!」と見送られ、荒井も出発した。
国道118号線と県道14号線でいわき市を目指す。天気はすぐれず、今にも雨が降ってきそうな気配だった。道は山間のひなびた里を縫い、渓谷に沿って走っていた。決して広い道ではないのだが、大型車が目立つ。日本は陸運が発達した国だというが、山間の里にまでトラックやダンプが入り込んでいる様を見れば、それも納得である。
いわき市市街地に向かう途中に、御斉所峠(ごせいしょとうげ)がある。現在は新道のトンネルが開通しているが、旧道が残っていたのでこちらを通ってみた。
鞍部には小さな熊野神社がある。神社というよりもほこらといった方がよい小さなもので、いたるところ苔むしていた。なんでも、坂上田村麻呂が蝦夷征伐でこの地を訪れた際、この地で熊野大社に戦勝を祈願したのが、この小さな神社の始まりらしい。往来も少なく、雰囲気のいい峠だ。道路を挟んで近くには山水が飲める水場もある。
ところがこれに幻滅してしまった。せっかくの水場には「茶屋の私用」と、無粋な看板が付いている。なんだこりゃと思って、向かいにある件の茶屋を見るとさらに幻滅した。「用がある人以外の侵入を禁ず。関係ない人から荒らされたくない」「当地はここが陸奥と呼ばれていた時代から、当家に伝わる土地である」 茶屋の駐車場にはご丁寧に有刺鉄線まで張り巡らされている。この茶屋が過去にどんな目にあったのかはわからないが、こうした看板の数々に、すっかり興醒めしてしまった。
「徒然草」の兼好法師は、山奥で趣味のいい庭を備えた草庵を見つけ、一度は「いい趣味してんな。」と思ったが、囲いで厳重に守られた蜜柑の木を見つけて「この木がなかったらよかったのにねぇ。」と嘆息した。兼好法師が御斉所峠を訪れたら、いったいどう思うことだろう。ちなみに茶屋の駐車場は当然というか、ガラガラだった。
いわきの郊外に出ると、道もだいぶん広くなる。東北人には「常磐ハワイ」として知られる温泉「スパリゾートハワイアンズ」の近くを通り抜け、国道6号線に合流する。そして十一時前には勿来に着いた。東北の果て、到着である。
関所跡にある四阿(あずまや)で、まゆみ旅館からいただいたおにぎりを取り出し昼食にした。梅干しおにぎり二個と、ゴボウ漬けが何本か。四阿からは太平洋が見えるのだが、天気のせいか一面灰色である。花見の名残か、関所跡には色とりどりの提灯が飾られたままになっていた。「どうせなら、天気がいい時にすかっと気持ちいぐ勿来ば越えだがったよな。」と、梅干しおにぎりをもそもそと口に運ぶ。そういや山形の歌人、斎藤茂吉はここで「梅干はむあれとあがつま」と詠んでいた。
おにぎりを平らげたところで、数日分まとめて宿の予約を入れた。今日の宿は水戸の偕楽園ユース、明日は代々木ユース、あさっては未定。続いて由比町の「玉鉾」、一日空けて次の日が東山の名古屋ユース。紀伊半島に行くまでは前半最後の旅を振り返るのとあいさつ廻りを兼ねて、これまで訪ねたところを利用しようと思ったわけだ。携帯電話のおかげで予約は滞ることなく済んだ。
勿来から水戸までは、国道6号線をまじめに走るだけだった。空模様は相変わらずで、時折ぽつぽつと冷たいものが降ってくる。ひどく濡れはしないが、合羽を着ているためか、どこに寄り道する気にもなれない。結局まじめに走り続けたせいか、二時前には水戸市に着いてしまった。
ユースの到着予定時刻までまだ時間があったので、水戸芸術館を見学することにした。このときは現代美術家椿昇の個展、「国連少年」が開かれていた。国連の平和維持活動をブラックユーモアのネタにした作品展だ。芸術館を出る頃、ちょうど約束の時間になっていたので、早々に偕楽園ユースに転がり込んだ。
ユースの職員さんのすすめでDJEBELを館内に入れる。いつもながら、この処遇はありがたい。単車乗りは他に二人ほどいるようで、そのうちの一人は荒井同様、日本一周中らしいよと、職員のおじさんは言っていた。
部屋で日記を付けたり荷物の整理などしながら過ごし、六時になってから、近所に夕食の買い出しに行った。腹が減っている時の買い出しは要注意である。目に入る物のどれもが旨そうに見えるから、つい衝動買いをしそうになる。スーパーや100円ショップなど物色した後、結局いつもどおり大工町の「セブンイレブン」で、焼き肉弁当とオレンジジュースだけ買って帰ってきた。
ロビーで夕食にしていると、ぴったりしたパンツをはいた長髪の男が話しかけてきた。彼も利用客で、50ccのスーパーカブで実家のある宮城北部から、今住んでいる東京に戻ってくる最中だという。「都内を出る時は暖かくて、バイクに乗るのにちょうど良かったんですけどね。東北の方は寒くて大変でしたよ!」
彼は普段は2トントラックで配送の仕事をしているそうだ。どうやら休みを利用してこの旅を思いついたらしい。そこで話が休みのことに及んだ。「自分も前の仕事は大変でしたよ。人手が足りなくなってからは月6日しか休めなくなりまして。」と荒井が言うと「そんなに休めたんですか!」と驚かれた。
旅先で前職の話をすることはたびたびあったが、休みの話をするとこんな具合に「そんなに休めたの!?」と驚かれることもたびたびだった。どうやら世間にはかつての荒井以上に休みのとれない方がごまんといるらしい。この程度でひーこら言って会社を飛び出した自分が情けなくもあるが、かといって休めないのは嫌である。「ゆとりだのなんだのいって、底辺がこれでは、社会の活力も何もあったもんじゃない。果たしてこれでいいなべが?」と無職の旅人荒井、内心よけいな心配をしてみせる。
注1・「エドヒガン」:桜の種類のひとつ。樹齢が長いのが特徴。
注2・「龍上海」:南陽市赤湯に本店を置く、山形県で有名なラーメン屋。スープに辛みそを溶き入れながら食べる辛みそラーメンが名物。
注3・「六甲おろし」:厳密には通称。もともとの名称は「大阪タイガースの歌」という。
注4・「スポーツ県民歌」:作曲古関裕而・作詞西条八十(さいじょうやそ)。戦後、山形県のスポーツ振興のために作られた。山形県民ならば必ず小学校で教わるため、なじみが深い。サッカー球団モンテディオ山形のサポーターソングにもなっており、モンテディオの勝ち試合ではサポーターが斉唱する姿が見られるそうな。
持っていない人の方が珍しいほど普及している携帯電話ですが、もちろん旅にも持参している方がほとんどでした。多くの方は家族への連絡はもちろんのこと、iモードで天気予報や旅情報を見たり、出会った人とメールのやりとりをするのに使っていました。また、旅先で宿を手配するときにもその威力を発揮します。
荒井も家族の薦めで持たされることになりましたが、率直に言えば、首に鈴をかけられたようで、あんまり持ち歩きたくありませんでした。