秋葉神社前キャンプ場は天竜川の支流、気田川北岸の河原にある。立地のよさはもちろん、旅人が必要とする設備は全て整っており、しかも一泊200円と安いので、旅人に人気のキャンプ場だ。屋根付きの柔道場のような、大きな四阿(別料金)もあるので、寝袋だけで泊まることもできる。
起きると目の前の気田川から立ち上る川霧のせいか、あたりは真っ白である。茶を淹れたり身支度を調えつつ霧が晴れるのを待った。
水場で顔を洗っていると若い女性に声をかけられた。彼女もツーリング中の単車乗りだ。荒井が山形から来たと言うと「去年の7月、3週間ほど東北地方にツーリングに行ったんですよ!」と、少しその思い出話をしてくれた。3週間のほとんどは雨降りで、難儀したそうだ。
去年の東北の梅雨は長かった。6月、北海道への旅立ちと同時に梅雨入りし、戻ってきてからも一月近く雨降りが続いた。「確かに去年の7月は雨ばかりでしたねぇ。」 8月に旅を再開するまで、天気読みをしていたことを思い出す。
ここまで来て秋葉神社に参拝していかない手はない。秋葉神社には本宮と下社がある。キャンプ場のすぐ隣りにあるのは下社で、歩いて30秒とかからない。まずは一晩厄介になったお礼にと、下社の鳥居をくぐった。
朝早いのに社務所はもう開いていた。境内には地元企業が奉納したらしい、巨大な十能(じゅうのう・注1)と火箸がある。秋葉神社の祭神は火之迦具土大神(ひのかぐつちのおおかみ)、平たく言えば火の神様で、火伏せにご利益があると言われている。それゆえ火と縁の深い道具が奉納されているというわけだ。ついでに東京の秋葉原の名前は、この秋葉神社に由来している。
下社から出てくる頃には日も出てきて、霧も晴れつつあった。キャンプ場を出発し、本宮への道をとっとこ走り出す。杉林を縫う県道からは、併走する気田川が、杉の合間から見えたり隠れたりした。空はすっかり晴れ上がった。朝もまだ早いので気分がよい。
本宮は秋葉山の山頂、県道を離れ林道を15分ばかり登っていったところにある。林道とはいえきちんとした舗装路なのだが、そのかわり勾配が急で、我がDJEBELもえっちらおっちらと登っていかねばならなかった。
山頂に現れた本宮は、壮麗としか言いようのない立派なものだ。観光バスが何台も停まれる駐車場といい、白い石段や灯籠がきちんと並ぶ参道といい、きれいに清められた境内といい、ここに資材を運び込み、神社を整えるのに費やされた労苦が偲ばれる。
火伏せの神社だけに、ここでは焼失した南陽の烏帽子山神社の再建をお願いしておいた。これだけ壮麗な神社なのだから、ご利益も期待できそうだ。
秋葉山を下り、国道152号線を南に走る。途中「サークルK」でツナタマサンドの遅い朝食にする。天竜市の市役所に寄り道し、去年も訪れた浜北市で「姫街道」国道362号線に乗り換え、浜名湖の北を通って愛知に抜けることにした。
浜名湖の北岸は奥浜名湖と呼ばれ、南に比べ落ち着いた風景が続いている。すっかり高くなった日を受けて輝く湖面には、竹竿がいくつも並んで立っていた。漁か名物鰻の養殖にでも使っているのだろう。蜜柑と原人で有名な三ヶ日町(現浜松市)に着いたのは、ちょうど昼になった頃だった。
何か変わった名物はないかと、情報を仕入れに町役場に寄ってみると、案の定、地元の特産品が展示されていた。特産だけに蜜柑製品が多い。蜜柑ジュースはもちろん、缶詰ならぬ蜜柑の瓶詰め、蜜柑入りのお菓子、蜜柑ワイン、蜜柑酢、蜜柑染めの布など、これでもかといわんばかりに蜜柑である。ついでに言えば、入り口にあった掲示板も見事に蜜柑色だった。
朝食が遅かったので、あまり腹は減ってない。近場のAコープに寄って、名物の三ヶ日青島蜜柑ジュースを一本買って昼食代わりにした。
町のはずれには、橘逸勢(たちばなはやなり)という人物を祀った橘神社がある。国道362号線沿いの何気ないところにあるので、うっかりすれば見逃してしまうような小さな神社だ。蜜柑の町に「たちばなはやなり」。蜜柑の神様のような名前だが、蜜柑とはあまり関係がない。
その逸勢は平安時代の能筆家だ。政変に巻き込まれこの地で亡くなったため、その縁でここに神社がある。書の上達を目指す人々からの崇敬が篤く、境内には役目を終えた筆やペンを供養する「筆塚」なるものまであった。
本坂で姫街道の旧道を越え、愛知県に入った。豊川市では豊川稲荷に参拝していこうかと思ったが、単車を停めるのに適当な場所がなかったので、神社の廻りを一周だけして豊川を離れた。
国道1号線に合流すると、とたんに車の流れは遅くなった。さすが東海道、車の量が多い。名古屋市内に入るとさらに車の数は増えた。熱田神宮を通過したのは三時頃だったが、ユースのある東山に着くと四時になっていた。
半年ぶりに来たが、ユースの職員さんはしっかり荒井の顔を覚えていてくれた。部屋に荷物を置き、例によってレトロゲーム探しのため、地下鉄で大須に出かけた。この日は大須観音月に一度の祭日で、通りにはお好み焼きや焼き鳥の露店が多数出ていた。ゲームの出物はなかったが、かわりに変わったジュースを2本ばかり見つけたので、それを買ってユースに引き上げてきた。
この日の夕食はユースに頼んでおいた。鳥の唐揚げ、赤だしのみそ汁、海藻サラダの他、デザートにみかんゼリーが付いてきた。
ユースでは茨城から来たという単車旅の方と同室になった。消防関係の仕事をしており、休暇を利用して名古屋までやってきたそうだ。「今日の天気はどうなるでしょうね?」 お互い単車乗りだけあって、天気が気になる。さいわい、今日は雨の気配はなさそうだ。
ユースでの朝食後、東に戻るという彼を見送ってから出発した。荒井は逆に西を目指す。今日はいよいよ紀伊半島に入っていくのだ。
名古屋を出る前に、熱田神宮に寄った。この日は「みどりの日」こと、昭和天皇誕生日だったせいか、境内には右翼がいた。真っ黒な街宣車のそばで、白い特攻服の兄ちゃん達が、幹部の号令にならって整列し、何やら指示を待ち受けていたりする。兄ちゃん達はどう見ても珍走団かヤンキー上がりで、本当に天皇陛下を敬ってるのかと、素朴な問いが浮かび上がる。
拝殿では、今度はボーイスカウトの一団が大挙して整列し、お祓いを受けていた。この日の参拝は本殿ではなく、ボーイスカウトに向かって手を合わせているようだった。境内の「宮きしめん」できしめんを食べ、再び大須をちょっと見物してから、本格的に名古屋を離れた。
国道1号線を西に進み、鈴鹿峠の手前で「無料高速道路」国道25号線に乗り換える。去年と同じく上野市の伊賀一之宮インターで降り、再び敢国神社に参拝した。敢国神社は前半で最後に訪れた一の宮だ。それだけに「そろそろ本格的に後半が始まんだ!」と、気合いが入る。
市の中心部、上野城周辺は観光客でにぎわっていた。ちょうど町では「伊賀上野NINJAフェスタ」が開かれており、見物客が繰り出しているのだ。上野といったら忍びの里、おやつを買いに立ち寄った「ローソン」では、祭りを盛り上げようと、店員さんが真っ黒な忍び装束で出迎えてくれた。
上野市から国道368号線を南に走る。名張市で県道に乗り換え、香落渓(かおちだに)の断崖をを見上げつつ、奈良県入りを果たした。香落渓は柱状節理(ちゅうじょうせつり・注2)の断崖が8キロほど続く景勝地だ。断崖の次には田植えを待つ山間の農村が現れた。ひなびた田舎道の雰囲気がたまらない。長旅ならこういう道こそ、走りたくなる。
榛原町(はいばらちょう・現宇陀市)で休憩がてら、町の中央にある立ち寄り湯、美榛温泉(みはるおんせん)に入った。夕食の買い出しに町内のスーパーに寄ると、永谷園の麻婆春雨が安売りされていたので一つ仕入れた。麻婆春雨は日持ちする上、野外でも作りやすく、袋ラーメンよりも気が利いているので、野外での食事としてよく利用している。
日が暮れてきた。寝る場所を探そうと地図を調べる。近くに奈良県青少年野外センターというキャンプ場があるので、まずはそこに行ってみた。
受付のためセンター棟に行ってみるが、休日のせいか開いていない。テント場の方に行って、あたりの様子をうかがうことにした。
しばらく様子見をしていると、目の前に老警備員が現れ、かすれた声で何かをがなり立てている。あんまりかすれているので何を言っているかさっぱりわからないが、どうやら「ここにテントを張っちゃいけないよ!」とたしなめているらしい。「ここで一泊したいんですが、受付する方法はありませんか?」と訊ねてみても、個人での利用はできないとにべもない。どうやらここには泊まれそうにない。
「名前からしてダメだどは思ったが、やっぱり...」 センター敷地内の「希望の道」と名付けられた坂道を、暗澹たる気持ちで下る。あたりもすでに真っ暗だ。「どごが『希望の道』だ、『絶望の道』じゃねーが!」と胸の内で悪態をつきつつ、青少年センターを立ち去るのだった。
寝る場所を求めて南に走っていると、大宇陀町(おおうだちょう・現宇陀市)の役場が目に飛び込んできた。様子をみると、ここも休日のため一つも明かりはついておらず、職員が残っている気配も全くない。駐車場の片隅にはちょうど人目を忍べそうな場所もあった。これさいわいと、この日は役場にテントを張って寝ることにした。
旅の途中、県庁を始め各地の役場にはちょくちょく立ち寄ったのだが、野宿場所として利用したのはたった一回、ここ大宇陀町の役場だけだった。
注1・「十能」:炭火や火種を運ぶための小さなスコップ。
注2・「柱状節理」:地学用語。岩に入った柱のような割れ目のこと。溶岩がゆっくり冷え固まるにともないできるとされ、切り立った荒々しい断崖といった名勝奇勝を形作る。有名どころでは北海道の層雲峡、宮城の磐司岩、福井の東尋坊など。