再び潮岬だ!

 今日はいよいよ熊野詣である。熊野川と併走しつつ国道168号線を南下する。山奥だというのに川幅は広くしかも深そうで、流れているかもわからない。遠巻きにでも流れているのがわかる地元最上川や岩手の北上川とは大きく違っている。日本にはこんな川も流れているのだ。

 紀州の熊野大社は全部で三つある。新宮市の熊野速玉神社(くまのはやだまじんじゃ)、那智の滝で有名な那智勝浦町の熊野那智大社、そして本宮町(現田辺市)の熊野本宮大社。この三つをまとめて熊野三山と呼んでいる。特に本宮大社は古来の参詣道、熊野古道の終点にして要になっている。道のりこそ違えど、荒井も紀伊山地の奥深くまで、はるばる熊野詣に来たわけだ。

熊野本宮大社入り口
熊野本宮大社前。ちなみに大斉原は基本的に写真撮影禁止。

 名だたる神社だが、熊野大社は意外に小さく地味だった。境内には大きく四つの拝殿があり、それぞれ熊野とゆかりの神が祀られてある。社殿は裏山のようなところに詰め込まれるようにして建っていた。
 もともと本宮大社は、すぐそばを流れる熊野川の広大な中州にあった。ところが明治の中頃大洪水で流失し、それにともない本宮は洪水の心配のない近所の小山に遷座された。それが現在の本宮大社である。
 跡地はだたっ広い空き地で、現在大斎原(おおゆのはら)と呼ばれている。大斎原には近年建立された大鳥居がある。それ以外の何のなさとも相まって、かえって本宮より目立っていた。
 神社の至る所に三本足の烏の紋がある。熊野の神様の使い、八咫烏(やたがらす)だ。八咫烏とはその昔、神武天皇がこの地を訪れた際道案内をしたという三本足の大烏で、それにちなんで神社では交通安全の御利益を謳っている。
 変わったところでは、八咫烏はサッカーの神様でもある。神社によれば、日本サッカーの始祖と仰がれる人物が熊野の出身だったからとか、道案内ついでにボールもゴールに導いてくれと洒落たからとか、その昔蹴鞠(けまり)の名人がその上達を熊野に祈願したからとかいう縁で、八咫烏がサッカーの守り神となったそうだ。授与所ではサッカー日本代表のエムブレムをあしらったお守りも売られている。日本代表のエムブレム、あれが八咫烏だ。

湯ノ峰温泉の湯筒
湯ノ峰温泉憩いの場、湯筒。卵をゆでたり、芋をふかしたり。

 このあたりにはコンビニというものが全くない。朝食は大社前の自販機で買ったジュースが一本だけだった。朝早いので商店はどこも開いていない。何か食べるものはないかと、近所の湯ノ峰温泉に足を運んだ。
 湯ノ峰温泉は本宮大社の禊ぎ場として開かれた温泉地で、山間を流れる小川の両岸にせり出すようにして温泉宿がいくつも建っている。
 コンビニはないがそのかわり「湯筒」というものがある。湯筒とは熱湯が湧く源泉だ。通りに面した随所の露店では、たまごやさつまいもを売っている。温泉客はそこでたまごや芋を買い、湯筒でめいめいにゆでて食べられるようになっている。湯筒の温度は90度を超えるため、たまごだったら十分ほどでゆであがってしまう。即席のゆでたまごを五つほど平らげたところで、再び本宮大社前に行った。

珍重庵のめはりずし
紀州名物めはりずし。素朴ながら飽きない旨さ。

 本宮大社に戻ると、門前の茶店「珍重庵」が開いていた。さっきたまごを食べたばかりだが、食べられるうちに食べておこうと、紀州名物めはりずしと、くず湯で少し早めの昼食にした。
 そのめはりずしがでかかった。出てきたのは、高菜にくるまれた握り拳大のおにぎりが二つ。去年紀伊長島の道の駅で一人さびしくつまんだあれはいったいなんだったんだと思うほどでかかった。
 もともと「めはりずし」は山で働く男たちの弁当として食べられていたそうで、腹持ちがいいよう、目を見張るほど大きいからこの名前があるという。荒井も驚くわけである。高菜の中には削り節をまぶしたあったかいご飯が入っている。吉野で食べなかったくず湯も堪能したところで、本宮を出発した。

 熊野川に沿って快走することしばらく、前半でも訪れた新宮市へとやってきた。見覚えのある街角。走り回っていると見覚えのある場所が増えてくるが、そうした場所にまた来られるのはうれしいものである。新宮からは南に向かって走る。今日の目的地は本州最南端潮岬のキャンプ場だ。

太地町鯨慰霊碑
太地町の鯨慰霊碑。太地町も鯨で栄えた町なのだ。

 潮岬までなら時間に余裕がある。途中何度か寄り道した。
 「見学できます。お気軽にどうぞ。」の文字につられて、太地町にある那智黒本社工場に立ち寄った。「那智黒」は近畿地方で知名度の高い黒飴で、このあたりの道路の沿線には「那智黒」と書かれた大きな看板がいくつも建っている。那智黒とはもともと那智で取れる黒石で作った碁石のことなのだが、それに形が似ているからということで、黒飴の名前になったそうな。
 予約が必要かと思ったが、だめでもともと、見学できますかと事務所の方に訊ねてみると、「大丈夫ですよ!」と、運良く見学できることになった(注1)。

 会社の敷地はさほど広くない。事務所には事務員のおばさんがいるきりで、見た目はよくある町工場である。隣は倉庫になっていて、フォークリフトが「那智黒」満載の段ボール箱を積み降ろしている。向かいは工場。抜群の知名度を誇る黒飴は、すべてここで生まれているのだ。
 やがて工場の方から若い実直そうな作業員の方が一人やってきた。工場を案内してくれるのだ。ちなみにこのお兄さんも旅人で、以前一月ほど屋久島と種子島に行ったことがあるそうだ。「種子島ではロケットの打ち上げも見たんですよ。」と話してくれた。
 工場内では見学通路からガラス窓越しに中の様子を見ることになる。見学できる工程は全部で三つ、まずは飴を釜から出して冷ます工程、冷ました飴を一個ずつ切り分ける工程、最後に完成品を袋詰めする工程だ。工場ではちょうどこの日の最終製造工程が始まっていた。

那智黒と「紀州の香」
黒飴「那智黒」と果物飴「紀州の香」。「紀州の香」は箱の開くギミックが面白い。

 材料は大きな釜で煮立てられながら混ぜ合わされ「那智黒」の素になる。その量20キロ。煮上がった飴は二等分され、水冷式の大きな鉄板の上に広げられ、扱いやすい温度になるまで練り上げられる。板状に伸ばされた飴はビニールの下敷きのようで、ベロンと折りたたまれてはまた伸ばされる。「簡単なようでいて熟練が必要なんですよ。」と、案内のお兄さんが教えてくれた。固くなりすぎると手を怪我してしまうし、熱すぎるとやけどしてしまう。繊細さが要求されるのだ。
 練り上げられた飴は、次の工程で大きなローラー付きの機械にかけられる。飴は細長い棒状に伸ばされつつ、一個の大きさに切り取られていく。このあたりは自動化が進んでいて、金属の破片が混じっていないかなどの確認も機械でやっているが、最後の確認だけは人の目でやっている。形の崩れた飴や、機械に付着してしまう小さな飴粒などは、また材料として使えるので無駄がない。
 切り分けられた飴は、機械で計量され袋詰めにされる。170g入りの黒飴が毎分30袋。次々と袋詰めされた飴は、これまた次々と人の手で箱詰めされる。中では真っ白い作業服に身を包んだおばちゃんたちが、てきぱきと箱詰めをしていた。うかうかしていたらすぐに溜まって大変なことになりそうだ。こうしてできあがった「那智黒」は、あとは出荷されるのを待つばかりとなる。
 見学後、事務所に隣接した売店で、お茶とお菓子をいただいた。黒糖ようかんとかりんとうとイカせんべい。突然押しかけたというのに至れり尽くせりで恐れ多い。どれも非常に旨かった。ここで「那智黒」一袋と、最近出たばかりの新製品「紀州の香」を買って「那智黒」の工場を後にした。案内のお兄さんを始め那智黒総本舗の皆さん、ありがとうございました! お礼が遅れてすみません。飴旨かったですよ!

落合博満野球記念館
落合記念館。敷地内では少年が一人、黙々と野球の素振りに励んでいた。

 ところで太地町にはもう一つ「落合博満野球記念館」がある。記念館は熊野灘に突き出した岬の上に建っており、やたら展望がよい。入館料が2000円と高いので遠巻きに眺めるだけだったが、中には落合氏のユニフォームやトロフィーなどの他、どういうわけか、落合氏が描いた油絵まで展示されているそうな。
 落合氏は秋田の出身なのだが、現役時代、練習のため訪れた太地町が気に入り、ここに記念館を作ったという。開館の際、町の住人に「遊びに来てください」とあいさつ状を送ったのはいいものの、それを見て来た住人からもしっかり2000円取ったという話が伝わっている。さすが落合。信子夫人は奥さんだ。

 国道42号線を潮岬に向かって走る。天気はあいかわらずどこまでも穏やかで、海を眺める道もあいかわらず気持ちがよい。
 串本に着いたところで、前半にも訪れた紀伊大島に渡った。島の最東端樫野崎ではこの前閉まっていたトルコ記念館が開いていたので見学した。

串本町トルコ記念館
紀伊大島のトルコ記念館。悲しみと友好の歴史を今に伝える。写真は小冊子から。

 明治23年(1890年)、折からの暴風雨のため、紀伊大島沖でトルコの軍艦エルトゥールル号が沈没した。約650人の乗組員中、587名が殉職するという大惨事になったが、暴風雨の中、大島の住民は献身的に救助や遺体回収にあたり、生存者は丁重にトルコに送り届けられることとなった。事件以来串本では慰霊祭が開かれ、トルコとの友好を深めている。記念館はエルトゥールル号の悲劇とその後の友好の歴史を記すべく建てられたものだ。隣には立派な慰霊碑も建っている。

 この話には続きがある。その後エルトゥールル号の事件はトルコの歴史の教科書で採り上げられ、日本への感謝とともに学校で教えられるようになった。そのためトルコには親日家が多いらしい。
 約100年後。イラン・イラク戦争が激化した頃、時のイラク指導者、フセイン大統領が領空内の航空機を無差別で撃墜すると宣言した。刻限まで48時間。在イラク邦人達は、国外に脱出しようと空港に集まったが、もはや空いている便はないという有様だった。他国の飛行機は自国民を救出するのに手一杯、対応が遅れた日本では、危険をおしてまで飛行機を飛ばす航空会社がなかったのだ。
 刻限が近づき焦燥感の募る中、突如トルコの飛行機がやってきた。100年近い時が流れていたにもかかわらず、トルコの人々は忘れていなかった。今こそエルトゥールル号の恩返しをする時だと、トルコが脱出用の飛行機を用意してくれたのだ。かくして在イラク邦人は全員、無事国外脱出を果たしたのである。

 記念館からは、エルトゥールル号が遭難した岩場が見える。猿払村のインディギルカ号同様、多くの日本人には忘れ去られた記憶だが、熊野灘を望むこの場所にも、悲しくも輝かしい歴史が埋もれていた。
 荒井は地元山形のさくらんぼを思い出していた。山形も実はトルコと縁が深い。さくらんぼはもともとトルコが原産地で、さくらんぼの産地の一つ、寒河江市はトルコのギレスン市と友好関係を結んでいる。寒河江市にある道の駅「チェリーランド」にはトルコ物産を扱う建物もある。とはいえ、果たして、寒河江市民、ひいては山形県民のどれほどが、串本での出来事を覚えているのだろうか?
 自分は自分の国についてあまりにも知らないし、自分の国以外についてもあまりにも知らない。国際親善とはよく叫ばれるものの、我々は肝心なことを見落としているのかもしれない。インディギルカ号やエルトゥールル号の逸話は大きな示唆を与えている。

潮岬キャンプ場
潮岬キャンプ場。晩秋の静けさが嘘のよう。

 前回も食べたキンカンソフトを食べてから紀伊大島を出た。岬の入り口近くにあるAコープで、夕食用に惣菜の串カツやコロッケを買い込むと、再び本州最南端、潮岬にやってきた。
 去年来た時は寒さのせいか人気のなかった岬のキャンプ場も、今は連休だけあって色とりどりのテントでごった返し、駐車場には整理員まで出ていた。荒井もさっそくテントを張り、夕食の支度に取りかかった。米を炊き、レトルトカレーとさっき買ってきた串カツで即席のカツカレーをこさえる。貧乏くさい献立でも、本州最南端のキャンプ場で海を眺めながらの夕食は楽しいものである。

 本土最南端八重山諸島は、潮岬のまだまだ南である。


脚註

注1・「運良く見学できることになった。」:本来、那智黒総本舗を見学する際は事前予約や電話確認をしておく必要がある。

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