しまなみ海道とは、瀬戸内海の芸予諸島に属する向島(むかいしま)・因島・生口島(いくちじま)・大三島・伯方島・大島を経由して、本州の尾道市と四国の今治市を結ぶ高速道路「西瀬戸自動車道」の愛称である。構想そのものは20世紀の初めからあったのだが、実現したのは一世紀近く経った1999年のことだった。鳴門大橋、瀬戸大橋に続く三番目の本州四国連絡道路で全長約60キロ。島々の間は全部で八本の巨大な橋で結ばれている。全線が開通して格段に交通の便が良くなると、観光地として盛んにその名が売り込まれるようになり、今やしまなみ海道と言えば芸予諸島そのものを指すまでになっている。
ポンポンという音で目が覚めた。アメニティ公園沖の海を行き交う漁船のエンジン音だ。漁を終え港に戻る途中らしい。ストーブに火を付け、買い置きの食料からチキンラーメンを取り出す。ゆでたまごと紅茶もこさえて朝食にした。空は晴れている。海岸線に沿って因島を一周することにした。
因島は因島市(現尾道市)という一つの市になっている。名産は八朔と除虫菊。有名人には江戸時代の棋士、本因坊秀策などがいる。歌手のポルノグラフィティもここの出身で、前年のNHK紅白歌合戦出場を記念して、市内には「祝紅白出場」なんて横断幕が掲げられていた。
島の北には大きな鉄工団地や造船所が建っている。コンビニも何軒か見かけた。一方で島の南には漁師町や岬、砂浜の風景が残っている。海岸線沿いに走れば、瀬戸越しに対岸の島がはっきり見えた。
市役所でもらった小冊子を開くと、大浜崎の灯台と村上水軍城というのが目を惹いたので、寄ってみることにした。
島の北東、向島との間の海峡は布刈瀬戸(めかりせと)と呼ばれている。ちょうど因島大橋が架かっているあたりだ。その布刈瀬戸に突き出した岬が大浜崎で、岬は因島大橋記念公園として整備されている。天気がよいので、犬を連れたおばさんや、遠足の幼稚園児なども繰り出していた。
灯台はその一角にある。石造りの真っ白な小さな灯台で、隣には潮流信号所だった古ぼけた建物もある。沖の方では大小とりどりの船が瀬戸を絶えず行き交っている。岬の灯台や大橋の風景は、因島を代表する名勝だ。
この布刈瀬戸を押さえて繁栄していたのが、村上水軍だ。村上水軍とは、室町時代から戦国時代にかけて瀬戸内海で勢力を振るった「海の豪族」で、各地の大名を脅かすほどの海軍力を誇った。
その本拠地の一つがこの因島で、それにちなんで再建されたのが水軍城である。中は水軍に関する資料館になっていて、水軍の成り立ちや歴史に関する資料はもちろんのこと、水軍で使われていた武器や徳利などの日用雑貨も展示されている。
隣接して一族の墓地があった。○の中に上の字が入った村上家の紋を刻んだ墓が多い。一角には歳月を経てすっかり丸くなった宝塔がまとまって建っていた。一族の重臣が眠っているのだろう。
布刈瀬戸は西の安芸灘と東の備後灘を往来する航路にあたる、村上水軍はここを行き交う船から航行料を徴収して、財源としていた。その布刈瀬戸に架けられたのがしまなみ海道の因島大橋なのだが、草葉の陰で水軍のつわものどもは「今じゃ車も通るのか」とか思っているかもしれない。
市内の中華料理屋「鳳昇楼」で昼食にしてから、ガソリンスタンドに寄った。店員のおじさんは、DJEBELの山形ナンバーを見て「そんな遠くから来たのかい!」と驚いていた。盆暮れの帰省時、遠くからやってくる車はあれど、さすがに山形から中国地方まで自走してくるような人はほとんどいないらしい。
全国を走り回って思ったのだが、東北のナンバーを付けた旅人はあまり見かけなかった。東北地方は雪国であるため、もともと単車乗りの人口が少ないという。ましてやその中で日本一周を企むような輩となると、何人いるかもわからない。
因島南インターからしまなみ海道に乗り、生口橋で200メートル程度の瀬戸を渡ればそこが生口島だ。生口島北インターで降り、島の西に向かった。
途中感じのいい商店街があったのでDJEBELを停めた。そこが瀬戸田町(現尾道市)ご自慢のしおまち商店街だった。
生口島は行政的には、一部が因島市になっている他は、瀬戸田町という町になっている(注1)。島の北西、瀬戸田港周辺が中心部で、港に接続する形で商店街が伸びている。長さ600メートルほどの細長い通りで、みやげ屋から日用品店まで様々な店が営業している。何かの催しか、通りの上には桃色の花飾りがにぎやかに張り巡らされていた。
「富士」というみやげ屋に入ると店員のおばちゃんがやってきて、お茶や試食を勧めてくれた。「富士」では主にレモンを使ったみやげを扱っている。レモンケーキ、レモンジャム、レモンアイスといったものから、レモンクッキー、レモンプリン、レモンカステラ、果てはレモン羊羹、レモン醤油にレモンせんべいまで、さすがに関東レモンは置いていなかったが、これでもかと言わんばかりにレモンである。それというのも日本で一番最初にレモンを栽培したのがこの瀬戸田で、町の特産品となっているそうな。町には「レモン谷」と呼ばれるレモン畑地帯があるほか、柑橘類のテーマパークまで建っている。レモンせんべいはレモン風味のゴーフレットだったが、レモンアイスは旨かった。
隣は乾物屋で、しまなみ海道名物である干しダコを売っていた。炙ってそのまま食べたり、炊き込みご飯に入れると旨いというので、一枚買っておいた。商店街入り口には古民家を改装した小さな民俗資料館があって、塩作りの道具などを見学できるようになっていた。
しおまち商店街はもともと、耕三寺という名刹の門前町として栄えたところだ。隣に港があるため長らく町の玄関口としてにぎわってきたが、車社会の到来やしまなみ海道の開通で港に出入りする船が減るにつれ、客足が遠のいていった。事態を重く見た商店街は、これではいけないと街の活性化に取り組み、以来魅力ある商店街をつくる努力を続けている。遠くから来た一見の旅人が単車を停めるくらいだ。その成果は上々なようだ。
生口島から世界最大の斜張橋(しゃちょうきょう・注2)、多々羅大橋(たたらおおはし)で一気に海峡を渡ると大三島である。渡りきって来た方を振り返ると、大きく生口島が見えた。さっきまで自分が走っていた道路も間近に見える。あそこから一息にやって来たと思うと不思議な気分だった。
しまなみ海道は生口島までは広島県に属しているが、大三島から先は愛媛県になっている。旧国でいえば伊予国だ。その伊予国の一の宮、大山祗神社(おおやまづみじんじゃ)はこの大三島にある。しまなみ海道第一の目的地だ。
祭神大山積大神(おおやまづみおおかみ)は皇祖神天照大神の兄神で、神社は日本総鎮守を謳っている。もともと「やまつみ」とは山の神のことなのだが、その神社が海に浮かぶ島にあるのには、歴史的に深い理由があるらしい。ちなみに島の名前「おおみしま」は「神の坐す(います)島」という意味である。
神社は古くから武将達の崇敬が篤かった。瀬戸内海の覇権を争う武将達は神社の協力を得るべく、社殿から宝物まで様々な寄進をしたのだ。神社の隣には奉納された武器や宝物を展示する博物館が建っている。国宝級の鎧や刀剣の8割がここ、大三島にあるというふれこみだ。鎌倉でエクスカリバーを買うくらいの荒井、もちろん見学していった。
神社に鎧を奉納した武将の筆頭は、その鎌倉幕府の源義経と源頼朝だ。その後反目しあった兄弟の鎧も、ここでは仲良く向かい合わせに並べて展示されてある。
これら武将をさしおいて展示の目玉となっているのは、なんといっても鶴姫の鎧だろう。女性向けの鎧で、体型に合わせて胸回りが広く、腰回りが細くくびれた形になっている。鶴姫の名は島を訪れる人にはだいぶん知られている様子で、周りの見学客も「これがあの鶴姫の鎧よ!」と感激の言葉を漏らしていたのだが、不勉強な荒井、鶴姫が何者であるかは全く知らず「この鎧の形がらして、ずいぶんボインなお姉ちゃんだったんだべな。」と妄想をたくましくするだけだった(注3)。
宝物館の隣には、昭和天皇が集めた標本を展示した海事博物館も建っている。昭和天皇が生物学者であることは知っていたが、その膨大な収集物の一部が展示されており、非常に見応えがある。
日が傾いてきた。大急ぎで郵便局に駆け込み旅費を補充してから、近所のAコープで買い出しを済ませる。キャンプ場の近くに「多々羅温泉」という立ち寄り湯を見つけたので入っていく。しまなみ海道では貴重な温泉であるにもかかわらず、入浴料が300円とお得なのがうれしい。
今日の宿、多々羅キャンプ場は多々羅大橋の下にある。ときどき頭の上から橋を行き交う車や原付車の音が聞こえてきた。
砂浜に近い芝生の上にテントを張り、夕食の支度に取りかかった。今日の夕食はしおまち商店街で買ってきた干しダコを使った蛸飯と、Aコープで4割引だった五目豆だ。干しダコは小さくちぎって水に放ち、戻し汁と一緒にご飯に炊き込む。炊きあがるとペラペラの干しダコが元通りのふっくらしたタコに戻るのはちょっとした見物だった。てきとうに作った割には案外うまくできあがって、タコの旨みがしみこんだご飯を満足して掻き込んだ。
夕食後、浜辺に降りて焚き火をした。薪はそこらに流れ着いた流木だ。残った干しダコを焚き火で炙って食べる。酒がなかったので、かわりにキャンプ場隣の「サークルK」で1リットルの紙パック入り林檎ジュースを仕入れてきた。目の前の闇にはかすかに多々羅大橋と生口島が浮かんでいる。
そういや愛媛に来たというのに、まだポンジュースを飲んでいなかった。
注1・「瀬戸田町」:2006年1月、合併によって尾道市になったため、現在生口島全域は尾道市になっている。
注2・「斜張橋」:塔からまっすぐ斜めに張ったケーブルで橋桁を支える構造の橋。比較的短い工期で作れる上、外観に優れているといった利点がある。
注3・「鶴姫」:戦国時代の大山祗神社の神主、大祝氏(おおほうりうじ)の娘といわれる人物。三島水軍を率いて周防大内氏を打ち破ったが、その戦いで兄と恋人を失った悲しみのあまり入水して命を絶ったと伝えられている。野迫川村の鶴姫とは別人。