朝起きて、波の音が大きくなっていたので何事かとテントの外に出てみると、満潮になっていた。昨日焚き火をした場所はすっかり水没している。瀬戸内海は干満の差が大きいという話を思い出した。
キャンプ場を引き払い、昨日の「サークルK」でハムカツたまごロールを買って朝食にした。多々羅大橋たもとにある道の駅に寄ってみると、ポンジュースの自販機が置いてあったので、一本買って飲んだ。「命の水だポンジュース」とは、セックスマシンガンズもよく言ったものである。
今日は大久野島に渡る予定だ。大久野島は大山祗神社とともに、しまなみ海道に来たら行ってみようと思っていたところなのだが、橋が架かっていないため、フェリーで渡ることになる。フェリー時刻まで、大三島の南側を廻ることにした。
大三島の南側は、海を眺めながら漁港やみかん畑を縫う道が続いていた。隣の伯方島やその隣の大島、さらには四国の今治まで見える。四国は沖縄と九州を廻った後で訪れるつもりだが、いつのことになるのだろう。
やがてフェリーの時刻が近づいたので、発着港である盛港に向かった。
盛港は本州と大三島を往復するフェリーの発着港でもある。到着したフェリーからは車のほか、ウォーキング用の服を着た中高年の方が続々と降りてきた。この日は「しまなみウォーク」こと、しまなみ海道を歩いて渡ろうという催しが開かれていた。それに参加するため渡ってきたのだろう。
しまなみ海道の大きな特徴は、徒歩や自転車でも渡れることだ。自動車道の他に歩道が整備されており、しかも自動車に比べて格安で利用できる。景観が楽しめるトレッキングコースとしてはもちろんのこと、本州と四国を人力で横断したいという人々の通り道としても人気がある。
券売所で盛・大久野島間の往復切符を買い、フェリーに乗った。フェリーとはいえ、北海道や佐渡島に渡った時のような巨大なものではなく、航空母艦を10分の1ぐらいに小さくしたようなものだ。車両デッキは吹きさらしで屋根もない。
芸予諸島は他島地帯だ。島々の間にはこうした小さなフェリーが多く就航していて、電車やバスのような感覚で島々を結んでいる。
出航して12分、隣の駅に着くような感覚で大久野島に到着した。このとき島に降り立ったのは荒井だけだった。
島に降りるなり、おびただしい数のウサギが目の前に現れた。物怖じもせず、ウサギが何匹もピョンピョンピョンピョン飛び跳ねている。ウサギのお出迎えである。
とりあえず島を廻ろうとDJEBELにまたがると、間をおかずやってきた送迎バスのおっちゃんに「島はバイク禁止だよ!」ととがめられた。そこで港の脇の駐車場にDJEBELを置き、バスに乗って目的地、毒ガス資料館に向かうことにした。
大久野島は一周4キロほどの小さな島で、全体が国民休暇村となっている。自家用車の乗り入れが禁止されているのはそのためだ。そのかわり、宿舎と港の間、1キロほどの区間にはバスが往復しており、来訪者はこれに乗って宿舎に直行できるようになっている。島に民家の類はなく、夜になれば休暇村宿舎以外には人がいなくなる。港は待合室と桟橋があるくらいの簡単なもので、船着き場と言った方が的確である。盛港で聞いたことによれば、大久野島の船着き場に設置されていたフェリーの自動券売機が、ある夜ごっそり丸ごと持ち去られたとか。
目指す資料館は、ちょうど港と宿舎の真ん中あたりに建っていた。
今でこそ休暇村となっているが、島には暗い過去がある。太平洋戦争中、ここは毒ガス兵器製造拠点として極秘裏に工場が建てられ、軍事機密上、地図から消されていたことがあるのだ。
毒ガスは国際法で使用も製造も禁止されている。ところが兵器としては安価に製造できる割にはなはだ強力であるため、秘密に開発・製造する国が後を絶たなかった。
それは日本も同じだった。当時軍部は有力な製造拠点を求めており、大久野島が属する町も不況を前に、有力な産業を渇望していた。そこでお互いの思惑が一致して、瀬戸内海の小さな孤島に軍需産業こと、毒ガス工場が建てられることになったのである。
激化しつつある戦局を背景に、催涙ガスから皮膚をただれさすガス、吸い込めばたちまち絶命してしまうガスまで、大久野島では大量の毒ガス兵器が製造されていった。そしてそれは中国戦線や南方に運ばれ、実際に使われたという。ところが毒ガスは国際法で禁止されているため、そのことは公にされなかった。太平洋戦争時には秘密の兵器を作っていることを隠すため島の存在も秘密にされ、参謀本部地理局(現在の国土地理院)の地図からも、島は消されてしまった。
敗戦後も毒ガスの悲劇は続いた。日本の敗戦により毒ガス工場は破壊され、行き場を失ったおびただしい数の毒ガス兵器は、全て処分されることになった。ところが不幸にも、このとき満足な廃棄処置がとられなかった。ある毒ガスは海に捨てられ、ある毒ガスは地面の下に埋められ、ある毒ガスは焼却された。日本軍が進出した中国の大地や南方の島々には、今でも大量の毒ガスが埋められていると言われている。毒ガスの製造や廃棄に関わった多くの人が、作業中に漏れた毒ガスによる障害に悩まされ、その犠牲になったという。
毒ガスの脅威は今のところ地の底で眠っているが、何かのきっかけで地上に現れ、現代人を脅かさないとも限らないそうだ。大久野島の土壌には、地中に埋められた毒ガスの影響がまだ残っているというし、またこの年、茨城県で戦時中の毒ガスによる水質汚染が起こり世間を騒がした。国際法上、日本政府は大戦中に廃棄された毒ガスを全て安全に処分する義務があるのだが、作業は進んでいない。大久野島の悲劇はまだ終わっていないのだ。
そんな大久野島の歴史を展示しているのが、毒ガス資料館である。旅に出るずいぶん前にその存在を知って以来、見てみたいと思っていた場所だ。館内では毒ガス製造にまつわる史料の他、わずかに残った製造設備が見られるようになっている。防護服、防毒マスク、材料を煮る釜、螺旋形の冷却器などなど、異形の道具の数々は「禍々しい」と形容するしかなく、通常でない物を作っていたことは一見して明らかだった。消された島の名のゆえん、島の周囲が真っ白に消された地図も展示されてある。そこまでしてこの島では毒ガスが作られていたのだ。
毒ガスの実験生物にはウサギが使われていたそうだ。いつ頃からか、島ではウサギが増えていったのだが、実験台ウサギの末裔だとまことしやかに語られている。
荒井が見学していると、修学旅行の女子高生の一団がどやどやと入ってきて、にわかに館内が騒がしくなり、落ち着いて見学できなくなった。こりゃたまらんと退散した。
女子高生から逃れるようにして、歩いて島内を一周した。大久野島は小さいので、1時間半もあれば十分に一周できる。
島の南側には、プールやキャンプ場といった休暇村の屋外施設がある。その合間には毒ガス障害者慰霊碑や、島唯一の神社、灯台などがひっそりと建っていた。北側は小山になっていて、その麓を取り巻くように遊歩道が整備されてある。遊歩道沿いには戦時中に使われた発電所や台場の廃墟が残っており、消された島だったことを偲ばせている。小山のてっぺんは展望台で、本州や周りの島々がよく見えた。島の西岸は絶好の釣り場で、磯釣りを楽しむ方の姿が多い。ところがここでも山の方を振り向くと、昔毒ガス貯蔵庫だった廃墟が草木に埋もれている。
日本の国には数多くの素晴らしいものが眠っているが、一方でこうした数々の悲しい過去も眠っている。日本を知ろうとするならば、負の遺産も知っておかなければ、本当に知ったことにはならないだろう。
食堂ぐらい開いているだろうと宿泊棟に行ってみると、まだ営業していなかった。ロビーでアイスなど食べながら開店を待つ。隣りではさっきの女子高生達が出発準備の真っ最中で、またまた騒がしくなっていた。外では女子高生の大群が出発を待ちつつ、しゃがんでおしゃべりに興じていたが、その様はヒッチコックの「鳥」(注1)さながらだった。女みたりで姦しいなら、200人近く集まったら何と言えばいいのやら。しかもみんな関西弁でしゃべっているのだ。
神戸の名のある女子高らしかったが、つくづく女子高生は怖いと思った。
やがて食堂が開店した。昼食にタコ天たまごとじ丼を食べてから、大三島に戻るべく船着き場に向かった。女子高生達もちょうど島を離れたところだが、元気なのは相変わらず、船の上から見送りに来た休暇村の若い職員さんに向かって「海に飛び込んで〜!!」とはやし立てていた。職員さんも職員さんで、女子高生を前にはしゃいでいたのか、ドボンと何人も海に飛び込んでいた。まぁ、毒ガスとは無縁の平和な光景ではある。さっき毒ガス資料館でもわいわい騒いでいたが、せめてこの島の歴史ぐらいは記憶に留めておいてくれよと思う。
大三島に戻ってから、もう一つ気になっていた場所に行ってみた。多々羅大橋の鳴き龍だ。
大三島と生口島を結ぶ多々羅大橋は、1999年、しまなみ海道で最後に完成した橋で、これをもってしまなみ海道はめでたく全線開通となった。全長1480メートル、世界最大の斜張橋は、二本の主塔から張り出すケーブルで長い橋桁を支える仕組みになっている。
鳴き龍とは、天井の下で手を打ったり音を出すと、音が床と天井に反射して、こだまのように残響音が聞こえるというからくりで、日光東照宮にあるのが特に有名だ。
多々羅大橋の主塔はアルファベットのHをひょろ長くしたような形をしているのだが、それがたまたま鳴き龍現象の起こる形になっていた。現代建築技術の粋を集めた多々羅大橋で、古来の日本建築に見られる鳴き龍が試せることが面白い。意図せずして生まれた多々羅大橋の「隠れ機能」は、歩いて渡れるしまなみ海道ならではの面白名所となっている。
橋のたもとにDJEBELを置き、大三島側の主塔まで歩道を歩く。DJEBELでは一気に通り抜けた大橋も、歩いてみると結構長い。主塔の真下に来たところで、まずは一回柏手を打った。「バチンバチンバチン...」と、昔東照宮で聞いたよりも激しい鳴き龍の音がする。いかにも鳴らしてくださいと言わんばかりに拍子木も備え付けられてあったので、こちらも試してみる。「カンカンカン...」と、拍手とは違った残響音がした。面白がって何度も試してからその場を後にしたが、後から来た見物客も、同じように何度も遊んでいた。
DJEBELを駆り、生口島に戻る。しおまち商店街で前日来た時に気になっていた「玉木商店」のローストチキンを買い食いし、島の北にあるジェラート屋「ドルチェ」で夏みかんアイスを食べてから、野宿場所を探しにかかった。いつの間にか空はくもり、泣きだしそうになっていた。
町はずれにある柑橘類集荷場が、人気もなくちょうどいい具合に雨がしのげそうだったので、ここにこっそりテントを張ることにした。暗くなるのを待ってテントを張ったが、ちょうどその頃から雨がぱらぱら降ってきた。隣がAコープだったので、そこで買ってきた見切り品の寿司と、島名産のレモンジュースで夕食にした。
しまなみ海道で訪れるべきところは訪れた。明日にはしまなみ海道を離れ、広島に向けて旅立つことになる。
朝起きると、雨はますますひどくなっていた。集荷場の床には、屋根から落ちてきた雨水が入り込んできて、何条もの筋を描いている。本格的な雨降りだ。
こういうときは足取りも重くなる。テントを張りっぱなしにしたまま、近所のコンビニまで歩いていき、朝食のツナタマサンドとオレンジジュースを買い込む。うだうだと撤収準備を始める。荷造りが済んでもまだ出発せず、日記を書きながら雨脚が弱まるのを待ってみるが、一向に止む気配はない。
そうこうするうち午前九時になっていた。このまま黙っているわけにもいかず、合羽を着込み、思い切って出発した。
雨装備では、ただでさえ厄介な高速料金の支払いがますます厄介になる。生口島から因島まではしまなみ海道ではなくフェリーで渡った。ちょうど橋が架かっているあたりにはフェリーも就航していて、橋よりも格安で対岸に渡れるようになっていた。フェリーはなかなか盛況で、しまなみ海道が開通した今でも、島民の足として多く利用されているようだ。
因島北インターに向かう途中、コインランドリーを見つけたので、雨宿りがてら洗濯をした。そろそろ洗濯物もたまっていたのだ。
そのコインランドリーが変わった方式だった。ここの洗濯機は硬貨ではなくICカードを使うのだ。まず利用者はICカード型のプリペイドカードを買い、専用の券売機でそのカードに金額をチャージしてやる。首都圏のJRで利用できるSuicaと同じ方式だ。これがよくわからず、カードに余計な金額をチャージしてしまって悔しい思いをした。
コインランドリーはショッピングセンターの一角にあり、日曜日ということもあって、家族連れが多く利用していた。コインランドリーといえば独身男性が利用するという印象が強かったのだが、今となってはそうでもないらしい。どの利用客も、篭いっぱいの洗濯物を手慣れた様子で洗濯機に放り込んでいる。洗濯機や乾燥機は常に回りっぱなしだった。
洗濯が終わり外に出た。止みそうな気配は全くない。尾道に戻っても相変わらず足取りは重い。市内でネットカフェを見つけると、またまた雨宿りだと中に逃げ込んだ。全く嫌になるこの雨。「どうせ明日は広島市さ寄んだがら、遠ぐさは行げねべ。」と横着になるので、走行距離も伸びやしない。
ネットカフェを出ても、雨は止んでいなかった。こうなったら覚悟を決めて、延々と走るのみである。
三原市にさしかかったところで、昼食にしようとコンビニに寄った。そこでふとDJEBELの振り分けバックを開けてみて愕然とした。中の荷物が浸水していたのだ。しかも濡れると困るレシートや小冊子類が。
こうしたものはビニール製のバッグに入れ、さらゴミ袋二枚でくるむという二重の防水対策をしていたのだが、その全部に穴が開いてしまい、そこから水が入ってきたらしい。頭にきて、穴の開いたゴミ袋はグシャグシャにしてゴミ箱に突っ込み、新しいゴミ袋を買い込んで包み直してやった。こうなったら早急にどこか広いところに広げて、干してやらないとだめそうだ。
軒下で地図を広げると、呉市(くれし)の南に「音戸ロッジ」という国民宿舎があることが判った。国民宿舎だったら書類を広げて干せるぐらいの場所は確保できるし、呉市なら翌日広島市に行くのにも好都合だ。第一この雨で野宿する気はとうにない。今日の宿は決まりである。
頭はもはや音戸ロッジに着くことしか考えていなかった。浸水事件ですっかりやる気も萎えている。ひたすら続く海岸線も陰鬱そのもの、風景を楽しむ気さえ起きなかった。昨日大久野島から眺めた竹原市の海岸線も淡々と通過した。かくして修行僧のごとく走り続け、ようやく待望の音戸ロッジに到着すると、救われるかのように雨脚も弱くなっていた。
音戸ロッジは本州と倉橋島の間の細い海峡、音戸ノ瀬戸(おんどのせと)に臨む高台にある。倉橋島との間は音戸大橋というループ橋で結ばれている。ループ橋は音戸ロッジのシンボルマークにもなっている。
飛び込みだったが運良く部屋が取れたので、さっそく部屋に入って、水浸しになった書類を一面に広げた。しかる後風呂につかり、雨で参りきった身体を休めた。ここの風呂は「日招きの湯」という温泉で、近年掘り当てたものらしい。併設のレストランで夕食に刺身定食を平らげると元気も戻ってきたので、周囲をあれこれ見て回ることにした。
呉は軍港として栄えた港町だ。戦艦大和が作られたのは呉の工廠である。今でも市内には海上自衛隊の基地や海上保安大学などあって、沖には自衛隊の艦船が碇泊しているのが見えた。音戸ロッジの近くには大きな製鋼工場や古い商店街が控えている。海軍時代の名残だろうか。
みやげ売り場では、鎮守府だったことにちなんだ品が売られていた(注2)。海軍地ビールに海軍コーヒー、さらに「呉ンガー」(くれんがー)なるみょうちくりんな名前のお菓子。館内の自販機では地元業者さんが作っている「げんまい乳」なるアヤしげな飲み物が売られていた。アヤしいもの愛好家荒井、呉ンガーとげんまい乳にさっそく飛びついたことは言うまでもない。
呉ンガーは煉瓦の形をした焼き菓子だ。赤煉瓦の建築は海軍の街呉を代表する風景で、それにちなんで煉瓦をかたどったお菓子を作ったものらしい。買ってきたのはケーキとサブレの二種類。名前こそ変だが中身はちゃんとした焼き菓子なので、かなりいける味だった。
もう一方、げんまい乳は予想通りの味だった。
注1・「ヒッチコックの『鳥』」:パニック映画の傑作。1963年作品。監督アルフレッド・ヒッチコック。野生の鳥の大群が突如人を襲う恐怖を描く。
注2・「鎮守府だったこと」:売店では売っていなかったが、海軍発祥とされる肉じゃがも名物である模様。肉じゃが発祥の地を巡っては、同じく軍港だった舞鶴と張り合ってるとか。ちなみに横須賀は海軍カレーを名物にしている。
長旅で面倒なのは洗濯です。洗濯自体はコインランドリーやユースホステル備え付けの洗濯機で済むのですが、その後の乾燥が大変です。中には洗濯物を単車にくくりつけて、走りながら乾かすといった方もいました。荒井は夜寝る前に洗濯して、寝る前に干して、朝起きた頃に取り込むといった具合でした。この場合、速乾性の化学繊維素材の服を揃えておくと乾燥が楽です。
本文でも書いていますが、プリペイド式コインランドリーはお金の無駄になるのでおすすめしません。
単車旅は雨との闘いでもあります。そんなときはビニールやナイロン製のゴミ袋が役に立ちます。濡れると困るものをこれに突っ込んでおくと、雨から荷物を守れます。防水バッグなんていうものもあるのですが、それなりに値段が張ります。安い上、手軽に使え、しかも荷物にならないので、多くの旅人がゴミ袋を愛用しています。中には穴を開けて合羽がわりに使った方もいたそうで...
ところが、何度も使っていると穴が開いたり破れたりしますので、使う際にはそのあたりも注意しておきましょう。本当に濡れると困るものは、ちゃんと防水バッグに突っ込むか、ゴミ袋数枚で厳重に包んでおくことをおすすめします。