朝食は宿に頼んでいたが、いわしとたらこの煮付け、たまごやき、かまぼこ、昆布巻き、油揚げとタマネギのみそ汁、のりという献立の他、広島らしくいりこみそが添えられていた。
八時半に音戸ロッジを出発し、一路広島市に向かう。呉には面白そうな資料館など建っているのだが、開館時刻と昼食時間のかねあいから、今回は泣く泣く見送ることにした。このあたり、県庁食堂巡り旅のつらいところである。
広島市周辺はやたら車の運転が荒っぽい。多くの車が飛ばしまくっていた。さすが自動車会社マツダのお膝元と言うべきなのか。「仁義なき戦い」(注1)なんて単語がふと脳裏をかすめる。そういや珍走団が多いという噂もあったような。
そうこうして走るうち、迷うこともなく広島県庁にたどり着いたのだった。
広島市は太田川河口の三角州に開けた城下町で、中国地方第一の都市である。見所は数あれど、東北から県庁を見に来た人間はそう多くあるまい。駐輪場はほぼ満杯で、単車を停められそうな場所がなかった。どうしようかと考えていると、そこにいたおばちゃんがスクーターを押しながら「今出てきたところが開いたから、そこに入れたらどう?」と、場所を勧めてくれた。
県庁内の郵便局からこれまで買い込んだゲームソフトやフィギュア、それに昨日水でバリバリになった小冊子類を実家に送った。中国地方と東北はだいぶん離れているので、その分送料も高めだ。県庁を写真に収めるなどしているうちに開店時刻が迫ってきたので、県庁食堂に行った。
広島県庁は背の低い建物で、食堂はその地下にある。さっそく入ろうとすると入り口に「県庁関係者以外使用禁止」の張り紙があった。なんだって関係者以外使用禁止。全国県庁食堂巡りここで頓挫かと心配になったが、店のおばちゃんに訊いてみると「一般の来庁者でも大丈夫ですよ!」と太鼓判を押してくれたので、ようやく安心して食堂の入り口をくぐった。
食券を買おうと券売機に並んでみると、調子が悪いのか、店のおばちゃんが券売機のふたを開け、お金を取り出したり、券売機のご機嫌を取ったりしていた。どうやら先客のおじいちゃんが入れたお金のお釣りが出てこないらしい。おばちゃんは「調子が悪くてごめんね〜。」と謝っていたが、なぜか先客のおじいちゃんまで「詰まってごめんな〜。こういうのもよくあることだから〜」と荒井に謝っていた。
さっきのスクーターのおばちゃんといい、券売機相手に悪戦苦闘しているおばちゃんおじいちゃんといい、広島の方々は気さくなのかもしれない。車の運転とは大違いである。
ここで食べたのは「普通定食」こと、410円の日替わり定食だった。今日の献立はチキンハンバーグ、イカフライ、れんこん天、付け合わせのスパゲティ、れんこんとじゃが芋の煮物、みそ汁、たくあん二切れ。見るからに安いがお腹はいっぱいになる。客入りはまずまずで、その多くが普通定食を食べていたが、どのあたりが普通なのかはわからない。
広島に来たならば、平和記念資料館を見ないわけにはいかないだろう。県庁からは目と鼻の先だ。広島で一番有名なのはマツダでもヤクザでもカープでもない。世界で最初に原子爆弾が投下された街という事実、いわゆる「ヒロシマ」である。
平和記念資料館は、原爆被害を物語る資料を展示している。入館料は50円。破格の安さは支援体制の篤さや見学者の多さに由来するのだろうが、一方で多くの人々に原爆の悲惨さを伝えなければならないという、使命感のようなものを感じる。
展示内容には、本や数々の記録映画、テレビなどで見て知っていたものも多い。爆風に潰された建物、熱線で灰燼に帰した街、原爆症に苦しむ人々。全て一発の原子爆弾がもたらしたものである。
全ての展示物の中で最も圧倒されたのは、歴代広島市長が送り続けた抗議電報だった。歴代の広島市長は、世界各地で核実験が実施される度に、実施国に抗議の電報を送っている。それが全て張り出されているのだが、実に壁一面を覆い尽くしていた。
戦争は嫌だ。痛いのも死ぬのも嫌だし、人も殺したくない。戦争は止めよう。核兵器は捨てよう。口で言うのは簡単だ。しかしどうしてそれが、終戦後60年近く経ったというのに、いまだできないのか。日本が侵略者だったことを忘れてはいけないが、勝てば官軍の論理で核兵器が許されるのも納得がいかない。
隣接する平和公園周辺は観光客が絶えず行き交っているにもかかわらず、やけに静かだった。この上空で原爆が炸裂して以来、ここは永久に静かになってしまったのだろう。惨事の象徴たる原爆ドームはもちろん、あたりにひっそり存在している小さな慰霊碑の数々は、多くの市民が犠牲になったことを静かに訴えていた。
公園には日本人はもちろん、アジア人、黒人、白人と様々な人々が見学に訪れていた。願わくば、彼らの思いが一つであることを祈る。
次なる目的地は宮島、厳島神社のある島だ。本州からはフェリーですぐに渡れるようになっている。港の最寄り駅の名前は「宮島口」で、駅前には名物もみじまんじゅうや穴子飯、お好み焼きの店が軒を連ねている。島に渡る前から門前街の様相だ。ついでにここにあったぷよまん屋(注2)は跡形もなく消えていた。
宮島までの5分の船旅の間、フェリーの乗務員さんに話しかけられた。やはり中国地方では山形ナンバーは珍しいようだ。もう一人、同船していたご老公にも話しかけられた。「どこに泊まるんですか? 宮島で野宿するんでしたら、杉ヶ浦の海水浴場がいいですよ。」と、宿泊情報を教えてくださった。ご老公は先祖代々宮島に住んでいらっしゃるそうで、だから宮島のことに詳しいわけである。ご老公、情報ありがとうございました!
宮島は意外に大きかった。大久野島のような場所を想像していたが、集落はあるし、自家用車も走っている。みやげ屋や食堂が建ち並ぶ門前街を抜け、さっそく島に来た一番の目的、厳島神社に行った。
日本三景の一つ、厳島神社は安芸国の一の宮だ。原爆ドームと並び広島の世界遺産となっている。海に建つ真っ赤な大鳥居はあまりにも有名で、宮島の目印でもある。
境内は一方通行で、入り口にはその日の干潮時刻と満潮時刻が掲示されてある。祢宜さんに尋ねてみると、「潮の満ち引きによって、社殿の趣が変わるからなんですよ。」と教えてくれた。厳島神社一番の特徴は、海に臨んで建っていることだ。満潮時は景観に優れ、干潮時は磯に降りられるようになっている。ちなみに磯も境内なので、潮干狩りは禁止である。
拝殿は鮮やかな丹(に)塗りが目を惹くが、作りそのものは至って剛健だ。凝った指物や彫刻の類はあまり見当たらない。神社は平家一門の信仰が篤く、現在の社殿は平家の棟梁、平清盛が改築したものを元にしているそうな。源氏が崇拝した鶴岡八幡宮や大山祗神社と比べると、武士でありながら貴族に憧れた平家らしい作りだなと納得した。
参拝を終え、さっき教えていただいたキャンプ場に向かった。杉ヶ浦にある包ヶ浦(つつみがうら)自然公園野営場だ。
管理棟で手続きを済ませると、職員のおじさんが「このあたりは鹿が多いから、食べ物を獲られないように注意してくださいよ。」と念を押してきた。「前例があるんですか?」と聞き返すと、「数え切れないほどですよ!」とのお答えが返ってきた。
厳島神社の神獣が鹿であるせいか、島には鹿が多い。神社の入り口のみならず、門前街にまで出てきたりする。実際、野営場の近くにも鹿がいて、鹿視眈々と人間様の食料を狙っているらしい。
こうなれば自炊をするのも大変だ。食べている最中に鹿がぬっと現れて、夕食を獲られたらたまったもんじゃない。だったら外食で済まそうぜと、町に出かけることにした。
食堂なら門前街にいくらでもあるのだが、ひねくれ者の荒井、こういう場所で食べるのも面白みがない。道を一本はずれて、門前街の裏にある町家通りで店を物色した。門前街が観光客相手ならば、町家通りには島の住人御用達の店が並んでいる。
町家通りには門前街のような華やかさはなく、観光客の姿もほとんどみかけなかったが、そのかわり、鄙びていながらもよく整った街並みが残っており、宮島の歴史を感じさせる。酒屋さんで地酒を仕入れ、食料品店でつまみのいかり豆を買い込む。広島風のお好み焼きでも食べようぜと、近場のお好み焼き屋「きしべ」ののれんをくぐった。恰幅のいいおばちゃんが切り盛りしている店だ。店内には常連客とおぼしき方が一人いて、おばちゃんと昨晩の広島カープの試合の話で盛り上がっていた。そういや原爆ドームの隣に、広島市民球場があったことを思い出した。
ここで食べたのは肉玉お好み焼きだ。広島風のお好み焼きは初めて食べた。皮は薄目で、キャベツと焼きそばがたっぷりと入っている。
野営場に戻ってからテントを張った。豆をつまみに酒をやりつつ日記を書く。利用客は荒井だけのようだ。あたりが暗くなるとさっきの職員のおじさんがやってきて「夜は真っ暗になるから、灯りをつけときますよ。」と、厠の電気を付けておいてくれた。そして「鹿には気をつけてくださいよ!」と再び念を押してから帰っていった。
注1・「仁義なき戦い」:極道映画の名作。1973年作品。監督深作欣二・原作飯干晃一・主演菅原文太。敗戦直後の広島を舞台に繰り広げられたヤクザ達の抗争を描く。
注2・「ぷよまん屋」:広島市に本社を置いたソフトハウス「コンパイル」が経営していたキャラクターグッズ店「ぷよまん本舗」のこと。97年頃には、ゲームキャラクターの形をしたもみじまんじゅうや自社のゲームグッズなどを販売していた。コンパイルの末路についてはご存じの通り。