民俗学者の島

包ヶ浦自然公園野営場
包ヶ浦自然公園野営場。鹿も現れる林の中のキャンプ場。

 さいわい鹿に食べ物を獲られることはなかった。鹿が来ないうちにテントを畳み、野営場を後にした。
 フェリーまでまだ時間があったので、もう一度厳島神社を見に行った。昨日干上がっていた社殿も、今は満潮で縁の下がすっかり水の中だった。まだ七時前だったが、修学旅行の小学生や観光客がすでに何人か来ている。来た道を引き返すと、鹿の群れが住宅の間の道路にいるのを見かけた。この島の主役は鹿である。

門前街に現れた鹿
宮島の鹿。こんなところにまで現れる。

 港でフェリーを待っていると、係のおじちゃんが話しかけてきた。やはり山形ナンバーを見て興味を持ったらしい。おじちゃんは山形に来たこともあるそうだ。「でも、ほとんど通過しただけのようなものだから、詳しいことはよく知らないんだよ。さくらんぼと、将棋の駒の天童(注1)とさくらんぼ、あとは大泉逸郎(注2)と、昔大火事があった酒田ぐらいのものかなぁ。」
 いくら同じ国とはいえ、他県に対する認識は「ゲイシャ・フジヤマ・ハラキリ」程度のものであることが多い。よく知らないという点では、国内も異国や月の裏と変わりがない。

厳島神社の大鳥居
厳島神社の大鳥居。宮島の目印。

 「厳島神社の大鳥居は見てきましたか?」 帰りのフェリーでは、昨日と同じ乗務員さんに話しかけられた。最近10年ぶりに丹を塗り直したばかりできれいに見えるが、時間が経つと黒ずんでしまうことや、干潮時には降りて鳥居のところまで行けることなど教えてくださった。

 県境を越えれば、いよいよ本州の西端、山口県である。名前に「山」を含む県は日本に六つあるが、その一番東山形県から、とうとう一番西の山口県まで来たのだ。山口県に入って間もなく、岩国市に立ち寄った。目当ては錦帯橋と白ヘビだ。

錦帯橋
岩国一番の名所錦帯橋。優美な弧を描く日本有数の木造橋

 錦帯橋は市内を流れる錦川にかかる、五連の弧を描く木造の橋で、岩国随一の名所となっている。最初に作られたのは江戸時代半ばで、その後二度の流失を経て現在のは三代目、だいぶ痛んでいたようで、3年にわたる掛け替え作業の最中だった。その姿はテレビや本などで幾度となく見ているが、実際目にするのは初めてだ。
 橋はもちろん渡れるようになっていて、先には公園や博物館、再建された天守閣公園などがある。橋のたもとには、佐々木小次郎が燕返しの技を特訓したという柳の木も残っている。
 橋と並んで岩国のマスコットとなっているのが白ヘビだ。生物学的にはアオダイショウのアルビノ(色素細胞のない変種)なのだが、どういうわけかその形質が遺伝的に継承され、何世代にも渡って続けざまに現れるものと考えられている。白いのにアオダイショウ。さておき、白ヘビは岩国では幸運の守り神としてあがめられ大切にされた結果繁殖し、岩国に生息し続けているのだそうな。
 ところが最近は都市化が進んだために生息数が減り、市内数カ所の飼育施設で保護増殖が計られている。その一つが錦帯橋を渡ったところにあって、気軽に見学できるようになっているのだ。
 中に入ると大きなガラスケースの中に、体長1メートルを超える真っ白なヘビが4頭ばかり寝ていたり、とぐろを巻いたりしていた。一角には生まれたばかりの稚ヘビが飼われたケースもあるが、同じようにしていた。ヘビはおとなしいようで、あまり派手に動き回らない。よく見るとなかなか愛嬌のある顔つきだ。一頭一頭にはちゃんと名前が付いていて、大事にされていることがうかがえる。
 橋とヘビだけ見て帰るつもりだったが、せっかくだからと山の上にある天守閣も見ていくことにした。公園からロープウェイに乗り、山頂駅に向かった。
 元の岩国城は江戸時代初期に建てられたが、一国一城の例によってわずか7年で廃城となってしまった。現在の天守閣は昭和の再建だが、それは岩国市民の悲願だったそうだ。中には刀剣類が展示されていて、一番上は展望台となっている。錦川にかかる錦帯橋や岩国の街並み、向こうに広がる瀬戸内海がよく見えた。

 岩国の次に寄ったのは屋代島、通称周防大島だ。本州からは大島大橋一本で渡れるようになっている。
 屋代島は知る人ぞ知る宮本常一生誕の地だ。宮本氏は大正から昭和にかけて日本国内をくまなく回り、失われつつある生活文化を記録した大民俗学者で、その業績は博物学の巨人南方熊楠や民俗学の大家柳田國男と並び称されている。旅の鉄人賀曽利隆さんが我が師と慕うように、その姿は旅人の偉大な目標だ。「忘れられた日本人」「家郷の訓(おしえ)」など、旅に出るにあたって、荒井もその著作はいくつか読んでいる。宮本氏は離島の振興に力を入れていたが、それには自分が島育ちだったことも関係があったのだろう。
 「家郷の訓」を読む限り、田舎の小島を想像していたのだがそれは違った。大島の名のとおりまず広い。大島大橋から宮本氏の故郷、東和町(現周防大島町)までは22キロもある。しかも橋が架かって物流がよくなったおかげか、「セブンイレブン」も2件見かけた。宮本氏の生家があったあたりには立派な道の駅が建ち、時代の流れか、すっかり様変わりしている様子だった。ただ、町そのものは高齢化が進み、一時期高齢化率全国一位を記録したこともあったそうだ。

東和町の民俗資料館
東和町の民俗資料館。宮本常一氏が島で集めた民具が並ぶ。

 道の駅の隣りには民俗資料館がある。農具から漁船まで、宮本氏が町内で集めた民具の数々が、整然と展示されている。島では半農半漁の生活が営まれていたようだ。受付のおばちゃんは「私が小さかった頃には、自前で蚕を飼って、糸を作っている家もまだあったのよ。」と仰っていた。
 偉大な民俗学者の里ではあるものの、町にその痕跡はあまり多くない。ところが再発見の動きは着々と進んでおり、翌年には記念館ができるという。「息子さんが島で農業をやっていて、日曜日になると道の駅で焼き芋を売ってるのよ。東和金時。」(注3)と、地元ならではのお話もうかがえた。

穴子三昧定食
「サザンセトとうわ」の穴子三昧定食。穴子好きには堪えられない一品。

 昼食はその道の駅「サザンセトとうわ」の穴子三昧定食だった。穴子たまごとじ鍋穴子飯穴子天と、瀬戸内海名産穴子づくしの膳で1500円、魚も好きなら若本規夫氏(わかもとのりお・注4)の声でしゃべる方も好きというほどの穴子好きの荒井、奮発した甲斐がありました。

 島を一周して再び大橋に戻る頃には、そろそろ夕方も迫り、天気も怪しくなりだしていた。今朝の晴天が信じられない。野宿しようか宿に泊まるかで迷ったが、結局徳山市(現周南市)の西緑地キャンプ場にテントを張ることにした。
 現地に行ってみるとこの前合併したらしく、徳山は周南市と名前が変わっていたが、その割には迷うことなくキャンプ場にたどり着いた。キャンプ場は緑地公園の空き地を無料キャンプ場として開放したもので、簡単な水道と厠以外には何もない。テントを張り、夕食を作ろうとした途端、雨が激しくなってきた。
 ラジオの天気予報では、奄美大島が梅雨入りしたと言っていた。沖縄に渡るのは、梅雨のまっただ中になりそうだ。

本州の果て

 朝から雨だった。一晩中雨がフライシートを叩く音がしていたので覚悟はしていたが、朝になっても止む気配は全くない。寝る時下に敷いているエアマットは、しみ出てきた水で裏がびしょ濡れだった。テント本体も湿気でテント地とフライがぺっとりとくっついている。隅っこに置いていた服は水を吸って湿気っていた。昨晩羽毛の寝袋を使わなかったのは正解だった。寝袋は濡れると一番困る。雨が降りそうな時は撤収の手間まで考えてテントを張るのだ。

 雨の日の撤収が面倒なのは、いつも以上に気を遣うことが多い上、手間がかかるからだ。通常荒井が撤収する場合、まずテントの中のものを畳んで全て外に出す。中が空になったところでテントを畳み、装備をザックや単車に詰め込んで、あたりを見回してごみが落ちてないか、忘れ物はないかを改めてから完了となる。
 これが雨の日となるとそういうわけにはいかない。まず荷物を外に出せない。だから荷物を先にザックや単車に詰め込む。もちろん必要なものはビニール袋なりで防水してやらなければならない。次にテントの中で合羽を着て、ザックを担いだまま、テントを畳むことになる。ただでさえ合羽とザックで動きづらい上、テントがべしゃべしゃなので畳みづらい。だから荒井は天気がいい時でも、夜中に天気が変わることを考えて、雨のしのげる場所を探してしまうというわけだ。

 テントを張ったのは砂地だった。「このまま畳むど、砂が付いで面倒なごどさなるな。」と小手先の知恵を働かせ、舗装済みの遊歩道の上まで空のテントを持って行き、そこで畳むことにした。とりあえずびしょ濡れのテントを振り分けバッグに突っ込み公園を出る。うまいことに近場のスーパーに屋内駐車場があったので、そこで改めて荷造りをやり直した。テントは念入りにビニール袋にくるみ、ザックにしまい直す。荷造りが完了し、本格的に出発したのはスーパーの開店と同じ、午前七時だった。
 近場のガソリンスタンドとコンビニでDJEBELと荒井の腹の補給をしてから、まずは今日最初の目的地、周防国(すおうこく)一の宮、防府市の玉祖神社(たまのおやじんじゃ)に向かった。防府とは「周防国の国府」という意味だから、防府市に一の宮があるのは、きわめて理にかなった立地ということになる。

玉祖神社
玉祖神社。れっきとした周防国一の宮。

 防府市には天満宮もあって、こちらは道路案内標識にでかでかと表示されているくらいに有名なのだが、それに比べると玉祖神社はあまり知られていない様子である。境内はこぢんまりとしていて、参拝客も近所のおばさんらしき方が2〜3人、散歩がてらに訪れているぐらいだった。社務所には誰もおらず「ご用の方はこちらまで」と、宮司さんの家の住所を書いた張り紙がされてある。祭神は玉祖命(たまのおやのみこと)。八尺瓊勾玉(やさかにのまがたま)を作ったという神様で、神社の名前はそれに由来している。宝玉を作ったということで、神社は宝石屋さんや眼鏡屋さん、光学機器会社の崇敬が篤く、年に一度はそうした業者さんが集まって、こちらの神社に参拝するそうだ。その時はきっとにぎやかなことだろう。

 山口県の県庁所在地、山口市はやけに中途半端な位置にあった。
 県庁所在地の位置一つとっても、その県の歴史が垣間見える。山口県は瀬戸内海側の周防国と、日本海側の長門国(ながとこく)という旧国二つからできていて、県庁所在地山口市はちょうどその間に挟まれた場所にある。防府に萩、岩国に下関といった都市間で綱引きをした結果、現在地に決定しましたというかんじだ。人口は約14万人。全国の県庁所在地では一番少ないとか(注5)。
 県道21号線で市街地に入ると次第に個人商店が増え始め、それが中心部までだらだらと続いていた。地方都市の郊外ならどこにでもある大規模量販店の類が少ないせいか、ずいぶんこぢんまりした印象を受けた。
 山口県庁は、市内を横断する国道9号線沿いにある。宮城県庁によく似た新しい庁舎で、正門前には欅まで植わっている。昼までだいぶん時間があったので、雨宿りがてら、庁舎内の理容部で髪を切ってもらうことにした。そういや宮城県庁を訪れたのもこんな雨の日で、理容部で散髪してもらっていた。

山口県県庁
山口県県庁。もともと城があった場所に建っているそうな。

 さいわい空いていたので、すぐに髪を切ってもらえることになった。椅子に座ると理容師のおばちゃんに「こんなところに来るんだから、県庁巡りをしてるんですか?」と訊かれた。さすがザックに長靴といういでたちを見れば、旅人だとおおよその察しは付くだろうが、県庁巡りをしていることまで見破られたのには恐れ入った。そして「この県庁も、ホテル並みに設備が整ってるでしょう?」と胸を張っていた。
 そのとおり、山口県庁はかなり設備が整っていた。理容部はもちろん、歯医者さんまで入居している。売店は大きいし、食堂も三つある。そうした厚生設備がひとまとめになって、厚生棟という一つの建物を構成している。日本一小さな県庁所在地に建つ県庁は、日本でも有数の設備を誇っているのだ。

山口県庁食堂の日替わり定食
豚ロースカレー風味ソテー定食。この日の昼食。

 散髪が無事済んでおばちゃんに「気をつけてね!」と送り出され、待望の県庁食堂に向かった。食堂のひとつはカフェテリア式の大食堂だ。この日の日替わり定食、豚ロースのカレー風味ソテー定食が旨そうだったので、昼食はこれにした。
 山口県庁に食堂設備は三つある。ひとつは荒井が利用した大食堂、もう一つはスパゲティやサンドイッチが食べられる喫茶店、そしてもう一つが惣菜屋「食楽々(くらら)」だ。セルフ式の惣菜屋さんが厚生棟の中に入っていて、コロッケや唐揚げや煮物やらを量り売りしているのだ。
 全国の県庁食堂を見てきた荒井だが、こうした形の惣菜屋さんは山口県庁にしかない。「県庁に惣菜屋さんがあるとは珍しいですね!」と言うと、お店の方が「残業で夕食の買い出しにいらっしゃる職員さんも多いんですよ。」と教えてくれた。県庁の惣菜屋さんは好評なようだ。ここでカニクリームコロッケと鶏の唐揚げを買い食いして、山口県庁巡りのとどめとした。

 県庁を出てからも雨は降り続いた。防府市に戻り、西に向かってひた走る。雨降る中いくつもの川を越え、街を横切り、海を眺めて走った。そしてとうとう、海峡を隔てて、対岸に陸地が見えてきた。

 「関門海峡だ! あれが九州だ!」

 いつしか雨は上がり日が差し込んでいた。ついにこの目に九州を捉えた。頭でしか知らなかった九州の現物が、今目の前にあるのだ。声を出せば海峡を越えて届きそうなほど近く、工場の建物や煙突のひとつひとつがはっきりと確認できる。竜飛崎に大間崎、尻屋崎やとどヶ崎といったみちのくの最果ての地を踏んでから半年以上、今や反対側の本州の果て、下関に到着したのだ。

下関グリーンホテル
下関グリーンホテル。九州はもう目前。

 平家最期の地、壇ノ浦を回り込めば、市街地はもうすぐだ。駅前に近い「下関グリーンホテル」に飛び込みで転がり込むと、あたりを探索することにした。
 下関は港町だ。宿のすぐ近くの国際フェリーターミナルには、下関と韓国の釜山(プサン)を結ぶ大型フェリーが入港しているのが見える。駅ビルには封切りを目前に、下関を舞台にした映画「チルソクの夏」のポスターが貼られてあった。映画は日本の女子高生と韓国の高校生との恋を描いた下関ならではの物語らしい。「下関がらは釜山さも行げんなが。行ってみでぇなぁ。」と、いつか乗るかもしれないフェリーの方を仰ぎ見た。
 街角には名物の河豚料理屋もあるが、旬は冬なので梅雨入り前の今の時期はどこも大きな売り込みはしていない。他には飲み屋や水商売の店が目立ったが、閉まっている店も多く、どこか寂れていた。国際港湾都市下関も、昨今の地方都市の衰退とは無縁ではないらしい。
 夕食は街角で見つけた定食屋「一善」で食べた。トンカツ、じゃがいも煮、みそ汁、ご飯をお盆に取る。おかずは電子レンジで温めてもらうこともできる。客の入りは上々で、味もまずまず、おふくろの味が売りの店である。

 明日はついに関門海峡を渡り、九州上陸を果たすことになる。再び下関に戻ってくるのは、九州と沖縄を廻りおおせてからだ。それまで本州とはしばらくお別れである。


脚註

注1・「将棋の駒の天童」:山形県天童市は将棋の駒生産量日本一を誇る。藩政時代、武士の内職として将棋の駒作りが奨励されたことに端を発している。それにちなんでか、プロ棋士タイトル戦の一つは天童で開催されている。

注2・「大泉逸郎」:おおいずみいつろう。山形県河北町出身・在住の演歌歌手。代表曲は「孫」。

注3・「息子さん」:宮本常一氏の三男宮本光氏。賀曽利隆さんの親友で、賀曽利さんの著書にも、彼と一緒に焼き芋売りをした逸話が出てくる。

注4・「若本規夫」:わかもとのりお。声優。深みのあるオヤジ声で渋い役からユーモラスな役までこなす。代表作は「サザエさん」のアナゴ君、「カウボーイビバップ」のビシャス、「魁・クロマティ高校」のメカ沢新一などなど。

注5・「人口は約14万人」:当時。その後2005年10月の合併によって、一時的に最少の座を三重県津市に譲ったが、津市の合併により翌年再び最少の座に返り咲いた。2006年時点の山口市の人口は約19万人。


荒井の耳打ち

旅人の便利アイテム〜タープ

 シェルパ斉藤氏がその本でたびたび絶賛しているタープです。タープといっても、大がかりなポールが必要なオートキャンプ用のものではなく、木の枝に結びつければ屋根代わりになるような、防水性の幕のことです。撤収の手間を考えると、タープが一枚あるだけで雨の日の野宿も苦痛ではなくなります。暑い時はテントを張らず、タープだけを張ってその下で寝るという使い方もできます。荒井も欲しい装備の一つですが、設営できる場所が限られてくるのが難点です。

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