朝六時半に起きる。間もなく秋野さんも起き出してきた。朝食を食べつつ、無料のキャンプ場情報やおすすめの場所など、また旅情報を交換しあう。あれこれと話をしていたため出発したのは九時半だった。秋野さんに礼を述べ、単身南に向かった。
別府の温泉街は混んでいそうだったので、また素通りした。坊主、鉄輪(かんなわ)といった地獄巡りの入り口を脇目に、海に向かってひたすら坂を下った。今日も天気がよい。DJEBELも快調である。
大分市を離れる前に、もう一つの豊後国一の宮、西寒多神社(ささむたじんじゃ)に参拝した。
神社は山がちな住宅街の奥、小川のすぐそばにあった。小川では子供らが魚捕りをして遊んでいた。小川に架かる石橋「萬年橋」は、小さいながらも整った作りで、のどかな風景に趣を添えている。境内も同じく、よく整っていて清々しい。一角では神社の名物「御禊の藤」が棚いっぱいに大きな枝を広げている。社務所で人のよさそうな宮司さんとおばちゃん巫女さんから、由緒書を戴いて神社を後にした。
次に目指すのは佐賀関の関崎だ。岬までは思いのほか遠かった。立派な産業道路で工場地帯を抜けたかたと思うと、住宅街に突入し、気が付けば海沿いの道を走っていた。そして岬のあたりは細い山道になっていた。
DJEBELに乗ったまま、岬の灯台を探してみたがなかなか見つからない。歩いて探そうと駐車場にDJEBELを停めると、先客の二人の単車乗りに声をかけられた。一人はヤマハの大型車に乗っていて、立派なツナギで決めている。もう一人は彼の友達で、原付スクーターに乗っていた。彼らも灯台を探していたが「もうちょっと先を探してみます。」と、二人して出発していった。
駐車場の傍らには売店があって、中高年の一団がところてんを食べていた。店番のおばちゃんに灯台の場所を訊いてみると「そこの先だよ!」と、すぐそばの遊歩道の入り口を指してくれた。よく見ると、売店の窓の向こうに灯台がしっかりと見えている。おばちゃんのご厚意で荷物を売店に預かってもらう。さらに「これでのどを潤してから行ってらっしゃい。」と夏みかんまで戴いた。
無事灯台を見物し、売店に戻ってからところてんを食べた。さっきの中高年の一団が「こんな旨いところてんは初めて食べましたよ!」と、大絶賛していたのが気になったのだ。
「このところてんは、そこの浜で採れたテングサを煮て作ったのよ。遠いところから来てくれたから大盛りサービス。」とおばちゃんが運んできたところてんは、それは立派なものだった。太くて角が立っている。しかもてんこもり。味付けは簡単にポン酢醤油、薬味は刻んだしその葉だ。
驚いた。雑味がない。歯ごたえがまるで違う。これまで食べていた、スーパーで売っているあれは何だったんだとさえ思った。こんなものすごいところてんがあったとは。
佐賀関で獲れる鯖や鯵は「関サバ」「関アジ」として珍重されている。しかし、佐賀関名物はそれだけではなかった。関ところてん。佐賀関はところてんも絶品だ。おばちゃん、どうもごちそうさまでした。
ところてんをすすっていると、さっきの二人連れがやってきた。灯台の場所が分かったのかと思ったが、表情が浮かない。何事かと話を訊いてみた。
「そこのカーブを曲がろうとしたらいきなりバキュームカーが現れて、おかげで転倒したんですよ〜。」
目の前に現れたバキュームカーを急に避けようとしたら、バランスを崩して転んでしまったらしい。さいわいツナギを着ていたため大怪我は負っていなかったが、彼のバイクは、カウル(注1)がへこんでいるのはもちろん、左側のステップ(注2)が根本から折れ、速度計は風防が外れ、見るも無惨な有様だった。荒井が「灯台はそこにありましたよ。」と、さっき行ってきた方角を指さすと「え、あそこだったんですか!? だったら何のため転んだんだろう。」と苦笑していた。
ちなみにツナギの彼は沖縄出身だった。荒井が沖縄を目指していることを話すと「これからの時期の沖縄は、不意に大雨が降ったりするから、合羽は用意しておいた方がいいですよ。」と助言してくれた。
彼らと別れ、佐賀関を後にした。国道217号線を南に走る。臼杵市(うすきし)を通過し、四浦半島(ようらはんとう)を回り込むうちに日が傾いてきた。
そろそろ寝る場所の心配をしたいが、これはという野宿場所が見つからない。結局佐伯市で駅前のビジネスホテル「出雲屋」に飛び込みで転がり込んだ。
「出雲屋」はなかなか変わったところだった。一階は和菓子屋さんになっていて、その上が客室だ。経営者が同じなのか、宿泊者には和菓子屋さんで作っている銘菓挽茶饅頭を一個振る舞っている。
この日はおかみさんのご厚意で、DJEBELを玄関に置いてもらえることになった。単車旅人にとって、夜の間、安全な場所に単車を置けるというのは何よりもありがたい。お礼が遅れましたがありがとうございました!
夕食は向かいの食堂「大和屋」でチャンポンを食べた。駅前の立地でしかも週末の夜だというのに、中にはほとんど客がいなかった。片隅では旦那の幼い息子さんが客席に座って、店内のテレビを見ていたりする。店を出て通りを少し歩いてみたが、人の姿はあまりない。ここ佐伯市も、他の地方都市同様、寂れているのだろうか。
駅前のコンビニ「RIC」で、翌日の朝食用にアップルパイとメロンパン、晩酌用のモスコミュールを買い込んでから宿に戻った。一杯やったら眠くなり、そのまま寝てしまった。
宿を出発する。天気はまずまず。ほっとしながら鶴御半島(つるみはんとう)に向かった。
鶴御半島は佐伯市の東に延びる半島で、その先端、鶴御崎は旅人には九州最東端の地として知られている。
旅人は端っこや極点が好きである。「最北端」「最南端」は言うに及ばず、「真ん中」「水準点」「日本一高い」「境界線」などなど、地図でこういう物を見てしまったが最後、そこに行きたくて仕方がなくなる。一つ行けば「他はどうなんだ!?」とさらに好奇心をあおられて、他にも行きたくなってしまう。
旅の鉄人賀曽利隆さんは「端っこを極めることはその土地の広さを知ることだ。」と仰った。それもさることながら、旅人が端っこを好むのは、あとで地図など広げながら「俺はこんな遠くまで行ってきたんだぜ!」と、一人悦に入るためというのが大きい。どれだけ遠くに行ったか、どれだけの人に会ったかというのは、旅人にとって勲章みたいなものなのだ。
道は規則正しくうねりつつ、小さな岬と入り江の漁村という光景を何度も繰り返すうち、ようやく目指す鶴御崎に到着した。岬周辺の園地は自然保護区ということで、300円ほどの入場料が必要となる。
駐車場から最東端の地までは、さらに一歩きしなければならない。駐車場から10分ほど歩くと、目指す九州最東端の岬が見えてきた。
あたりは木立に囲まれていたが、合間からは海が見えた。九州最東端を示す標柱には「北緯32度55分 東経132度5分」と書かれてある。西を見れば半島が並んでいる。東の海は豊後水道だ。天気がよければ四国が見えるそうだが、この日はもやがかかっていて見えなかった。沖からは操業中の漁船のエンジン音がする。瀬戸内海の入り口である鶴御崎沖は格好の漁場で、鳥羽一郎の演歌「男の港」にも唄われている。
鶴御崎から少し西に行ったところ、丹賀浦には戦時中の砲台基地跡が残っている。基地跡は小山の上にあって、入り口からは階段で急な斜坑を登らなければいけない。斜坑にはリフトも設けられている。うまいことリフトの出発に間に合い、基地跡にはらくらくとたどり着けた。
リフトの終点は、コンクリート造りの立派な穴ぐらだった。いくつもの部屋に仕切られており、それぞれ解説が付いている。その先にある高さ5メートルほどの吹き抜け、巨大な円形の部屋が、砲台が置かれてあった場所である。吹き抜けの大きさを見れば、その巨大さがうかがえる。吹き抜けには、巡洋艦から取り外した主砲が据え付けられ、さっきの穴ぐらには、砲台の弾薬や、動かすためのポンプなどが置かれていたのだ。
瀬戸内海の入り口にある鶴御崎は、国防上の要地でもあった。瀬戸内海の奥には鎮守府呉が控えている。鶴御崎は本土の最終防衛線として要地とされ、それゆえにこんな仰々しい砲台基地が作られたのだそうな。
軍事施設ならではの悲劇もある。ある時の演習中、砲台の暴発事故が起き、多くの兵士が亡くなっている。人の血を吸ったこの基地も、今では鶴御半島の観光名所となった。砲台基地であるよりも、この方がずっといいに決まっている。
入り口に戻ると、地元のおばちゃん達が模擬店を出していた。この日は年に一度の「つるみ半島祭り」で、鶴御半島が属する鶴見町(現佐伯市)随所で催し物が開かれていたのだ。祭りは半島開きとも言える催しで、観光シーズン到来を告げる行事となっている。
模擬店では「亀の手」を売っていた。亀の手とは、磯の岩場にびっしりとくっついている、フジツボのような生物だ。試食してみると、見た目のグロテスクさと違って、アサリかシジミのような貝の味がしてなかなか旨い。酒の肴やみそ汁の具によさそうだ。「おひとついかがですか?」と、おばちゃんに亀の手を勧められたが、量が多くてもてあましてしまいそうだったので、買うのは諦めた。おばちゃん、今度来た時買いますので。
昼食は半島の付け根にある「マリンパーク有明」で、郷土料理のりゅうきゅう丼を食べた。醤油だれにつけた刺身を載せた丼で、その昔、琉球地方からやってきた漁師が豊後の人々に作り方を教えたからこの名があると言われている。大分ではよく食べられている料理で、店のおねえさんは「自分の家でも、日にちが経った刺身なんかでよく作るんですよ。」と言っていた。
町役場となりの広場にも、特設ステージや模擬店が設けられ、多くの町民や観光客が繰り出していた。ここでも名物のすり身揚げを買い食いした。魚のすり身を油で揚げたもので、瀬戸内海西側ではよく見かける。
広場近くの町民センターには漫画家富永一朗先生の記念館があって、原画が展示されてある。
富永先生は、お隣佐伯市の出身(注3)で、漫画家になる前は佐伯市で教師をやっていた。その縁で町にこうした施設が作られた。町では富永先生の名を冠する漫画大会も開かれている。
富永先生といえば、テレビ番組「お笑いマンガ道場(注4)」で、鈴木義司先生(注5)と漫画でやりあっていた人という印象が強い。「マンガ道場」ファンだった荒井、土管に寝泊まりする鈴木先生やボインを振り回す女を描いた富永先生の漫画は、いまだ強烈に印象に残っている。荒井にとってイチローと言えば、鈴木一郎外野手と並んで思い出すのが富永一朗先生なのだ。
そうした印象が強いせいか、てっきり土管やボインの絵が展示されているのかと思いきや、そうではなかった。まず、どれも半端でなく巧い。彩色の細やかさ、背景の色遣い、生き生きと描かれた人物にしゃれっ気のあるモチーフ。作品は海を主題にした一コマ漫画が30点ほど。人魚や魚、人間が入り交じり、楽しげに海で遊んでいる様を描いたものが多かった。「なるほど、オオサンショウウオとは侮れないな。」と目を見張った。
鶴見でのんびりしすぎたせいか、時間が差し迫ってきた。おまけに空模様も気まぐれで、晴れだったのが、いつの間にやらぽつぽつと雨が降り出している。明日には宮崎県の県庁所在地、宮崎市に行きたかったので、後はまじめにDJEBELを走らせた。
静かな入り江、岬の曲がりくねった坂をゆるゆると走る。海の幸が売りの民宿、小さな漁港、潮干狩りを楽しむ人たち。いわゆるリゾート地もよいが、日本にはこういういい場所が随所にたくさんあるということが、海沿いを走っているとよくわかる。
県境を越え、宮崎県入りを果たし、延岡市と日向市を抜け都農町(つのちょう)に着くと、空は薄暗くなり始めていた。
都農町には日向国一の宮、都農神社(つのじんじゃ)がある。駐車場は大型バスが何台も停まれる立派なものだったが、境内や社殿は意外に小さい。一の宮にふさわしい社殿を、とは神社も思っているらしく、境内には協賛金を募る看板が張り出されてあった。
テントを張るまでにはまだ少し時間がある。近場の「神武天皇東征出発の地」を見学した。
日向市の美々津(みみつ)は、神武天皇東征出発の地とされている。「古事記」によれば、高天原(たかまがはら)に坐す天照大神の子孫、神日本磐余彦尊(かむやまといわれびこのみこと)は、日本の国を治めるべく、美々津の浜から東に向かって出発した。そして7年に渡る戦いと大移動の末、大和の橿原の地にたどり着き、初代天皇として大和朝廷を開いたという。神日本磐余彦尊とは神武天皇で、これが世に言う神武東征伝説のあらましだ。
その神武天皇が東征に出発した美々津の浦は、小雨でやけに陰鬱だった。ここはもう瀬戸内海ではない。太平洋に面しているので波も高い。テトラポットの消波堤と護岸の先には小島が一つ見えるだけ。現在とはもちろん趣は違うだろうが、神日本磐余彦尊はこの沖に何を見ていたのだろう。
その近くには「日本海軍発祥の地」記念碑がある。神武天皇はその軍団とともにここからに船出していったのだが、それは天皇が率いた初の水軍だということで、日本帝国海軍のはじまりだろうと、こんな記念碑があるわけである。記念碑が建てられたのは戦時中、皇紀2600年(昭和15年・西暦1940年)。当時らしい発想だ。
この日テントを張ったのは、美々津のすぐ近く、石並川のキャンプ場だ。雨がしのげる場所にテントを張ると、トマト煮とアサリクリームスパゲティを作って夕食にした。このとき間違って、一瓶近く残っていたなめ茸をごっそりスパゲティに入れてしまい、そのまま食べる羽目になってしまった。
注1・「カウル」:車体前面に付いている風防のこと。形状によってフルカウル、ハーフカウル、ビキニカウルなどの種類がある。ネイキッドとはカウルが付いていない単車のこと。
注2・「ステップ」:単車に乗る時に足を置く場所。ただの足場だが、ペダル操作の足がかりとなる重要な部品。
注3・「お隣佐伯市の出身」:厳密には京都市生まれ。少年時代を送ったのが佐伯市。ちなみに鶴見町は2005年3月、合併によって佐伯市になっている。
注4・「お笑いマンガ道場」:中京テレビ制作のバラエティ番組。司会柏村武昭。出演者エバ、川島なお美、車だん吉、鈴木義司、富永一朗他。司会者が出すお題に対し、出演者が一コマ漫画でネタを描いて応えるという内容。1977年から1994年まで、15年以上続いた長寿番組となった。
注5・「鈴木義司先生」:すずきよしじ(1928〜2004)。漫画家。代表作「サンワリ君」「今週の義司」。4コマ漫画や一コマ漫画を得意とした。「お笑いマンガ道場」では、「鈴木御殿」や「オオサンショウウオ」ネタで、富永先生と丁々発止のネタバトルを繰り広げた。実際富永先生とは仲が良く、鈴木先生が富永先生を「お笑いマンガ道場」に誘ったそうな。