あこがれの沖縄航路

神話の海岸を往く

鹿児島市の国道58号線標識
日本有数の「海上国道」58号線。沖縄航路は58号線の海上区間となっている。

 朝起きると、空はまだくもっていた。これから回復に向かうと天気予報で言っているのが慰みだ。近場の「セブンイレブン」でミックスサンドとオレンジジュースの朝食を済まし、本格的に走り出した。

 都農町に至る道筋で「征矢原(そやばる)」という勇ましい地名を見つけた。少し内陸に行ったところには「矢研の滝(やとぎのたき)」という、これまた勇ましい名前の滝があるというので、寄り道していった。
 矢研の滝は、都農町を流れる名貫川の上流、尾鈴山の懐にある。入り口にはキャンプ場があって、そこから遊歩道を2、30分ほど歩いていかなければ拝めない。その遊歩道が九州自然歩道にも指定されている山道で、ところどころ大きな岩も覗いていた。
 豪快な渓流や巖(いわお)をいくつも見ながら歩いていると、目の前に小さな滝が現れた。「これが矢研の滝が? 歩った割にずいぶんちゃっこいんだな(注1)。」と思っていると、滝壺を横切る道がある。そこを渡ってさらに進むと、今度は壮麗な滝が現れた。

矢研の滝
矢研の滝。上流にある巨岩天の磐船など、神話ゆかりの滝。

 真打ち登場、これが矢研の滝だった。落差は2〜30メートルはある。そこらにある大岩は、この滝が運んできたものに違いない。雨に濡れた緑の渓谷に燦然とたたずむ大瀧は、ただただ見とれるのみだった。
 勇ましい地名は、神武東征に由来しているらしい。神日本磐余彦尊の軍勢は、これからの長い戦いに向けて、このあたりでせっせと鏃(やじり)でも磨いたのだろうか。

 宮崎市に向かう頃には、天気もよくなってきた。左手に海を眺めつつ走る。やがてかの新名所「シーガイア」が見えてきた。「シーガイア」はプールや高級ホテルが一体となった保養施設だが、近年破綻していた。その知らせは遠く山形に住んでいた荒井にも届いている。目の前にはこんな素晴らしい海が広がっているのだ。改めてプールを作ったところで、詮無いことだったのかもしれない。

宮崎県庁
宮崎県庁。古い洋風建築に熱帯植物庭園。

 宮崎県庁は古い建築をそのまま使っている。正門をくぐってすぐの庭園がすごい。椰子、枇榔(びろう)、蘇鉄、竜舌蘭、浜木綿(はまゆう)といった植物が植わっており、熱帯植物園さながらだ。これまで鳴子の温室(注2)でしか見たことがなかったような植物が、ここでは当たり前に生えているのだ。
 県庁食堂では昼の混雑をひかえて、厨房のおばちゃんたちが客席に陣取って一休みしていた。献立を見ると定食の品揃えがやたらよい。ざっと15種類はある、全国の県庁でも破格の数だ。その数ある定食類を物色していると、チキン南蛮定食があった。チキン南蛮とは、唐揚げ風の衣を付けて揚げた鶏の胸肉に、甘酢たれを絡めた料理だ。好みでマヨネーズやタルタルソースをかけてもいい。九州は宮崎の名物だということは、とり天同様、前職の関係で知っている。

県庁食堂のチキン南蛮定食
県庁食堂のチキン南蛮定食。前職の因縁か、チキン南蛮には思うところが多い。

 前職スーパーの惣菜担当になって間もないある日。会社に講師の先生がやってきて「九州で人気の一品です。新商品にいかがですか?」とチキン南蛮の作り方を伝授してくれた。以来、店では手作りのチキン南蛮を品揃えすることになった。
 しかしチキン南蛮は手間がかかる。まずは下ごしらえで、柔らかくするため胸肉の筋を切り、砂糖少量をもみこんでやらなければならない。揚げる時も、見た目と食感をよくするため、余分な衣を落としてから油に突っ込む。中まで火を通すため、時計を見ながら二度揚げする必要もある。これだけでは終わらない。食べやすくするため一口大に切り、トレイに盛りつけ、たれをかけ、あしらいに小ネギなど載せてようやくできあがりだ。
 こんな具合に手間暇かかるので、不真面目社員だった荒井、チキン南蛮はできれば敬遠したい惣菜だった。しかしチキン南蛮は好評を博し、毎日ひいこら言いながら作ることになった。「本当に九州さあるんだべが?」 チキン南蛮と聞くと、今でもひいこら言っていた当時のことを思い出す。

 食券を買うと、さっきのおばちゃんの一人がチキン南蛮定食を持ってきてくれた。切り干し大根の煮付け、そうめん入のみそ汁、そしてタルタルソースのかかったチキン南蛮。チキン南蛮に追われた日々も今は昔、今度は自分がチキン南蛮を追って宮崎にやってきて、本場の味を堪能することになった。先生の言葉は本当だった。

青島の鬼の洗濯板
日南海岸独特の地形、鬼の洗濯岩。海水による浸食でつくられた。

 日南海岸を南に走る。海を望む明るい道路は、思い描いていた南国そのものだ。道端にはフェニックスの木が並んでいる。フェニックスは宮崎県の県樹で、日南海岸はもちろん、さっきの県庁など、県内至る所に植えられてある。「フェニックス・ハネムーン」なんて言葉もあって、かつて宮崎は新婚旅行の行き先としてその名を馳せていた。本州ではなかなか見かけないフェニックスは、そんな南国宮崎の象徴として、憧れをかきたてるものだったのだろう。
 途中、二つばかり神社に寄った。青島神社と鵜戸神宮(うどじんぐう)だ。

 青島神社は宮崎市南の郊外、沖の小島にある。島と本土は長さ200メートルほどの「弥生橋」で結ばれている。橋のたもとは観光街で、みやげ屋や旅館はもちろん、遊園地もあったりする。鉄道の駅もあって、交通の便は抜群だ。
 中には「巨人軍を応援します!」なんて横断幕を張った旅館もある。プロ野球の読売巨人軍は毎年ここ青島でキャンプを開いており、その縁で巨人軍を応援しているのだ。その際選手達は青島神社に参拝して、優勝を祈願するのが恒例となっている。駅前にDJEBELを停めると、選手同様弥生橋を渡って参拝に行った。
 橋の両脇には日南海岸特有の地形「鬼の洗濯岩」が広がっている。目指す先には背の高い椰子や枇榔が鬱蒼として、社殿は全く見えない。ちなみに島は外周約1.5キロほどで、20分もあれば一周可能である。

青島神社
青島神社。椰子の林を割って建つ。

 宮崎県は日本の神話とゆかりが深い。そしてそれは青島神社も例外ではない。
 高天原に坐ます天つ神(あまつかみ)一族は出雲に住む国つ神(くにつかみ)一族を服従させ、葦原の中津国(注3)を譲り受けた。そしてこれを治めるべく、天照大神の子孫、瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)が高千穂の峰から地上に降り立った。これを「天孫降臨」と呼んでいる。
 瓊瓊杵尊は大山積大神の娘、木花開耶姫命(このはなさくやひめのみこと)をめとると、間もなく子供を設けた。火闌降命(ほのすそりのみこと)と彦火火出見命(ひこほほでのみこと)、通称海幸彦と山幸彦だ。
 兄の海幸彦は海で釣りをして、弟の山幸彦は山で狩りをして暮らしていたが、ある日山幸彦が「たまには交代しませんか? 私が釣りをしますから、兄さんは狩りをしてみましょうよ」と言い出した。
 渋る兄を説き伏せ、なんとか釣り針を借りた山幸彦だったが、案の定というか、なくしてしまった。いくら謝っても兄の憤慨は収まらない。「俺の釣り針捜してこ〜い!」と言われるがまま、山幸彦は釣り針を探しに行くことになった。その末に海の向こうにある綿津見神(わだつみ)の宮にたどりつき、なくした釣り針と潮の満ち引きを操る宝珠「潮満珠・潮干珠(しおみつたま・しおひるたま)」を手に入れた。そして宝珠の力で意固地な兄貴を懲らしめたそうな。

 海幸山幸の話は絵本にもなっているからご存じの方も多いだろう。この青島神社に祀られているのが他でもない、山幸彦なのである。神社は山幸彦が綿津見神の宮から戻ってきた場所だとされている。神社は島の真ん中、椰子の林を伐り拓くようにして建っている。海と縁の深い神社らしく、拝殿には波をかたどった飾りが付いていた。巨人軍の選手が奉納した絵馬もある。巨人軍は毎年その優勝を、山幸彦に祈願していたわけだ。
 となりには立派な蝋人形館があって、海幸山幸の話はもちろん、天孫降臨から神武東征まで、神話の名場面が見られるようになっている。日本唯一の神話蝋人形館を謳っているが、確かに他にはなさそうだ。入場料は600円。東京タワーの蝋人形館に比べたら格段に安いが、神社併設の資料館としては高めである。アンケートをとっていたので「500円だったら気軽に見られるのに」と書いてやった。貧乏旅人荒井、守銭奴っぷりを発揮である。

 鵜戸神宮は青島神社から日南海岸を南に30キロほど行った場所、海沿いの断崖にへばりつくようにして建っている。神宮だけあって境内は広く、駐車場から本殿まで10分ばかり歩くことになった。参道にはみやげ屋が軒を連ね、さつまいもキャラメルやボンタンアメなど売っていた。

 神宮の縁起は、海山兄弟の話の続きである。
 兄の釣り針を求めて綿津見神の宮を訪れた山幸彦は、そこで綿津見神の娘、豊玉姫(とよたまびめ)と出会い、契りを結ぶことになった。その後地上に戻った山幸彦の前に、身ごもった豊玉姫が現れた。そこで山幸彦は大あわてで産屋(注4)を作りだした。そりゃそうだ。目の前に突然彼女がやってきて、お腹をさすりつつ「あなたの子なの。」なんて言い出したら。
 山幸彦は鵜の羽根を萱代わりに、急いで産屋を作ったが、完成を待ちきれず、とうとうお産が始まった。豊玉姫は「産屋の中を覗かないでくださいまし。」と言いつつ、できていない産屋の中に入っていった。
 しかし覗くなと言われたら覗きたくなるのが人情だ。山幸彦が中を覗くと、そこでは大きなサメがのたうちまわっていた。豊玉姫の正体はサメだった。本当の姿を見られた豊玉姫は「もうここにはいられません。さようなら。」と、産んだ子を残して綿津見神の宮に帰っていった。
 その生まれた子供は、まだできていない産屋で生まれた子という意味で、鵜葺草葺不合命(うがやふきあえずのみこと)と名付けられた。長じて鵜葺草葺不合命は妻との間に、神日本磐余彦尊を設けることになる。そしてそれが神武東征へとつながっていくのだ。

鵜戸神宮亀岩の運試し
大人気、鵜戸神宮亀岩の運試し。人の姿が絶えない。

 鵜戸神宮は、その産屋があったという場所で、鵜葺草葺不合命を祭神として祀っている。本殿は断崖にぽっかり口を開けた岩屋の中で、縁起を知らなければ、なんでこんな場所にと思うようなところにある。
 本殿の裏には、豊玉姫が我が子のために残していった乳房だと伝えられる「おちち岩」という岩があって、絶えず水がしたたり落ちている。この水を使った飴「おちち飴」は神宮の名物だ。水は参拝者が自由に飲めるようになっていて、母乳の出がよくなるとか、子宝に恵まれるといった霊験があるそうな。なるほど、フェニックス・ハネムーンの行き先としてもうってつけなわけである。荒井も飲んでよかったのだが、思うところあって遠慮しておいた。そのわけはまた後で。

 神宮もう一つの名物は亀岩の運試しだ。本殿前の断崖の下に、亀の甲羅のような形をした岩「亀岩」がある。その背中に小さな水たまりがあって、そこに願い事をしながら素焼きの玉「運玉」を投げこむと、その願いが叶うと言われている。運玉はとなりの授与所で5個100円で売っている。亀岩に臨む断崖には、本殿よりも多くの人がたかっていた。
 入れるのは難しいらしい。亀岩の周りは、哀れ敗れ去った運玉がゴロゴロ転がって赤茶けている。一方水たまりに入った運玉は縁起物として、授与所で1個300円で売られることになる。ここでも荒井、守銭奴っぷりを発揮して、運試しはしなかった。

 神社にたかっているのは人だけではなかった。足下で何か小さなものがもぞもぞ動いているなと思い、視線を落とすと血の気が失せた。

 フナムシごっちゃり。あぁ豊玉姫、荒井も見てしまいました。

 神社は海沿いの断崖にあるため、本殿周辺はフナムシの巣窟となっていた。目をこらせば防護柵にウジャウジャ、亀岩のあたりにもウジャウジャ、ベンチの下にもウジャウジャ。五、六匹単位の固まりが、あちらこちらにウジャウジャしている。佐渡島の姫崎で荒井を脅かしたのとは比べものにならない数が生息している模様である。
 この様子じゃ、本殿や授与所にもお邪魔してそうだ。ということは、おちち水にも二、三匹くらい入っているかもしれない。「...滋養の秘密と隠し味が?(嘘)」。かくして荒井は鵜戸神宮から退散したのだった。

 ところで、社格といい祭神といい、天つ神の子孫を祀る鵜戸神宮が日向国一の宮であっても悪くなさそうなものなのだが、実際の一の宮は、天つ神に服従した大己貴命(おおなんじのみこと)を祀る都農神社である。神社巡りをしていると、その土地がたどってきた歴史を垣間見ることができる。特に宮崎県は天孫降臨の舞台となっただけに、各地にゆかりの地や神社が点在している。

 日もだいぶん傾いている。それからは海沿いにひた走った。日南の名所、都井岬(といみさき)は素通りした。串間市の二輪車屋さんでオイル交換をしてもらい、志布志湾(しぶしわん)に沿ってまた走り出す。
 市街地を出て間もなく「鹿児島県」の標識が現れた。いくつもの県境を越えてきたものの、やはり県境を越える時はいつもわくわくする。しかも今度は本土最南端の鹿児島県なのだ。
 大崎町で「あすぱる大崎」の立ち寄り湯に入った。脱衣所ではおっちゃん達がなにやら話に花を咲かせていたが、何を言っているのかさっぱり判らなかった。
 青森の人間と鹿児島の人間が方言で話し合うと、お互い何を言っているか判らず会話にならないという話は聞いたことがある。おっちゃん達がしゃべっていたのは、その鹿児島弁だった。同じ日本国内なのに言葉が判らない! それまでは笑い話だと思っていたが、あながち冗談ではない。

ふれあいの森キャンプ場
ふれあいの森キャンプ場。実はすごい場所にある。

 この日はお隣り東串良町(ひがしくしらちょう)の「ふれあいの森キャンプ場」にテントを張った。松林にある無料キャンプ場だ。「あすぱる」近くにも立派なキャンプ場があるのだが、利用料が1000円と割高だったので、こちらに逃げてきたというわけだ。
 松林のキャンプ場で、一人東北から鹿児島までやってきたことをかみしめた。もうすぐ沖縄も指呼の間だ。


脚註

注1・「ちゃっこいんだな」:東北方言。「小さいんだな」。ちなみにこの時見た小さな滝には「若葉の滝」という名前がある。

注2・「鳴子の温室」:鳴子熱帯植物園のこと。「トーキョーズ・ア・ロンリータウン」脚註参照。

注3・「葦原の中津国」:「日本道路最高所」脚註参照。

注4・「産屋」:出産に使う小屋。出産で産屋に籠もることは、かつて全国的に見られた風習だった模様。

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