鹿児島に来たらぜひ食べたいものがあった。「白くま」だ。白くまとは鹿児島名物のかき氷、果物やあんこをどっさり載せた氷ミルクだ。旅に出る前、調べごとをしていたら、偶然白くまについて知る機会があり、以来「旨そうだな。」と気になっていたのだ。
最近はコンビニでも売っていて、現に山形でも買えたのだが、「いや、どうせなら本場鹿児島さ行ってがら食うべ。その方が旨ぇべし。」と、日本一周のお楽しみにとっておくことにしたのだ。
そして今、自分は南国の白くま生息地、鹿児島にいる。
朝から天気は快晴だ。地場のコンビニ「エブリワン」でいつもどおり、ツナタマサンドとオレンジジュースの朝食にする。出発して間もなく「神武天皇東征御発航の地」という標識を見つけた。神武東征出発の地は宮崎の美々津とされているが、諸説あるようで、ここ東串良から出航したという言い伝えもあるのだろう。DJEBELを降り、案内に従って見に行くと、なんと昨日のキャンプ場に出た。荒井は東征出発の地を枕に寝ていたわけだ。
昼前に九州最南端、佐多町(現南大隅町)の佐多岬(さたみさき)に着くつもりで、大隅半島に入っていった。東串良町を出ると、民家も商店も急に数が減り、あたりは鄙びてきた。緑の多い山中や、海沿いの断崖路をひた走る。
内之浦町(現肝付町)の街角で、ロケットの形をした街灯を見つけた。内之浦町は日本初の人工衛星「おおすみ」が打ち上げられた場所で、以来、宇宙の町としてその名を売り込んでいる。町内にはロケット基地跡や宇宙研究所もある。それにちなんで町では「ロケット朝市」「ロケット祭り」といった催し物も開かれているが、別にロケット形の神輿が出てくるとかそういうものではないらしい。
国道448号線から、佐多町に向かう県道74号線に入ると、全くの山道になった。狭く曲がっている上に、すれ違う車はほとんどない。海に近いはずなのだが、木が茂っているせいか、水平線もほとんど見えない。なんでもこのあたりは日本有数の照葉樹林(注1)だという。なるほど、それほど山奥なわけである。
ようやく山道を抜け整備された道に出ると、佐多町の中心部まではすぐだった。町役場で一休みして、また走り出す。
佐多岬は島嶼部を廻らない場合、実質的に本土最南端となる。日本一周や日本縦断では外せない要所なのだが、その割に旅人の間での評判はよろしくない。それというのも、あれこれやかましい規制があるからなのである。
佐多岬に向かう道は「佐多岬ロードパークウェイ」一本しかない。そのため、岬に向かう旅人は、必ずここを通ることになる。しかし道路は県内の観光会社が管理しており、通る際は通行料を支払わなければならない。
それだけならまだよい。旅人にとってありがたくないのはこれからだ。道路には入場時間制限があり、少しでも遅れたら翌日の開門時刻を待たなければならない。そして何より、自動車専用道路であるため、自転車や徒歩では通れない。だから日本縦断を企む旅人は、佐多岬を日本縦断の終点にしてしまうと、最後の最後で足止めを喰らってしまうのだ(注2)。
これに業を煮やしたシェルパ斉藤さんは「もう自分で作る!」と、ロードパークウェイとは別に、最南端行きの自然歩道を作ってしまった。それほど佐多岬は旅人の間で評判がよろしくない。
こうした方針がたたってか、ロードパークウェイは荒井が訪れるちょっと前に破綻していた。閉鎖という最悪の事態こそ避けられているが、有料・門限付き・徒歩自転車不可というのは変わっておらず、多くの旅人を嘆かせている(注3)。単車乗りの荒井ではあるが、同じ旅人としてどうにかならないものかと思う。
破綻のせいか、有料道路には寂れた雰囲気が漂っていた。最南端に向かう格好の観光道路で天気もすこぶるよいというのに、自分以外に走っている人を見かけない。道路の終点は駐車場になっていて、そこから岬へ向かうためにはさらに入場料が必要となる。ここさえ客の姿はまばらだった。
岬へつながるトンネルを抜け、遊歩道を歩いていると、廃墟と化したレストハウスがあった。主を失って久しいのか、壁は所々色が剥げ、窓ガラスは砂埃で汚れている。展望台こそ開いていたが縮小営業中で、中の売店はほとんど店じまいしていた。
展望台から岬の灯台を眺めた。雰囲気は申し分ないが、あまり最果てという気はしなかった。目指す沖縄や八重山諸島はさらにこのはるか南にある。荒井にとって佐多岬は飽くまで通過点に過ぎない。そして何より、嘆くことが多すぎて、最果てであることを実感できなかったのだ。
佐多岬は地理的な理由で寂れているのではない。人の手によって廃れたのだ。名所を生かすも殺すも、結局はそこに携わる人次第だとつくづく思う。
町の中心部に戻り、役場隣の立ち寄り湯「さたでい」併設の食堂で昼食にした。佐多町(さたちょう)にあるから「さたでい」。そのままである。店のおじちゃんは「日替わり定食ぐらいしかないけど...」と恐縮していたが、その日替わりがなかなかだった。この日は天ぷら定食で、エビ天、オクラ天、なす天、しいたけ天の他、鶏とごぼうのそぼろ煮、アサリのみそ汁、おしんこ、それにそばまで付いてきた。これでなんと500円。大満足の昼食だった。
大隅半島の西側を走る。今日はえらく天気がよい。青い空と海という風景を見ながら走るのは気分がよかった。走っていると、車に乗った地元のおっちゃんが、速度をゆるめて荒井に近づいてきて「どこ行くの? 気をつけてね〜。」と話しかけてくれた。
休憩がてら根占町(現南大隅町)の道の駅に寄った。ここでついに念願の白くまを口にした。本当は佐多岬あたりで食べようかと思っていたのだが、破綻のせいか売っていなかった。それで初の白くま狩りは、根占町まで持ち越されたというわけである。
本来は喫茶店で出しているものなのだが、カップアイスにもなっていて、鹿児島では当たり前のように売られている。荒井が食べたのはこのカップアイスだ。一見ただの氷ミルクだが、中にパイナップルや蜜柑、桃やさくらんぼ、小豆などが入っているところが違っている。果物の酸味と歯応えが、氷ミルクに変化を添えて実に旨い。食べようと思えば山形でもすぐに食べられた白くまだが、現地鹿児島まで来て食べる白くまだけに、その味わいは最高だった。
こんな具合に、旅に出る前に思い描いていた楽しみをひとつひとつ実現していくと、自分はまさに旅をしているなと思う。それは自分の夢が現実となる瞬間である。とどのつまり日本一周とは、こうした小さなことの積み重ねだ。
桜島に着いたのは三時をだいぶまわった頃だった。
鹿児島の目印にもなっている桜島は、もとは本当に島だった。それが大正時代の大噴火で大量の溶岩が海に流れ出し、大隅半島と陸続きになったので、今では陸路で渡れるようになっている。道路は溶岩流の上に作られているのだが、そこから見る溶岩流の海岸は一様な錆色をしていた。道端には巨岩がゴロゴロしている。さすが日本有数の活火山、こんなのが山から降ってきたのだ。桜島が激しく噴火すればこの道路は閉鎖されるし、沿線の至る所には、鉄やコンクリート製の頑丈な待避壕もある。桜島が生きている証である。
特産品の直売所も多く見かけた。今は枇杷が盛りで、淡い橙色の果実が山盛りになって売られていた。春先に旅に出てから、気が付けばもう枇杷が出回る頃になっていたのだ。
港の近くにある「さくらじま荘」に飛び込みで宿を取る。活火山の島だけあって、至る所に温泉が湧いており宿も多い。「さくらじま荘」もそんな宿の一つだ。部屋に荷物を置き温泉に入ってから、夕食の買い出しに行った。
港の対岸は鹿児島市街地だ。往復フェリーが就航しており、15分ほどで島と市街地を結んでいる。鹿児島からのフェリーが到着するたびに、多くの車や人が吐き出されてくる。島で一番栄えているのもこのあたりで、スーパーやコンビニもあり、素泊まりでも食べるものには困らない。
弁当と鹿児島名物「兵六餅」を仕入れて夕食にした。「兵六餅」とは、ボンタンアメで有名なセイカ食品の製品で、一言で言えばヨモギで作ったボンタンアメだ。弁当は「ローソン」の九州味ごのみ弁当というもので、チキン南蛮や明太子、焼きラーメン、がめ煮といった九州名物を詰め合わせたものだった。さすがに白くまは戻る途中で溶けそうだったのでやめといた。
今日はついに鹿児島市入りである。本土最南端の県庁所在地、そして沖縄へのフェリーが出入りする街である。
昨日弁当を買った「ローソン」でたまごサンドとオレンジジュースの朝食を済まし、島の北岸に沿って走り出す。北側は鄙びた風景が続いた。集落や漁港がちらほらと現れる程度で、観光地として賑わう南側とは大きく趣が異なっていた。
島を出る前に、名所埋没鳥居を見ていった。埋没鳥居のことは本で知っていた。噴火で笠木(かさぎ・注4)を残して下がすっかり埋まってしまったという鳥居だ。
埋没鳥居は島の東側、通りのすぐそばにあった。中学校の敷地内だが、気軽に見学できるようになっている。本で見たとおり、下の方は見事に地中に埋まっている。案内板によれば、本来の高さは3メートル。3メートルの鳥居が、火山灰によって笠木部分1メートルを覗かせるだけになっているのだ。
この鳥居を保存しようと決めたのは、当時の村長さんだ。埋もれた鳥居を残すことで、噴火のすさまじさを後世に伝えようとしたのだ。そして村長さんの思惑通り、鳥居は桜島の噴火の猛威を今に伝える記念碑となっている。
村長さんをはじめ、人々は桜島を恐れつつ、愛着を感じ誇りにしてきたのだ。埋もれた鳥居に、自然の猛威もさることながら、人間のたくましさを感じた。
島を出て錦江湾沿いに走る。道端で見かけた墓石には、火山灰よけか屋根がついていた。福山町(現霧島市)にさしかかると、つんとした匂いがしてくる。福山名産黒酢の匂いだ。酢を仕込むための黒い壺が並んでいるのも見える。
錦江湾の一番奥、隼人町(はやとちょう・現霧島市)で、鹿児島神宮に寄るためDJEBELを停めた。
鹿児島県というと明治維新の影響か、旧国名では薩摩の方が知られているが、実際は東の大隅国と西の薩摩国の二つでできている。その大隅国の一の宮が、鹿児島神宮だ。
鹿島、明治、熱田、伊勢、鵜戸などなど、神宮と名の付く神社はこれまでいくつか見てきたが、これまで見てきた神宮の中では一番ひっそりしている。しかし社殿は小さいながらも凝った作りで、丹塗りの社殿や、天井に描かれた絵の鮮やかさに目を奪われる。祭神は青島神社と同じ山幸彦。これを使って兄貴を懲らしめたという潮満珠・潮干珠が神宮の宝物として伝わっている。
錦江湾を回り込み、南に走っていくと、鹿児島市が見えてきた。鹿児島市はもともと薩摩藩の城下町として栄えた街だ。九州有数の港町でもあり往来も多い。街中には路面電車まで走っていた。
県庁は鹿児島市の中心部から少し離れたところにある。最近できたばかりのようで、新潟か茨城の県庁に似て背の高い庁舎である。
県庁食堂も広々として気持ちよかった。この日はマグロフェアということで、県内は枕崎の漁港に水揚げされたマグロを使った「マグロ香草焼き定食」を出していた。昼食はもちろんこれで決まりだ。
庁舎を写真に収めようとIXY310を弄っていると様子がおかしい。鏡胴(注5)ががたがた震えたかと思うと、それっきり動かなくなってしまった。いつもだったら電源スイッチを押せば「ウィ〜ン」という音とともに、鏡胴が前にせり出してくるのだが、何度電源スイッチを入れても出てこない。
そういや最近こいつは調子が悪かった。電源を切ってもレンズバリア(注6)が閉まらないこともあれば、鏡胴がなかなか元に戻らないこともあった。
このIXY310は、荒井が前職で賞与を頂いた時に、地元のカメラ屋さんで買ったものだった。もとは当時ぼちぼち普及し始めていたデジカメを見繕いに行ったのだが、高すぎて買うこともできず、かわりに別のコンパクトカメラを購うことにした。そこでカメラ屋さんの店長が勧めてくれたのが、このIXY310だったのだ。「大きくて明るいレンズを積んでますから、よく写りますよ!」と言っていたが、その当時は「まぁ、キャノン(注7)のIXYだし。」と、勧められるままわけもわからず買ったのを覚えている。
しかしこれがなかなかの当たりだった。小さいからどこへ持ち歩くにも荷物にならないし、レンズが明るいから屋内でもフラッシュを焚かずにガンガン撮れる。写りも悪くない。専門用語で言うところの「開放F値」(注8)のありがたみを教えてくれたのが、このIXY310だったのだ。
そういうわけで方々に持ち歩いては便利に使っていた。その流れで日本一周にも持参していたのだが、旅に出てからの酷使がたたったらしい。沖縄に渡る直前に昇天とは。荒井と長年連れ添ってきたIXY310も、沖縄を目前にさぞや無念だったに違いない。
沖縄へのフェリーは、鹿児島の新港に出入りしているが、フェリー乗り場は非常に分かりづらい場所にある。標識を頼りに探してみると、倉庫街の一角に埋もれるようにしてボロっちい建物が建っていた。港の管理事務所か何かだろうと見てみると、「第一待合所」「第二待合所」と、昔風の名前が付いている。
こここそ、探しているフェリー乗り場だった。あこがれの沖縄航路の発着点は、意外に地味だった。
運行表を確認してみると、出航するフェリーは一日一便。大島運輸(注9)とマリックスラインという二社が毎日交互に出航している。今日出航するのはマリックスラインの「クイーンコーラル」だ。途中奄美(あまみ)の島々に寄港しながら、丸一日かけて鹿児島港と沖縄の那覇港を結んでいる。出航は夕方なので、単車の受付も含めて余裕で間に合う。「沖縄まで二等船室一枚お願いします。」 ここまで来れば、もう行くしかない。
単車の受付は午後四時から、出航は午後六時過ぎだ。それまで雑事を済ました。デジカメを入れていたポーチの金具も壊れていたので、電気屋さんで買い換えた。店員さんにどちらからどちらまでと訊かれた。もはや慣れっこの質問だ。「山形からです。これから沖縄さ渡るんですよ!」と答えるのも喜ばしい。
街角では国道58号線の標識を見つけた。国道58号線は知る人ぞ知る日本最大級の「海上国道」だ。鹿児島から海を渡り、途中種子島や奄美大島に上陸しつつ、はるか沖縄は那覇まで続いている。荒井がこれから乗ろうというフェリーは、この国道58号線の海上区間を通ることになっている。
ガソリンスタンドで燃料も補給しておく。若い店員さんと、たまたま鹿児島弁の話になった。何を言っているか分からなくてと言うと、店員さんは「地方に行って、さらに濃い鹿児島弁を聞くと、自分もさっぱり分からないんですよ!」と笑っていた。
鹿児島を離れる前にもう一度白くまを食べようと喫茶店を探してみたが、なかなか見つからなかった。結局さっきの待合所の売店でまたカップ白くまを買って食べた。白くまともしばらくお別れだ。
午後四時に単車の受付を済ませた。「那覇行き」と書かれた航送券をDJEBELのハンドルにくくりつける。「クイーンコーラル」は貨客船なので、奄美や沖縄行きの物品や郵便物なども一緒に積み込んで運んでいる。自動車搭乗口付近では大型のフォークリフトが何台も入れ替わり立ち替わり、忙しく荷物を積み降ろししていた。邪魔にならないようおそるおそる船に近づき、係員さんの指示に従ってDJEBELを積み込んだ。あとは出航を待つばかりである。
日本一周の旅に出てから約一年。旅を再開してから約一月が経っていた。背にはザック、手には那覇への片道切符。今や自分は憧れ続けた沖縄行きの船の上にいる。日がだいぶん西に傾いた頃、大きく汽笛を鳴らして、船がゆっくりと動き出した。ついに本土を離れる時が来たのだ。
北国の人間にとって、想像上の存在でしかなかった沖縄。その沖縄が北国とも地続きであることも、もうすぐ証明できる。
注1:「照葉樹」:冬枯れしない広葉樹のこと。クスノキや椿など。特に大隅半島の照葉樹林はイスノキ、マテバシイ、タブノキなどからなる。
注2:「足止めを喰らう」:一応、裏道や抜け道の存在が知られている。閉門時刻以降にこっそり忍び込んで最南端人力到達を果たした方もいる模様。
注3:「多くの旅人を嘆かせている」:2007年4月、管理会社がロードパークウェイの廃止と南大隅町への譲渡を宣言し、ついに徒歩や自転車の旅人にも本州最南端への道が開かれた。
注4・「笠木」:鳥居の一番上の部分。横たわっている長いところ。
注5・「鏡胴」:レンズが収まっている筒のこと。
注6・「レンズバリア」:未使用時にレンズを保護するカバーのこと。コンパクトカメラで電源を入れるとカパっと開くあの部分。
注7・「キャノン」:本来「ヤ」は大文字。当時は「キヤノン」の「ヤ」が大文字だということは知りませんでした。
注8・「開放F値」:写真用語。レンズの明るさの目安。絞りを目一杯開いた状態で、レンズが光をどれぐらい通すかを示した数値。光が減衰なくフィルムに届く状態がF1。減衰が大きいほど数値は上昇する。基本的に明るいほど撮影の自由度が増すので、利用価値も高くなる。IXY310は開放F値2.8。一般的なズームコンパクト機が4とか5ぐらいなので、コンパクトカメラとしてはかなり明るい部類に入る。
注9・「大島運輸」:現マルエーフェリー。2005年6月に大島運輸より社名変更。